第8話 『風が運ぶ声』

 夜の静寂が街を包み込む頃、星降堂の扉がそっと開いた。


 「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、一人の青年だった。肩まで伸びた髪が夜風に揺れ、旅人のような雰囲気を纏っている。リュックを背負い、歩き慣れた靴にはわずかに土がついていた。


 「……珍しい書店ですね」


 彼は店内を見渡しながら、ふと足を止めた。


 「夜だけ開くんです。旅の途中ですか?」


 私の問いかけに、彼は小さく笑った。


 「ええ。でも、目的地はまだ決まっていません」


 「では、どこか行きたい場所が?」


 「……探してるんです。ある名前を」


 彼の視線はどこか遠く、そして迷いを含んでいた。


 「昨夜、夢を見ました。風の中で、誰かが名前を呼んでいたんです。だけど、誰の声かも、なぜ呼ばれたのかも分からない。ただ、その名前だけが、耳に残っていて……」


 彼はポケットからメモを取り出した。そこには、たった一つの名前が書かれていた。


 「それで、旅に?」


 「はい。不思議ですよね。でも、なぜか行かなきゃいけない気がするんです」


 私は静かに微笑んだ。


 「この店で選んだ本は、その夜、持ち主に『運命の夢』を見せると言われています」


 彼は少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて興味深そうに微笑み、一冊の本を手に取った。


 ◇◇◇


 数日後、彼は再び店を訪れた。


 「……夢を見ました」


 カウンターに立つ彼の瞳は、以前よりもはっきりとした光を宿していた。


 「風の中で呼ばれた名前。それは、昔の友人のものだったんです」


 彼はゆっくりと続けた。


 「小学生の頃、よく一緒に遊んでいた幼なじみ。でも、ある日突然引っ越してしまって、それっきり音信不通になった。彼がどこにいるのかも分からなくて、名前を呼ぶことさえ忘れかけていたのに……夢の中で、彼は確かにそこにいて、『探しに来いよ』って笑っていたんです」


 彼は深く息を吐いた。


 「だから、探してみようと思います。今度は、夢じゃなくて現実で」


 窓の外には、新しい風が吹いていた。


 ——風が運ぶ声。それは、忘れられた約束を再び紡ぐための呼び声だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る