謎の胸章と彼
ワンピースに着替えた莉々華はうーんっと背伸びをした。
「このワンピース着やすくて良いなー」
少しゆったりとしていて地味ではなくとにかくシンプルだったので
着心地が良かった。
それにしてもーと莉々華は先程地面に落ちた胸章をポケットから取り出す。
見た目は学校でつけるような名札であり、
薄い灰色の刺繍の中に白い名前の記載されたカードが入っている。
ー井久田 菜実
「井久田 菜実ってだれのことなんだろう…」
もちろん、自分の名前ではない。だが、ここで突っ立って考えているとまた青年に何か言われそうだ。
莉々華はそそくさと廊下の端まで進んでいった。そして階段の上の方に向かって声をかけた。
「着替え終わったよ」
「ああ、終わったの?ちょっと待ってね」
莉々華は急がなくてもいいよと返した。だが、青年はなぜか急ぎ足で階段を降りてきた。
「急がなくてもいいのに」
しかし青年は莉々華を見た瞬間黙り込んでしまった。莉々華は数分の間、青年が
なんにも言わないので心配になってきた。
「ーー…ごめん、わたし、変だった?」
莉々華が気になって聞くと青年はブンブンと首を横に振った。
そしてにっこりと莉々華に笑いかけて口を開いた。
「うんうん。可愛い。似合ってるなって思って。」
「え…ーー」
なぜだろうか。にこやかに微笑んでいる大きな黒い目と白い歯、火照った顔は
誰かの面影があるようなーそんな気がした。
莉々華が呆然としていると青年は照れ隠しのためか、話を変えるためにトントンっと莉々華の肩を叩いて言った。
「それってもしかして名札?」
青年が疑問符を浮かべて指を指している。
それーとは莉々華の手が握る名札のことであるらしい。
「ああ、そうだけど。これ、何か知ってる?」
「え、これは学校の名札だよ。俺の行ってる学校の。波平高等学校のやつ。」
波平高等学校。どこかで聞き覚えがあるような気がした。
(いつだっけ…だれかが波平が、とか話してたような)
「って、もしかして転入生の井久田菜実さんなの?」
「え!?」
莉々華は素っ頓狂な声を出した。
「違うってば。これは、ただ拾っただけーー」
「嘘だって。だって名札は本人しか持たないものなんだ。
それにこんな新品。俺の見てみ?めっちゃ汚ないよ」
彼は自分のポケットから同じ名札を取り出したが、確かに汚れていて名前の字も
掠れていた。
「この間友達から聞いたんだよ。うちのクラスに転入生来るってさ!」
「いや、だからーー」
莉々華は慌てて説明しようとするが、この雰囲気では難しそうだった。
それに相応する証拠が全く無かった。
(確かに新品だし、でもわたしの名前じゃない。だけど転生でもよく別の誰かに
成り代わりとかあるし…)
「井久田さん?あ、これからは菜実ちゃんって呼べばいいかな?」
「ま、まって。クラスでは井久田さんでいいよ…」
さすがに学校のクラスでひとりだけちゃん付けは恥ずかしい。
「確かに、じゃあ井久田さんね!同クラ同士よろしくね!」
「え、あ、うん」
話が早すぎる。というもの、莉々華は彼の真っ直ぐすぎるが、早とちりに
追いやられ、結局転入生ということになってしまったのである。
(嘘でしょーーーーー!!)
✧
「ねえねえ!!お願いだから!わたし学校行きたくない!!」
「どうしたの、転入生でしょ、菜実さん」
「そうじゃなくて!!もう飽き飽きしてんの!!」
莉々華が無理やり青年の行く手を阻む。が、青年は懲りない。
「おーねーがーいーーーー!!!」
「どういうこと?そんなに勉強したくないのか?」
ぜえ、ぜえ、と息を吐き続ける莉々華に対して青年は疑問符を浮かべる。
「そうじゃなくて、わたしは井久田菜実じゃないってこと!!」
「証拠は?」
「ーーーー無いわけじゃない」
「じゃあ、何?」
「ーーーーー」
莉々華が黙り込んだので青年は勝ちだというように手を広げた。
「ほうら、無いんでしょ。というか、俺らもう三年生だよ?」
3年生。高校3年生といえば。莉々華は思わず唾を飲み込んだ。
「・・・受験生」
「どうしたの?そんなに深刻そうな顔して。」
「ううん。別に。てか、あなた、余裕そうな顔ね。」
「ああ、受験?だってさ、周りの奴ら、みんな大学行かないんだよな。」
「え、大学行かないの?」
「ああ。え、それが普通だよ。逆に菜実さんもそれが理由でここの学校に
来たと思ったんだけど。」
「どういうーー…」
そこで莉々華は言葉を切った。ー大学に行かない。つまりは就職するってことか。
確か、昔よく母が当時は大学に積極的に行く人も少なかったと言っていたような。
(だとしたらここは昭和?)
莉々華は有無を言わず続けて聞いた。
「ねえ、あなたはどうするの?就職するの?大学行くの?」
「そりゃあ、大学行くよ。俺は勉強したいし。」
「勉強したいの?」
「ああ。勉強楽しいじゃん。てか、食ってけないし。
うちの家は家庭的に厳しいからさ。父さんはパチンコばっかやるし、
母さんほぼひとりで働いてるんだよ。」
青年がそう言った瞬間、彼の横顔に窓から降り注ぐ夕方の太陽がうっすらとあたった。その横顔は少し悲しみを帯びたようなーそんな気がした。
✧
キーンコーンカーンコーン。
ーついに来てしまった。
莉々華は一人、黒板の前で日付をじっと見つめていた。
『1987年 7月9日 月曜日』
やはり莉々華の予測通り、ここは昭和時代だったらしい。生徒の髪型や様子、話し言葉を聞いている限り、なるほど莉々華の生きていた時代よりも知らない言葉や知らないことが多い。昨夜、さんざんあの青年に来いだのああだの言われたわけではない。ただ、最後の言葉が印象的だったから来ただけである。
『家庭的に厳しいからさ』
莉々華は全くそんなことを考えたことがなかった。気づいたら小学校に行っていて、あっという間に高校生。高校は自称進学校の私立だったからそれももちろん親が入学金に交通費は払っていたわけであるが、(もちろん、それ以外も払っていたに違いない)これが普通だと思っていた。いや、違うかもしれない。なぜか、学校に行くことが受け身状態だったから自分から率先して大学に行こうとも思っていなかった。
「むしろ、その逆でいい大学に行くためにっていうか、なんかみんなが行ってるから行かなきゃ駄目って思ってんだよね」
「あら?もしかして転入生の方かしら?」
莉々華がブツブツ言っていたのが聞こえていたらしい。振り返るといかにも真面目そうな女の子が立っていた。
「はじめまして、わたしは佐藤麻耶って言います。あなたは噂の転入生、
井久田さんよね」
「あ、はい。井久田菜実です。よろしくね、佐藤さん」
(凄い。昭和だとしてもスマホも無いのに情報網が早い。)
莉々華は感心した。
ーやがて佐藤麻耶と打ち解けられた莉々華は自分の席に着席した。
しかし隣の席の人が青年だったということに驚いた。
「あ、井久田さん。こんにちは。昨日ぶりだね。」
「ええ。そうね。」
彼とは短い会話で終わると担任の先生が教卓に来て出席簿で出席確認をし始めた。
「富岡由紀夫!」
「はい」
「斎藤あん!」
「はい」
(出席確認はあんまり今と変わらないだな。)
名前を呼んで生徒が返事をする。変わらない形式だった。そして青年の列が呼ばれていく。
「今井萌歌!」
「はい。」
「佐藤麻耶!」
「はい。」
先ほど話しかけられた佐藤麻耶さんだ。途端に莉々華は麻耶さんの席を把握した。
「石嵜樹!」
「はい。」
「ーーー」
「ーーーー・・・」
ーーーーーそしてしばらく経った頃のことだった。
「古森健二!」
「はい。」
(え。)
莉々華は口を思わずあんぐり開いた。
(ふるもり…けんじ?)
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