第6話 午前4時の返信
バイクが通過する音で目が覚めた。枕元に置いてあるスマートフォンで時刻を確認すると、午前七時三分だった。十代の頃は昼近くまで寝られたものだ。歳を取ると睡眠の質が悪くなると聞いたことがあるが、加齢のせいにするには早すぎるか。
昨夜は一時間ゲームをするつもりが、二時間もやってしまった。ゲーム配信者のように器用にキャラクターを操作することができないため、とにかくレベルを上げて体力や筋力を上げないと先に進めなかったのだ。
布団に潜り込んだのが午前三時近くで、すぐに眠りに落ちたから、四時間は眠ったのか。充分だ。大きく伸びをしてから、着替えた。日中はまだマシだが、朝晩の冷え込みは年末が近づいていることを感じさせる。用を足し、顔を洗いうがいをした。窓を開けて外の様子を眺める。青空が広がる気持ちの良い天気だったが、寒気が肌を刺した。冷えた空気を肺一杯に吸い込んでから、早々に窓を閉めてしまった。
湯が沸いた。スティックタイプのインスタントコーヒーを二本空けて、湯気が立ち昇る熱湯を注いだ。安っぽくはあるが、それなりの香りが立ち昇る。伊月はコーヒーにはこだわりがあるが、朝は時間を惜しんでインスタントで済ましていた。ミルクと砂糖をたっぷりと入れた。朝は糖分が必要だ。
パソコンを立ち上げ、ニュースを読んだ。火事や交通事故の映像、中学生が被害者となった殺人事件の容疑者が確保された報せ、広大な海のあちこちに汚物を捨てるが如く、世の中には悲劇が蔓延している。
一通り見終わり、メールをチェックした。
「ん?」
昨夜返信した依頼人から、もう返事が来ていた。送信時間を確認したら、驚いたことに午前四時二十八分とあった。
……相当、追い詰められているのか?
内容はすぐにでも連絡が欲しい旨がシンプルに訴えられており、電話番号が記載されていた。番号から、家電ではなく携帯電話だとわかる。
もう一度依頼内容を読んだ。依頼主の名前は
パソコンで時刻を確認すると、九時少し前だった。少し迷ってから、メールに記されている電話番号を押した。午前四時に返信をするくらいだ。早いということはあるまい。
二回目のコールの途中で、相手が出た。なんだか嫌な感じだ。
「……はい」
出たのは中年の男だった。この男が香田武雄だろう。喉の奥で声を出しているような喋り方だ。名乗らないのは、知らない番号が表示されたからだろう。
「もしもし、香田さんのお電話ですか?」
「そうですが……」
「わたしは伊月という者ですが……」
「ああっ……。わざわざ恐縮です」
香田は止めていた息を吐き出すように、一気に感情的になった。
「メールを読みました。相当困っておられるようですが……」
一瞬の沈黙の後、香田は絞り出すように語り始めた。
「……いろんな方にお願いしたのですが、ダメなんです」
「はい?」
「悪魔祓いを専門としている先生にも縋ったのですが、失敗しました」
「……つまり……、なにかがご家族に憑いていると?」
メールでは一人息子と書いてあった。
「そうですっ。そう言ってるでしょうっ」
「………………」
言ってはいない。メールで読んだだけだ。かなりヒステリックになっている。もともと精神力が弱い男なのか。それとも、大の大人からでさえも冷静さを奪うほどの事態なのか。
「失礼、しました。あの……」
「大丈夫です。お気になさらないでください」
「……すみません」
「それで、わたしに依頼したいのは、その息子さんに取り憑いているなにかを祓ってほしいと……」
「はいっ。そうです。その通りです」
「それでは、お宅に伺って様子を見させて頂きます。ご都合のよろしい日は……」
「今日はどうですか?」
「あ、今日、ですか?」
「ダメでしょうか?」
「いえ……。ダメってことはありませんが」
「それでは、お願いします」
「いや、でも、お住まいは……」
「ああ、そうか。そうですよね。世田谷区桜新町になるんですが、分かりますか?」
「あ、都内でしたら大丈夫です。それでは詳しい住所を教えて頂きますか」
香田は番地まで言った。スマートフォンのスピーカー機能をONにし、机に置いた。パソコンの地図サイトに言われた住所を入力した。
東急田園都市線桜新町駅の近くだった。サザエさん通りを進み、長谷川町子記念館の手前で左に折れたところだ。バスやタクシーを使わずに済む。
「それではですね……、午後の三時にお伺いするということでいかがですか?」
「はい。大丈夫です。お待ちしております」
通話を終え、香田の様子を反芻した。受け答えはしっかりしていたが、焦燥の中に怯えが混ざっていた気がする。やはり、嫌な感じだ。
桜新町までは、木場駅からなら九段下経由で一回の乗り換えで済む。三時と約束したが、一時間足らずで到着できる場所だ。急く相手を敢えて待たせる時間に設定したのには、ちゃんと理由がある。早めに現場に到着して周囲の土地柄を調べて、頭に叩き込むのだ。
探偵のように聞き込んで調査することはしないが、目に飛び込んでくる景色や、さり気ない会話から得られる情報は意外なほど多い。本当なら香田家の風評や由緒なども調べたいところだが、今回は時間がなさ過ぎる。とりあえず様子見の態を装って、本格的な除霊は次回に持ち越そうと計算していた。
これからの予定を決めると、すぐさま出掛ける準備をした。伊月の仕事着ともいえる黒で統一した服装になった。鏡で確認する度に、現場近くに着替えができる場所がほしいと思う。雰囲気作りとはいえ、この姿で公共の移動手段を使うのは、少し恥ずかしい。
大きな深呼吸をしてから、仕事道具が一式入っている鞄を手にして自宅を出た。
香田家を訪れる前に、周囲を散策した。その土地に馴染むと、念の流れというか気の動きが把握しやすくなる。考え方としては風水に近い。
二〜三軒の家を訪問し、香田家の場所を尋ねるふりをした。会話の主導権を取り、いかにもついでを装って、香田家の様子を訊いてみた。
収穫はそれほどなかった。昨今の都内では、親しい近所づき合いをしている方が珍しい。大して期待していなかったので、とくに気落ちしなかった。
そろそろ三時になる。香田家に向かって歩き出した。地図サイトに表示された道を頭に思い描いた。ここからなら百メートルと離れていないはずだ。
三時五分前に到着するように、歩調を調整しながら歩いた。前方に香田家が見えたとき、伊月の全身が粟立った。額や背中から汗が噴き出し、体を冷やす。だが体以上に冷やされたのは肝だ。香田家に近づくにつれ、精神に食い込んでくる圧力が凄まじくなっていった。
なんだこれは?
体を強ばらせるほどの悪臭が漏れ出て、玄関の前に着いたときには立っているだけでも気を引き締めなければならなかった。これまで経験したことのない圧倒的な霊気に戸惑った。いや、正直にいうとビビった。
だからといって、このまま引き返すわけにはいかない。どんな商売でもそうだが、信用を失ったら客は離れる。ましてや誰もがインターネットを利用する時代だ。敵前逃亡したなどとSNSなんかで拡散されたら、一人で細々と運営している個人事業など、あっという間に消えてなくなる。
幸いというべきか、今日は様子見で終わらせようと最初から決めていた。対策は後日考えるとして、どんな念が取り憑いているのか確認しなければなにも始まらない。
大丈夫だと自分に言い聞かせて、伊月はインターフォンを押した。
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