第8話

 忘れ物に気付いたのは、七限目の授業を終えて職員室に戻って一息ついた後だった。


 クラスごとの授業の進捗をまとめようとしたときに日本史の資料集を最後に授業した五組に置いてきたことに気付いた。


 時計を見るとホームルームは少し前に終わっている頃合い。


 まだ熱いコーヒーをぐっと飲みほして職員室を出ると廊下には部活動に向かう生徒たちで溢れていた。


 各々の部活動のユニフォームに身をまとった青春臭い連中の間を縫うように進みすれ違う生徒たちの挨拶を適当に返しながら進んでいくと、徐々に生徒の数はまばらになっていき二年の教室がある三階へ上がる。


 職員室前とは打って変わって三階は静かなもので、一組、二組、三組の教室を通り過ぎるも教室に残ってる生徒はいない。


 もぬけのからの四組も通り過ぎて五組の教室に入ると、一人の生徒がカバンに教科書を詰めて帰り支度をしているのが目に入った。


 西日を背負って佇んでいるのは学ランを着た小柄な生徒。


 癖のある前髪に中世的な顔立ちの吹けば飛ぶような個性の極めて少ない容姿のこいつは夏休み明けすぐに俺にスマホを没収されて、母親が学校に乗り込んできた例の生徒こと楠田大樹くすだだいきだ。


 あれ以来、楠田が授業中にスマホをいじることはなくなったが、なんだか腫物を扱うように接してしまっている。


 俺は楠田を一瞥して教壇の引き出しに手を入れると、使い古されてくたくたになった資料集はまだそこにあった。


 これで目的は達成された。


「気を付けて帰れよ」


 無視するのは違うので、一言だけ残して帰ろうとドアに向かうと。


「あ、あの橋本先生」


 迷いの気配を多分に含んだか細い声が俺の脚を止める。


 楠田の呼び止めにひとつ息を吐いてから振り返り返事をする。


「なんだ」


「あ、いやそのぉ……話があるというか、なんというか」


 教室の床に視線を視線を泳がせながら、もじもじする楠田。


 そうだ。


 本来楠田は教師に隠れて授業中にスマホをいじるようなタイプではない。


 クラスでも目立つタイプの生徒でもないし、それなりに成績も良い。どちらかと言えば真面目に分類されるタイプ。


 授業で当てられたら小さな声でボソボソと答えるやつだ。


「話があるなら聞くぞ」


「あの、その……橋本先生、ごめんなさいっ」


 言葉の勢いそのままに楠田は頭を下げる。


「ちょ、なんだよいきなり。顔を上げろ、何があった」


 突然のことに俺は慌てて肩を掴み頭を上げさせると、楠田の目にはうっすら涙が浮かんでいる。


 いや、高三男子が簡単に泣くなと言いたい気持ちをぐっと抑える。


「ひっ……ひっ……」


 しゃくりあげるみたいに呼吸をする楠本を落ち着かせるために近くの席に座らせる。


 幸いにここは三階の最奥の教室だし忘れ物を取りに来たうっかり者教師以外に誰かが来ることはないだろう。


 こんなとこを他の誰かに見られたら、俺が楠田を泣かしたと勘違いされるじゃないか。


 まるで子供でも慰めるように楠田の背中をさすってやる。


 それから数分してようやく呼吸が整った楠田に俺はひとつの提案をする。


「楠田、グミ食うか」


「え、グミですか」


 ハトが豆鉄砲をくった顔というのを俺は見たことはないが、きっと今の楠本みたいな顔言うのだろう。


 口をパクパク目をぱちぱちさせている。


「むぎゅグミグレープ味」


「学校でお菓子は禁止なんじゃ」


「固いこというな、ほら」


「あ、ありがとうございます……え、橋本先生がグミ?」


 楠田は俺が手のひらに出してやってむぎゅグミを首をかしげながら口に入れてモグモグ。


 俺も一つ食う。


 ぷちっと音を立てて果汁があふれ出す。


 放課後の教室で担当教科の生徒とグミを食う。


 この先どれくらい教師人生が続くかわからないけど、そう何度もあることではないだろう。


 こんなこと少し前の俺には考えもつかなかったな。


 どこぞの紙飛行機娘のことが頭をよぎる。


「あの日、家に帰っていつもみたいにお母さんにその日あったことを報告してたんです」


 楠田はゆっくりと一言一言確かめる用に話し始めた。


 俺はせかさないように黙って会話の続きを促す。


「先生にスマホを取り上げられたことを言ったら、母さんに授業中に誰と連絡とってたのか聞かれて……」


 そこまで言って楠田の口は一度言葉を紡ぐのは止めた。


 それでも俺は沈黙を続けて見ていると楠田は覚悟を決めたように。


「実は僕、彼女が出来たんです!!」


 藪から棒になんか言い出したぞ。グミ効果か。


「その子は別の学校の子で、僕の人生初彼女だったんですけど、急に別れようって言われて。なにがなんだかわからなくて、僕はそれを断ったんですけど、何日も送ったメッセージが既読にならなくて。それで彼女からいつ返信がくるか気になって何度も授業中にスマホを見て確認してたんです」


 なるほど、かなり青臭い話だ。


 好きな子に送ったメッセージを見たくて教師の目を盗みながらスマホを見ていた。


「でも彼女のことをお母さんに知られたくなくて、なんていうかうちは過保護だから……どうにか話を逸らそうとして。先生にものすごくきつく怒られたって話をしたら、なんだか泣けてきちゃって」


 なんでそこで泣けてきちゃうんだよ。


 そりゃ高校生にもなる息子が泣きながらそんなことを言い出したら母親も気が気じゃないだろう。


「そしたら母さんが学校にクレームを言いに行くって言いだして。何度も別に大丈夫だからって言ったのに、言い出した母さんは止められなくて」


 そういうことだったのか。


 まるで下手くそな手品のタネを見たみたいな気分になる。


「理由はわかった」


 ここで楠田は顔を上げて、今日初めて俺の目を見た。


「良かったよ」


「……良かったって、どういうことですか」


「楠田が気に食わない奴を貶めるために嘘をつく奴じゃなくて良かったって意味だよ。俺はてっきり怒られた腹いせに母親にあることないこと言ったんだと思ってた。悪かったな」


「なんで橋本先生が謝るんですか。先生は僕のせいでたくさん頭を下げたって――」


どうでも良いんだよ。それに初めて彼女が出来て浮かれる気持ちも、親に彼女のことを知られたくない気持ちもわからなくもない」


 俺にもそんな甘酸っぱい青春があった……わけではないけど、ずっと野郎にまみれて部活ばっかりしてたけど、想像は難くない。


「それはそれとして。授業中にスマホはしまっておくように。あと、電源を切っておくように。特別扱いはしないからな」


「……はいっ!!」


 それからさらに泣き続けた楠田を宥めて俺は教室をあとにした。





「橋本なんかいいことあった?」


 職員室の隣の席に大量のノートを置いた中山が尋ねてきた。


「べつに」


「なんか表情に出てるぞ。幸せオーラみたいなの。あれか夏休み明けテストで自分の担当クラスの平均点が他のクラスより高かったか」


「いや、それはそうなら嬉しいけど……そんなんじゃねぇし」


「ふーん、なんにしてもそういう表情で仕事できるのは幸せなことだ」


 言いながら中山は提出物の山積みになったデスクに座る。


「こっちは色々あったってのに……」


「ん? どした」


「聞きたい?」


「いや、仕事溜まってるしべつに」


「聞いてください」


「くるしゅうない、続けろ」


「恩に着る」


 大げさに手を合わせて頭を下げる中山。


 こういう学生っぽい寒いやり取りをするのは大人になっても男は変わらない。


「この間の飲みの席でさ、大柴れいのこと話しただろ」


「あぁ、告白されたってやつな。もしかしてオッケーしたとかないよな」


「ないない、ちゃんと断った。気持ちは嬉しいけど、もし付き合うにしても卒業後だって」


「良いじゃん。それで」


「これ見てみろ」


 言って俺にスマホの画面を向けてくる。


 そこにはレイと書かれた女の子のLINEのアカウント。


 アイコンの写真には目がかなりデカくなる加工をされている大柴れいと思われる女子と坊主頭の男が頬をぴたっとつけてほほ笑んでいる。


「おかしいと思ったんだよ。俺が断ったらピタっと返信こなくてさ。普通は卒業まで待ちますとか、それでもお願いしますみたいなのくるだろ?」


「まぁ何かしらの返信はするよな」


「こっちは気が気じゃないから授業中にスマホチラ見してたってのに」


 ここにも授業中にスマホチラ見してる奴いるのかよ。


「そしたら数日後に大柴のアイコンが元野球部の井坂とのツーショットってわけ」


「高校生なんてそんなもんだよ。身体も心も新陳代謝のバケモノだから。昨日と今日が同じ考えや趣味嗜好とは限らん」


「オッケーしてたら今頃おれのツーショットだったのかも」


「教師と生徒のツーショットはまずいだろ。流出したら死ぬぞ。社会的に」


「俺が一生独身だったら橋本のせいだかんな」


「関係ない。次に向けて善処しろ」


 ぶつぶつ文句をたれながらも中山はノートチェックを進めていく。俺はその隣で授業の進捗の確認をする。


 現在の時刻はすでに17時を回っておりいわゆる定時は過ぎているが、仕事を家に持ち帰らないためにせっせと作業を続ける。


 そもそも俺が公私を分けたい気持ちもあるが、紛失による個人情報の流出を防ぐために仕事を極力持ち帰らないようにとの教育委員会から指導されている。


 ハラスメントコンプライアンスプライバシーモンスターペアレント。


 教師を始めてから横文字で好きなのはコーヒーくらいのもんだ。


 などと好き嫌い言ってみても仕事は進まないので、意識を再び授業の進捗管理に向けようとした時。


 さっきまで聞こえていた中山のペンの音がピタッと止まった。


「そういえばさ。日花里って生徒について聞いてきたよな」


「あぁ、知らないって言ってたな」


「あの時は知らないって答えたけど、あれから少し考えてたら、やっぱり知ってたわ」


「え、マジ」


「その日花里って生徒さ――」

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