月面と触媒(サンプル)
うすしお
月面と触媒
病院から帰る道中にあった花屋に、私は暗闇で育つ花が売られているのを見た。
ダークブラウンの木造の小屋のような建物の中で、暖色の光がまるで謙虚な人を目立たせようとするみたいに、種入りのパックを照らしていた。
木漏れ日を描き写したようなゴッドの葉の隣で、ひっそりとその花の種が売られていた。種の入ったパックが端っこの壁に掛けられているから、売り物だという自覚がなさそうで、私は逆に気になってしまった。
暗闇で育つ花。
途端に、私は昔のことを思い出す。
私が、皆にとっての幸せを拒んできたこと。
人にとっての幸せが、分からなかったこと。
まるで闇の中とも言えるような道を探って、その末に、私はここにいるということ。
私にかけられた何気ない言葉も、忘れたわけじゃないけれど、一緒に思い出す。
私は、誰も私の選択を正解だと教えてくれない場所にいる。
壁に掛けられているパックを一つとって、そこに貼られている写真を見る。高く茎を伸ばして、黄色い花を咲かせている。他者の幸せを、知ろうとするみたいに。
この花を、
私はそう思った。
❁❁❁
「プレゼンの終了後に、廊下で急に気分が悪くなりました」
こういう場所を、高校生の時からずっと避けていたような気がする。落ち着いた室内で、大きめの机を隔てて、私は向かい合って六十歳くらいの女性の先生に症状を説明している。
「どんな感じで、気分が悪くなったの?」
子供でも大人でも安心できそうな声色で、先生は訊く。
「上司から業績を褒められたり、後輩との何気ない話で笑い合ったりして、普通の日常って感じだったんです。でも、幸せなはずなのに、急に涙が出てきて、苦しくなりました」
私は会社の廊下で起こったことを、思い出していく。
急に涙が出てきて、最初はそれを不思議に思うくらいだったのに、私から水分がすべて流れ出てしまいそうなほどに、さらに涙があふれてきたのだ。全身の毛穴が開いて、私の臓物が外気にさらされ、大事な心まで何かに貪られそうな感覚が、私を恐怖に陥れた。
先生は、手元のクリップボードに挟まれた紙に、私の言葉一つ一つを書き留める。
ここまで来て、私は言葉の重みを感じてしまう。私の発した言葉が、誰かにとって絶対的なものになってしまうこと。私はそれが、とても恐ろしいことのように思えてしまう。
それでも、私は言葉を紡ぐ。
そうしないと、ことはうまく進まないから。
「心因性のものじゃないかって言われて、受診しようということになりました」
そう言ってくれたのは露木くんだ。
露木くんの言うとおりだと、私は思った。
私はきっと、誰から見ても幸せだと分かるような生活をしている。若いうちに勉強をして、収入もあって、人間関係も良好で、人とのコミュニケーションは円滑に進む。仕事上で人と関わることは、それなりに楽しかった。
だからこそ、私は怖かった。
広がっていく人間関係の中で、相手の気に障る言葉を発していないだろうか、とか、私は私を等身大で認識できているだろうか、とか、心の中でそんなことを思っている私がいた。そのたびに、昔の記憶が再生されて、苦しくなった。
「人と関わることは、楽しいと感じていました。私は、人と関わることが好きなんだと思います。だから、その分、人と分かり合えなくて傷つけあうことになるかもしれないと想像してしまうんだと思います。些細なことで人を傷つけてしまうのが、怖いのかもしれません」
人生の環境が変化していく中で、私はうまく歩けていた。
でもどこかで、私は立ち止まりたかった。
私が幸せになっていいのか、私が仕事のできる人間だと評価されるほどの人間なのか、確かめる時間が欲しかった。
そんな気持ちが少しずつ堆積していって、今日になって、その気持ちが溢れかえってしまったのだろう。
受付で支払いを済ませて外に出ると、ビルの隙間を抜ける生ぬるい風が私を不安にさせた。電線の合間を縫うように私の目に夕陽が差す。
居場所を求めるように、私は露木くんに電話をかけた。
「どうだった?」
露木くんは、いつもの軽い口調を崩さない。
「やっぱり、ストレスによるものだったみたい。薬を服用するかどうかは、これからの診察で考えていきたいってことを話して終わった」
「そっか。お疲れさま」
露木くんは優しくそう言った。
私は、息苦しい地方の街から逃げるように上京して、大学の工学部を卒業し、光触媒を扱う企業に就職した。
光触媒は、光を照射すると触媒作用、つまり化学反応を促進させる作用を示す物質のことで、コーティング剤などで使われている。身近なものを挙げるのなら、外壁塗装とか空気清浄機とか、そういうものに使われている。
私は昔から、化学反応とか、物質が硬化する原理とか、そういう知識を取り込むのが好きで、それが社会に応用されていることを知るのが喜びだった。社会を構成する物質は、人間の数多の叡智の集合体で、私もその小さな一因になりたかった。
私の両親は、私が工学の分野に身を投じることを危惧していた。女性はもっと華のある職業に就くべきだという考えが浸透していたけれど、私は両親に成績表を押し付け、私がその道に行きたい理由を事細かに説明しているうちに、なんとか折れてくれた。
何気ない生活の中でひっそりと活躍している物質の一部に、私はなりたかった。人としてではなく、物質として、社会に溶け込みたかった。そんなことは、面接みたいなところで公にできる欲望ではないけれど、私はそんな、何でもない日常で横たわっている物質のことが、羨ましかった。
病院の帰りに電車に乗って、私はもう夢をかなえてしまったのかもしれないと、そう思った。私に残っているのは、他人に接することへの難しさとか、配慮とか、そういうものだけだった。昔の私が今の私を見たら、失望するだろうか。
私が私として生きていける場所として選んだ東京の風景も、今はもう、輝いては見えなくなり、ただそこに風景があるだけ、といった印象になってしまっていた。
恵比寿駅を降りて、ぞろぞろと人が往来している中、私は気を張り詰める。そうでないと、この体を保っていられないと思った。
歩いていると、人の往来が少ないこぢんまりとした道で、私は花屋さんを見つけた。夫婦で経営しているのだろうか、せっせと手入れをしている様子がうかがえた。
入口には、私を出迎えるようにネモフィラやミヤコワスレのような小さな花々がしめやかに咲いていた。
人の姿は少数で、ここにいる人達は、生活の一部に花を添えようとしている人なのだと思うと、少し面白かった。日常に添えられる花は、あってもなくてもいいくらいのものとしか認識していなかった。だけど今、私も少しだけ何かを添えてみようと思った。吸い寄せられるように、私は粛然とした店内へ入っていった。
そこで、私は暗所でも育つ花を見つけた。
「ただいまー」
「おかえりー」
歩いてリビングへ向かうと、露木くんはソファでサブスク配信されているドラマを見ていた。ネットで創作者として活動している露木くんは、アニメもドラマもジャンル問わず作品に触れている。よくビックサイトとかに向かってフリマで出品もやっていて、私も少しだけその準備を手伝ったことがある。
リビングを見渡して、本棚とか食器棚とかベッドとか、当たり前だけれど、入居してきた頃よりも物が多くなったなと思う。でもどれもこれも、生活のための必需品でしかない。
壁に立てかけられたベージュ色の本棚は、片方は露木くんのスペースで、イラストツールの解説書や製本のための書籍、数々の小説や漫画が収まっている。私の方は、反応速度論の専門書とか英語の資格についての本とか、金属についてのデータブックとか、そんな本ばっかりだ。私はこの中に花を加えるのだと思うと、なんだかこの部屋に小さな革新が起こるような気がした。
露木くんは、恋人という間柄でも何でもなく、生活を乗り越えるための協力者といった存在だ。私は昔にトラウマを抱えてから恋愛というものができなくなっているし、露木くんは自分がゲイであることを認識している。私と露木くんはお互いに中学の頃からの友達で、私たちはお互いに恋愛感情と呼べるものを抱いたことがない。
でも私たちは、地方の狭い世界から、とにかく抜け出したかった。私も露木くんも、自分が自分でいられる場所を求めていた。だから、二人で協力して生きていこうと考えたのだ。
私たちのしてきた選択は、多分普通のものではない。お互いに収入が安定してくれば、この生活ももうすぐ終わりを迎えるだろう。
「露木くん、帰りに駅前の花屋さんに寄ったんだけど、そこで、お花の種買ってきたんだ。たまには花を育ててみるのもありかなって思って」
残念ながら私にはそこら辺の知識に乏しかったから、家庭力のある露木くんに助けてもらおうと思った。
露木くんはドラマを止めて、私が袋から取り出した種のパックを見た。
「暗いところを好んで育つらしいの。なんか、面白くて」
「ふーん、なるほどね。植木鉢とか肥料とか、いろいろ買わなきゃな。うちにあったっけ?」
首を傾けて、露木くんは私に訊いた。
「いや、なかった気がする」
「んじゃ、買いに行こうか。ホームセンター行けばあるでしょ」
私たちは近くのホームセンターで、買った花を育てるのに必要なものを探した。日が沈んでくる頃だった。
棚の前でしゃがんで土を選んでいる露木くんが、触れにくい話題に指を添えるようにして、言った。
「やっぱ、昔のことをぶり返した感じ?」
私はちょっとだけ考えて、言った。
「そうみたい。幸せだから、逆に怖いみたいな」
私は、小さい声で言った。私の根幹部分を説明することに慣れるときは、いつまで経っても来ないのだと思う。
「そっか」
「私、人と協力して何かを作り上げるのって、楽しいと思える節があるんだと思うの。でもどこかで人と関わるときに、人を傷つけないようにって考えてるところがあって。でも、成功するときは、出来てしまうんだと思う。自信過剰かもしれないけど」
私は少しだけすんでいる白い床を見下ろして、言った。
「いや? 実際そうだと思うよ。香春が無理して頑張ったときに限って、割とすごいこと成し遂げたりするじゃんか」
露木くんは当たり前の事みたいに、培養土の成分表を見ながら言った。
「私、そんな無理してる?」
「俺にはそう見えるけどねー」
これでいいんじゃない? と、露木くんは培養土の入った袋を私の持っているかごに入れた。
「もうちょい、肩の力抜いた感じで生きてもいい気がするけどね」
「できたら苦労してない」
「そうだな」
ちょっと笑って露木くんは言う。
「まあ、ちょっとくらい休んでもいいんじゃない? ゴールデンウイークもあるんだしさ、有休もあんま使ってねえだろ?」
「まあ、そうだけど」
「そんでさ、旅にでも行ってみたら?」
真面目なことしか考えきれない私に、露木くんはいつも大胆な提案をしてくる。
「その金は誰が出すの?」
露木くんは、うっ、と痛いところを突かれたみたいな顔をする。
「でもさ、少しは休めって体が訴えてんだよ。今まで真面目にやってきたじゃんか。休んだところでバチは当たんないよ」
私と違って露木くんは、軽く言葉を発する。それでも言っていることは的確で優しくて、全然嫌な感じがしない。私には、とてもできないことだなと思う。
❁❁❁
「発作が起きた原因に、昔のことが関連している気がするんです」
露木くんとの会話を思い出しながら、私は先生に告げる。
「それは、どんなこと?」
先生は優しく訊き返した。ふと、色んな患者の話の聞き手になっている先生には、私の話がどのように聞こえるのだろうと、気になった。
「私、高校の時に、少しの間だけ彼氏がいたんです」
月面と触媒(サンプル) うすしお @kop2omizu
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