拾参ノ肴:改変

「芸術は、一向にわからんな」


賑やかな大衆酒場で、芸術には明るくなさそうな二人のサラリーマンが、特段価値のない話をしていた。

二人の間には汗をかいた茶色いビンと、金色の液体に満たされたグラスが2つ。

肴はほっけと小松菜のおひたしである。


「歴史やら背景やら、後ろにあるものも全部ひっくるめて理解しないといけないらしいからね。なにか、小難しい芸術品にでも触れたのかい」


聞かれた男は、グラスの中のビールを眺めながら答えた。


「いや、そういうんじゃないんだ。こないだ、ニュースで見かけて不思議に思ったんだよ」

「どんなニュースだい」

「若い芸術家が、巨匠の作った彫刻に色を塗った、ってやつさ」

「ああ、それなら僕も見たよ。確か、公園の所有者に依頼されてやったんだったか。頼まれたとはいえ、大胆なことをしでかしたもんだよ。彼、もう芸術関係ではやっていけないだろうね」

「そこさ。正直、何が良くなかったのか、うまいこと理解できないんだ」

「そりゃ、他人の作品に勝手に手を加えたら、駄目だろう」


男はほっけを一塊齧ると、ビールで流し込んだ。


「いや、何とはなしに、言いたいことはわかる。ニュースでも、街の人に話を聞いていたが、みな怒っていたよ。俺も似たような心持ちさ」

「なら、何が理解できないってのさ」

「例えば、音楽だよ。クラシックなんかは、指揮者によって同じ曲でも随分と変わるというじゃないか」

「確かに、そう聞くね」

「それはつまり、指揮者が巨匠の作品に、自分なりの色を付けているってことだろう?」


それを聞き、男は小松菜に伸ばしていた箸を止める。


「なるほど、言いたいことがわかってきたよ」

「そうなんだ。例えば他人のこしらえた絵画やら彫刻に手を加えたら、随分と怒られるだろう」

「下手を打てば、お縄につくこともあるだろうね」

「一方で、テレビじゃクラシックの曲調を改変したものなんかを平気で使ってるじゃないか」


伸ばしかけていた箸で小松菜を掴むと、鰹節とともに口に運んだ。

何事か考えながら、次の話を待っているようでもあった。


「音楽だけじゃない。落語なんかでも、噺家によって元の話に手を加えることもある。息子は昔からプラモデルに夢中だが、あれも元からある色をわざわざ取っ払って、自分で好き勝手に塗ったりしていた」

「プラモデルも、広い意味で彫刻のようなものだと言いたいんだね」

「その通り。大量生産されているものとはいえ、元の色だってどこかの誰かが、真剣に選んだものかもしれないじゃないか。それを、他者が勝手にいじるってのは、今回の件と何が違うんだろう、とね」


そこまで話すと、グラスを傾けて喉を潤した。


「聞く限り、いくらか思い当たることはあるよ」

「ぜひ、聞かせてくれ」

「まず、絵画や彫刻は、世界にひとつしかないものだ。それが汚損されれば、二度と元の姿を拝むことはできなくなる。反面、音楽や落語は、いくら改変されても原典が変わることはない」

「言われてみれば、確かに」

「いくらクラシックの曲調を変えてみても、大本は変わらずいつでも聴くことができる。おそらく、曲調を変えることに不快感を抱く人も多分にいるだろうがね」


納得しながらも、まだ腑に落ちないという様子の男を尻目に、話を続ける。


「もうひとつ。絵画や彫刻はそれそのものが主体になっていると感じたよ」

「説明してくれ」

「絵画も彫刻も、その作品に背景やら想いやらが込められているわけさ。もちろん、音楽やら落語も、込められてないわけじゃない。でもどちらかというと、後者の主体は人に移っているきらいがあると感じたんだ」

「音楽なら指揮者や奏者、落語なら噺家が、作品の主体ってことかい?」

「作品の、というよりかは、それを発表した空間かな。コンサートホールやら、壇上といった具合にね」


この話になってからずっと難しい顔をしていた男が、徐々に表情を和らげているようであった。

知らず眉の力が抜けつつある男は、ビールを呑みながら向かいの男の意見を自分なりに咀嚼する。


「息子さんの件も同じ気がするよ。プラモデルには、たしか原型となる大本があるから改変には甘いだろうし、あれはプラモデルを通して作者の内面を表現する、という楽しみ方をしてるんじゃないかな」

「なるほど、原典を侵すことが無い分野で、かつ第三者が作品を通じて何かを表現できる場合に、改変が許容されるって寸法なのか」

「恐らくは、そんな塩梅じゃないかな」


男の眉は、すっかりと緩んでいた。


「いやあ、すっきりしたよ。相変わらず、理路整然と説明してくれるんで、随分と納得しやすかった」

「いや、僕の方こそ、いつもいい頭の体操になってるよ」

「しかし、言われるまで原典の損失に思い至らなかったのは、恥ずかしい限りだ」

「そんなものだと思うよ。良し悪しを考えていると、いつの間にか思考を感情が支配しがちだからね」

「感情抜きに考えられるお前さんが羨ましいぜ」

「時と場合、さ。普通、他人と議論するときは感情を考慮すべきだ。僕みたいに機械的に対処すると、気分を害する人の方が多い。むしろ僕からすれば、感情に寄り添った考えができる君を羨むよ」


二人ともビールを干すと、互いに注ぎあった。


「無いものねだりってやつだな」

「違いないね」


そういって笑い合うと、冷めつつあるほっけを交互につまんだ。

酔っぱらい達はその先もしばらく話を続けたが、内容はころころと移り変わっていった。

意味のある話をしたいのではない。

こうした会話が、いい肴のひとつなのだ。

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