第七章 破滅の淵
インターホンの音が、本城のアパートに静かに響いた。
真希は胸の鼓動を感じながら立っていた。シックなグレーのワンピースに身を包み、ショルダーバッグを握りしめる。深呼吸をひとつ。今、踏み出せば、もう戻れない——そんな直感が全身を包んでいた。
ドアが開き、本城が笑顔で迎え入れた。白いシャツにジーンズという気負いのない装いが、彼をいつもより若々しく見せていた。
「来てくれてありがとう」
真希は小さく頷き、部屋へと足を踏み入れた。整然とした室内には、壁一面の本棚、大きな机、窓際のソファ。典型的な作家の空間だった。
「お茶? それともワイン?」
「ワインをいただくわ」
赤ワインの注がれたグラスを手に、ソファへ腰かける。窓の外には、暮れなずむ東京の街並みが広がっていた。
「昨日のこと、本当にありがとう」
「気にしないで。水野も、半分は納得してくれたと思う」
「でも、リスクを背負ったのはあなたよ」
「君のためなら、もっと大きなリスクでも背負う」
その言葉に、真希の胸がじんわりと熱くなった。
「それで、話したいことって?」
本城がテーブルの上のゲラ刷りを指した。『影を縫う女』――最終校正版だった。
「これが最終確認分。編集者には私の作品として通してある。君の匿名性を守るために」
「そこまでしてくれるなんて……」
「当然さ。でも、これは一時的な対処だ。いずれ君の名前で出版すべきだと思ってる」
本城は出版契約書を差し出した。
「匿名のままで次作を出す準備も整ってる。編集者も乗り気だ」
言葉を失った真希は、感極まって本城の名を呼んだ。
「亮介……ありがとう」
「君の才能は、世に出るべきだ」
視線が絡み合い、二人の距離が自然と縮まっていく。
唇が触れそうになった、その瞬間。
スマートフォンが鳴った。
「ごめんなさい」
画面には「美月」の名前。
「もしもし、美月?」
「お母さん、すぐ帰ってきて。お父さんが警察と一緒に戻ってきて……家中、探してるの」
「なにを……?」
「わからない。でも、お母さんの書斎も……」
「すぐ帰る。何も言わないでそのまま待ってて!」
電話を切った真希は青ざめた。
「何があったの?」
「大輔が警察と一緒に……何か探してるの」
「君が情報提供者だと疑われてるのか?」
「たぶん」
「一緒に行くよ」
「でもあなたまで巻き込みたくない」
「遠くから見守るだけでもいい。何かあれば駆けつける」
感謝の頷きと共に、二人はタクシーに乗り込んだ。
マンションに到着し、本城を少し離れた場所に待たせてから真希はエレベーターに乗り込んだ。心臓の音が、自分の中でやけに大きく響いていた。
玄関のドアを開けると、異様な静けさの中に警察官と大輔の姿があった。美月の姿は見えない。
「ただいま」
「おかえり。どこにいた?」
大輔の声は冷たく、凍るようだった。
「仕事よ」
「篠原真希さんですね」
私服の男性が名乗った。
「経済犯罪捜査課の佐藤です。少しお話を」
「どうぞ」
「先日送られた匿名の情報提供、かなり内部的な内容でした。……お心当たり、ありますか?」
「私は……何も知りません」
大輔が苛立ったように言った。
「添付されていた写真は、うちのデスクだったんだ」
「見たことないわ」
そのとき、美月が部屋から出てきた。怯えた表情で、真希に駆け寄る。
「大丈夫よ。誤解があるだけ」
「佐藤さん、少し家族で話させてもらえますか?」
大輔が頼んだ。
「明日、署にいらしてください」
警察が去ったあと、三人に沈黙が訪れた。
「美月、部屋に……」
「いや。私も聞く」
毅然としたその姿に、真希も驚いた。
「知ってるよ。お父さんのことも、お母さんのことも」
「どういう意味だ?」
「お父さんのデスク、私が見たの」
「君が……」
「お父さん、最近おかしかったから。証拠を探したの」
「それから、お母さんの小説も読んだ。『影を縫う女』も」
「どうやって……?」
「パスワード、私の誕生日だった」
「まさか、警察に?」
「違う。何もしてない。でも、お母さんには全部話そうと思ってた」
重たい沈黙が三人の心を徐々に冷やしていった。
「もう嘘はやめましょう」
真希が口を開いた。
「あなたと水野さんのことも、全部知ってる」
「水野とは不倫じゃない」
「じゃあ何なの?」
「彼女は……僕の妹だ」
「……妹?」
インターホンが鳴り、ドアを開けると水野が立っていた。
「兄さん、もう隠さなくていい」
水野の一言が、全てをひっくり返した。
水野は異母妹だった。大輔の父の再婚相手の連れ子。アカツキ企画は彼女の財産管理のために作られた会社だった。
「でも、それって脱税では?」
「グレーゾーンよ。合法とは言い切れないけど……」
「私を避けたのは、そういう理由?」
「恥ずかしかった」
大輔は視線を落とした。
「全部を話す勇気がなかった」
水野が言った。
「妨害したのも、あなたに近づきたかったから。本当は守りたかったの」
「なんて勝手な理屈……」
「でも今は、全部話したい。あなたと協力したい」
「今さら……」
「お母さん」
美月が囁いた。
「聞いてあげて」
真希は深く息を吐いた。
「……分かったわ」
四人はリビングで向かい合い、すべてを話した。
大輔は正直に話した。不正経理の事実、父の影、水野との関係。追い詰められ、孤独だったこと。
「君にだけは汚い自分を見せたくなかった」
「でも、そのせいで全部が崩れたのよ」
「明日、警察で全部話す」
「私も行く」
水野が言った。
真希は彼らを見ながら、複雑な思いを抱いていた。復讐の計画は、思いがけない方向へ展開していた。
「実は……」
美月が口を開いた。
「『影を縫う女』を投稿したの、私なの」
「……え?」
「お母さんのパソコンから、半年前に見つけた原稿を、こっそり送ったの」
「なぜ……?」
「お母さんの才能を世に出したかったから。ずっと、誰かのために生きてたのを見ていたから」
真希は娘を抱きしめた。熱い涙が、静かに頬を伝った。
そのとき、電話が鳴った。本城だった。
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫。全部、分かったわ。また連絡する」
電話を切ると、大輔が尋ねた。
「誰?」
「作家さんよ。仕事の話」
「明日からどうなるの?」
「警察に正直に話す」
真希は、黙って頷いた。
彼女が始めた復讐は、もはや復讐ではなく、真実への扉を開く鍵だった。
「私も行くわ。家族として」
夜更け、三人は重苦しい沈黙の中にいた。
「もう、寝ましょう」
美月は真希に「おやすみ」と言って、自室へ向かった。
「真希、本当にごめん」
「失望したわ。でも……ここから新たにやり直しましょう」
「本当に……?」
「美月のために」
真希は書斎のソファで、本城にメッセージを送った。
『状況が複雑だけど、明日会って説明するわ。ありがとう。そして、ごめんなさい』
すぐに返信が届いた。
『理解している。いつでも力になるよ。君の選択を尊重する』
スマートフォンを胸に抱き、真希は天井を見つめた。破滅の淵で、かろうじて踏みとどまった感覚。
彼女はノートを開き、書き記した。
『彼女は長い間、完璧な仮面の下に隠れていた。しかし今、その仮面が砕けたとき、彼女は初めて自分自身の顔を見た。それは傷つき、疲れた顔だったが、同時に希望と強さに満ちていた』
それは、小説の一節ではなく。
彼女自身への、祈りに似た手紙だった。
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