第7話 『消えないインク』

 夜の帳がゆっくりと降りる頃、星降堂の扉がそっと開いた。


 「いらっしゃいませ」


 現れたのは、一人の女性だった。細身のコートを羽織り、肩にかかる髪を軽く払う。店内の柔らかな灯りの下で、その表情はどこか迷いを帯びていた。


 「ここ、夜だけ開くんですね」


 彼女は小さく微笑みながら、ゆっくりと本棚を見渡した。


 「ええ。少し変わった書店ですが、気に入っていただけたら嬉しいです」


 そう答えると、彼女はふとレジ横のガラスケースに目を留めた。


 「……この万年筆、素敵ですね」


 そこには一本の古びた万年筆が並んでいた。漆黒の軸に、金の装飾が施された美しい筆記具。だが、それはただの万年筆ではなかった。


 「それは、消えないインクの万年筆です」


 彼女は驚いたように視線を上げた。


 「消えない……?」


 「はい。一度書いた言葉は、どんな方法を使っても消えません」


 彼女は万年筆を手に取り、静かに指先で撫でた。


 「面白いですね。でも……怖くもありますね」


 彼女の瞳の奥に、一瞬迷いの影がよぎる。


 「もし、間違った言葉を書いてしまったら?」


 私は微笑みながら答えた。


 「それでも、消えない言葉だからこそ、大切に刻まれるのかもしれません」


 彼女は少し考えるように視線を落とした後、決意したように万年筆を手に取った。


 「……これ、いただきます」


 ◇◇◇


 翌日、彼女は再び店を訪れた。


 「夢を見ました」


 扉を開けるなり、彼女はそう呟いた。


 「どんな夢でしたか?」


 彼女はカバンの中から一冊のノートを取り出し、そっと開いた。


 「夢の中で、私は手紙を書いていました。でも、それは今まで一度も送れなかった手紙……大切な人に、ずっと伝えられなかった言葉でした」


 彼女はページを指でなぞる。


 「でも、書きながら気づいたんです。私はずっと、言葉を間違えるのが怖かった。だから、何も伝えられなかったんだって」


 彼女の瞳には、昨日とは違う確かな輝きがあった。


 「でも、夢の中の私は迷わずに書いていました。消えないインクで——伝えたい言葉を」


 静寂が店内を包む。


 「だから、今度こそ現実でも書きます。ちゃんと、伝えたい人に」


 彼女はノートを抱きしめるように持ち、深く息を吐いた。


 「消えない言葉だからこそ、大切に伝えなくちゃいけませんよね」


 私は静かに微笑んだ。


 窓の外には、朝の光が静かに差し込み始めていた。


 ——消えないインクが刻むのは、彼女の決意と、これからの未来だった。


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