第6話 『月下のワルツ』

 夜の帳が静かに街を包む頃、星降堂の扉がそっと開いた。


 「こんばんは」


 現れたのは、長身の男性だった。シンプルなシャツにスラックスという軽い装いだが、その佇まいにはどこか品のある落ち着きがあった。


 「いらっしゃいませ」


 私が微笑むと、彼は軽く会釈しながら店内へ足を踏み入れた。


 「少し変わった書店ですね」


 「夜だけ開く本屋ですからね」


 彼はゆっくりと店内を歩きながら、本棚を眺めていた。手に取ったのは、ダンスに関する本だった。


 「ダンスにご興味が?」


 私の問いかけに、彼は少しだけ微笑んだ。


 「ええ。昔、少しだけ……ワルツを」


 指先が本の背をなぞる仕草には、どこか懐かしさが滲んでいた。


 「実は、今日ふと思い出したんです。昔、ある人と踊ったワルツのことを」


 彼はふっと視線を落とした。


 「もう何年も踊っていません。でも、不思議と足が覚えている気がするんです。まるで、夢の中で踊り続けていたような感覚で……」


 その言葉に、私は静かに微笑んだ。


 「この店で選んだ本は、その夜、持ち主に『運命の夢』を見せると言われています」


 「運命の夢……?」


 彼は一瞬驚いたように私を見たが、やがて面白そうに微笑むと、そのまま本を手に取った。


 ◇◇◇


 翌日、彼は再び店を訪れた。


 「……夢を見ました」


 扉を開けるなり、静かにそう呟いた。


 「どんな夢でしたか?」


 彼は少し考えるように視線を落とし、やがてゆっくりと語り始めた。


 「月明かりの下で、ワルツを踊っていたんです。相手の顔ははっきり見えなかったけれど……どこか懐かしくて、心が震えるような感覚でした」


 彼はふっと息を吐いた。


 「夢の中で、相手は囁きました。『あなたのステップは、今でも覚えてる』と」


 彼の瞳には、昨日よりも確かな光が宿っていた。


 「目が覚めたとき、ある人のことを思い出しました。……かつて、ダンスを教えてくれた人のことを」


 窓の外では、風が静かに木々を揺らしている。


 「もう一度、その人に会いに行こうと思います。そして、できれば——現実のワルツを、もう一度」


 彼の言葉に、私は静かに微笑んだ。


 ——夢の中で踊る二人。そのステップは、現実でも再び重なるのだろうか。


 月の光は、彼の背中を優しく照らしていた。


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