放物線の根元より
名月 楓
放物線の根元より
社会というものは足が取られる渓流であるのです。私たちはその流れに掬われてしまうのです。理不尽を嘆き、虚空に目をやるようになってもそれは何にも変わりはしません。だから僕は反芻するのです。
『人は投機的存在である』
私は自ら敷いたはずのレールを順調に歩いてきました。学ぶことに余暇を注ぎ、空欄を埋める行為は作業にさえなっていました。しかして自分を満たすものは空虚ではなく、そこに確かに存在はあるのです。ではさぞ順風満帆な人生なのでしょう、と言われたら、私は絵を切って貼り付けたような笑顔しかできないのです。常に空は鈍色で、見える景色は埃がかっていました。
放課後の教室、いつものように残って勉強をしていると廊下から愉しげな笑い声がして思考を鈍らせました。僕はペンを一度放り、わざとらしい深呼吸をしてから、再び解を与えました。方程式を解くと出てくるいくつかの解に、それぞれ彼らと自分を当てはめて仄暗い愉悦に頬を染めていたのです。ややもすると、次は廊下からカツカツという音がしてガラガラという音と共に担任が入ってきました。私は彼が嫌いでした。それはうまく言葉にできないですが、快活明朗たる彼の瞳が私の心を抉り取っている気がするのです。故に彼が持つ倫理の科目も億劫で、特に彼が力を入れている近現代の思想は血肉すらも拒否している有様でした。そんな彼は私の領域に踏み込むなり、ずっと勉強ばかりしているのか、と意味のわからない質問を投げかけてきました。その上に、お前は将来何をしたいんだ、という脈絡のないことまで聞いてきました。彼みたいな人を先生と呼ぶには非常に苦労しなければならないなと副音声をつけながら当たり障りのない返事だけを見繕って主音声にしていると再びごちゃごちゃと訳の分からないことを言ってきました。賢い者が徳をするという基礎原理も理解できない大人が教鞭を振るうことにだんだんと苛立ちが湧いてきました。終いには、倫理をよく学びなさい、などとポジショントークを繰り広げ、やっと解放された頃にはノルマが終わらないまま帰宅時間に差し掛かっていました。その帰り道の足取りはやけに重かったことを覚えています。
この日のこと、考え方を思い出したのは過去からの放物線に目をやる機会を作ったからでしょうか。
当然の如く受験が順調に終わった4月、ここで初めて周囲に馴染めないことに気付きました。賢くなり、相応の場所に行けば相応の人物が物静かに学問に励んでいるというのは私の中だけの空想でした。そのことにショックを受けて端で黙々と授業を受ける日々が続いていると、もう一人の私がそこにいました。それは自分にとって曇天から差し込む陽光であって、まさに求めていた者でした。彼に声をかけていくつか話をするようになりました。しかし、陽光はすぐに雨粒へと変わったのです。彼は非常に図太く愚鈍で常に他人を下に見ていました。彼と話すたびに僕は皮を一枚一枚剥がされ針を触らされているようでありました。このような苦痛を味わったのは他にも理由がありました。それは初めて私を俯瞰してしまったからです。彼は私の写し鏡だったのです。その事実を受け入れられずに、私はハリネズミから離れられず、おそらく彼もハリネズミから離れられませんでした。その時に私の世界は鈍色の空ごと全て砕けて星あかりひとつない漆黒に至りました。そして私を満たしていた何かが消え、ついに空虚をこの身に宿してしまったのです。
それからの日々は惨憺たる者で、かろうじて人であった程度でした。そんなある日、食堂の前の講演場に人だかりができていて、珍しく足がそちらに向いたので様子を見てみることにしました。中を覗くと壮年の教授がマイクだけを持って延々と講釈を垂れていました。下らないと思いすぐに離れようとした時に聞こえた言葉で僕は石になりました。
「君たちは将来何をしたいですか?」
「『人は投機的存在である』、これはサルトルの言葉ですが、要は何を言いたいかというと、『私の望む未来を得るために、私自身をそのためのレールへと投げ飛ばすべきである』ということを言いたいのです」
「しかしこのためには『夢』や『目的』が必須になります」
「今みなさんにはそれらがありますか?」
「それらをはっきり意識して、そのための行動を起こせていますか?」
「それらがない人は、どこかで挫折した時に空虚な存在になってしまいます」
「みなさん、今一度自分を見つめ直してみてください」
その日から私の空には色が宿った。
放物線の根元より 名月 楓 @natuki-kaede
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