第5話

 Pi…


 履歴から匠くんの番号を出して押す。

 ドキドキと心臓の音が五月蝿い。

 蝉の声も五月蝿い。

 だけど心臓の音と蝉の声のどちらかが五月蝿いかって言われても分からない。

 そのくらい、あたしの心臓は鳴っていた。



『……はい』

 眠そうな声で聞こえた匠くんの声。

 その声を聞いただけでもう充分過ぎる程、安心感を得ていた。

『誰……?』

 きっと着信が誰か見ないで電話に出たんだろう。

 あたしだって分かってなかった。



「……匠くん」

 恐るおそるそう口にした。

『まゆ?どした、こんな時間に?』

 驚きの声を出した匠くん。

 そりゃそうだよね。

 こんな時間に電話かけることなんかないもの。



『まゆ?』

 優しく語り掛けるようにあたしの名前を呼ぶ。

 それが嬉しくて愛しくて。



『どうした?』

 優しい声が愛しい……。

『なんかあったのか?』

 問いかけてくれる声がとても愛しい。

 今すぐに会いたい。

 そう思うくらい、愛しい。



「匠くん……」

 名前を呼ぶだけが精一杯のあたし。

 それでもなんとか自分の気持ちを伝えたかった。

 奥の奥に潜んでいる思い。

 ずっと抱えてきていた思い。

 聞きたかった思い。




 匠くん、如月先輩のこと──……。

 まだ、好き──……?




『今、どこだ?』

 匠くんがそう言った。

「え」

『家じゃねぇだろ。蝉の声がする』

「……ん」

『どこだ?』

「……公園。匠くんの家の近くの」

 そこまで言うと『すぐ行く』と聞こえて電話が切れた。

 匠くんの言葉通り、数分して現れた彼の姿に何故かほっとした。



「まゆッ!」

 走って来た彼は、息を切らすことなくあたしに近付いた。

 そりゃこの公園から彼の家までそんなに離れてないし、匠くんは運動神経がいいからそれくらいの距離では息を切らすことはないんだろう。

「どうしたんだよ?」

 あたしの顔を覗き込んだ彼は、心配そうな顔をしていた。


「まゆ?」

 だけどあたしは言えないまま。

 何をしに来たわけでもないし、何かあったわけでもない。

 あったにはあったんだけどね。

 あの麗さんの言葉がずっとあたしの中に引っかかってる。

 その所為であたしがこんなにも動揺している。

 学校でどんなことを言われても匠くんがいてくれるから平気。

 なのに、麗さんに言われたことはずっと引っかかっている。



「まだ気にしてんのか?」

 それが分かったのか優しい口調で言う。



 なんで分かったんだろう。

 あたしが考えていること、なんで分かったんだろう。



「それくらい分かる。お前のことちゃんと見てるんだから」

 ポンッと頭に手を置く匠くんに、胸がいっぱいになった。

 それでもあたしは口から何も言葉が出てこない。

 嬉しいのに嬉しいと言えない。

 素直じゃない自分にムカついている。

 匠くんはこんなあたしと付き合ってくれてる。

 それだけで充分じゃないって、言い聞かせてきたんだよ。

 そうじゃないとここまで持たない。

 あたしと匠くんの関係がここまで持たない。



 高校2年の夏は早く、もう8月の半ば。

 新学期が始まってすぐに付き合い出したあたしと匠くん。

 初めから分かっていたこと。

 匠くんが如月先輩を思ってるってこと。

 それでもいいって言ったのはあたし。

 だから我慢しなきゃいけない。

 匠くんの傍にいられる今を大切にしなきゃいけない。



 だけど……。

 もうずっと苦しい。



 麗さんに言われたことが酷く傷付いた。

 けど、麗さんの言ってることは当たってる。

 だから何も言い返せなかった。

 言うと壊れるような気がしたから。



 ずっと隣にいたい。

 匠くんを好きになった時にそう思った。

 この人の隣にいたいって。



 今、匠くんの隣にいられるこの状況はとても幸せなことだと思う。

 誰よりも匠くんの隣をひとり占めに出来るこの状況が、幸せなことだと思う。



 でも隣にいても苦しい。

 ずっと気付かないフリしてた。

 気付かないようにしてた。

 それがなんなのか、気付いているのに気付かないフリしてきていた。



 だから麗さんの言葉でそのに気付かされてしまって、このままでいい筈がないって、そう言ってる自分が出てきてしまった。



 



 それはあたしだけが一方的に匠くんを好きでいるからで、匠くんの心はあたしにはないから。

 だからそう見えるんだって知ってる。

 知っててもそれを行動に起こすことが出来ないでいる。



「まゆ?」

 深夜でもまだまだ暑い。

 昼間よりは涼しくはなっているけど暑い。

 静かな夜の中。

 少し汗ばむその空間で、あたしは考え込んでいた。



 ここままでいいワケない。

 匠くんがちゃんとあたしを見てくれていたことだけで充分じゃない。

 ここで匠くんの背中を押してあげれば、この苦しい思いから解放されるじゃない。


 別れてしまったらあたしはひとりになる。

 あたしの周りからは友達は去っていてる今、誰もあたしと話そうとはしない。

 あたしと見る世界が違う彼女たちと付き合うつもりもないけど、別れたらきっと上辺だけの付き合いが始まると思うけど、この苦しみよりはマシかもしれない。

 匠くんが苦しむよりはマシかもしれない。

 今もずっと如月先輩を思ってる匠くんにとってはそれが一番いいことなんだ。



「ねぇ……、匠くん」

 空を見上げて彼の名前を呼んだ。

「ん」

 顔を覗き込むようにしてくる匠くん。

 だけどその顔を見ないようにしてあたしは話し出す。



 今日、ここに来たのはそんなことを言う為ではなかった。

 会いたいからここに来た。

 だけどそう思ってしまった。

 匠くんの幸せの為に……。



「今もまだ如月先輩が好き……でしょ」

 その言葉に、匠くんは驚きの顔を見せたのを感じた。

 その表情を見ないようにして、あたしは言葉を続ける。



「初めっから分かってたことだけどね。匠くんの中には、今もまだ如月先輩がいる。知っててあたしは匠くんと付き合うことにしたんだもの」

「まゆ……」

 驚きの顔が悲しい顔に変化する。

 その顔の意味があたしには分からなかった。



「行ってきなよ」

「え」

「如月先輩のところに」

 匠くんの顔をじっと見た。

 悲しい顔。

 戸惑いの顔。

 それでもあたしは表情を崩すことなく続ける。



「夏休み、終わる前にもう一度会って来て話しておいでよ」

 その言葉は匠くんの背中を押すことが出来てるのかは分からない。

 だけどそう言わなきゃダメなんだ。



「まゆ……」

 あたしに触れようとした匠くんからスッと身を離し、後ろを向く。

「あたし、このままじゃ嫌。誰よりも匠くんが幸せでいてくれなきゃ嫌」

「まゆ……。お前……ッ」

「……じゃ、あたし帰る!」

 匠くんが何か言う前にそう叫んで走って行った。



 匠くんが追いかけてくることはなかった。

 それから夏休み中、匠くんと連絡を取る事はなかった。

 匠くんの方からメールや着信があっても無視し続けていた。

 あたしが傍にいない方がいいと思ったから。

 匠くんは如月先輩のとこに戻った方がいいと思ったから。



 2学期が始まるときっとあたしは周りから好奇の目に晒される。

 それでもいい。

 匠くんが笑ってくれるならそれでいい。

 ひとりでいることの辛さなんて対して苦ではない。

 匠くんの本当の笑顔を取り戻せるのならいい。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る