第六章 崩れゆく仮面
霧雨が窓を伝い落ちる音が、真希の神経をじわじわと刺激していた。彼女はリビングのソファに座り、スマートフォンの画面を見つめている。指先が送信ボタンの上で止まり、決意の瞬間を待っていた。
『文学新潮』掲載まで、あと一週間。匿名小説「影を縫う女」は、彼女の新たな人生の扉をこじ開けようとしている。
深く息を吸い、真希はついに送信ボタンを押した。
匿名アカウントから、篠原建設の監査役と警察の経済犯罪課宛に、不正経理の証拠を送信する。添付ファイルには、架空会社「アカツキ企画」への資金の流れ、大輔の署名入り書類、水野の関与を示すデータも含まれていた。送信後、真希はスマホを伏せ、背もたれに身体を預ける。
何かが壊れ、そして解き放たれた気がした。
「お母さん、起きてるの?」
美月の声が静寂を破った。振り返ると、娘が寝間着姿で立っていた。時刻は午前一時。
「水飲みに来ただけよ。どうしたの、お母さん、顔色悪いよ」
「少し仕事のことを考えてただけ。もう寝なさい」
「また小説書いてたの?」
「ええ、そんなところ」
美月はじっと母を見つめる。
「見せて。参考にしたいの」
真希はためらい、本城に渡した原稿のコピーを渡す。
「これだけよ」
「ありがとう。明日読むね」
娘が部屋に戻ると、真希は胸を撫で下ろした。
翌朝、大輔は「重要な会議がある」と言って早々に出て行った。彼の背中を見送りながら、真希は心の中で静かにカウントダウンを始める。
通勤電車の中、本城からメッセージが届いた。
『今日、時間はありますか? 新たな話を共有したい』
『お昼にアンダンテで』と返し、スマートフォンをしまった。
出社すると、編集部に妙な緊張感が漂っていた。田中が駆け寄る。
「聞きました? 『影を縫う女』の作者、社内の誰かじゃないかって噂です」
「どうしてそう思われてるの?」
「文体分析や、社内回覧された作品との一致があるらしいです。水野さんが調査始めたとか」
真希の胸が凍った。
水野がゆっくりと近づいてくる。
「おはよう、篠原さん。最近、文学誌が騒がしいわね。匿名作家の件、気にならない?」
「いいえ、特には」
「そう。プロ並みの文章らしいわよ。まるで誰かが仮面をかぶって書いたみたいに」
その言葉に何かを感じながらも、真希は微笑んでやり過ごす。
昼休み前、真希はもう一つの計画を実行に移そうとする。水野の婚約者に送る証拠写真と記録をまとめていた矢先、スマホが鳴った。
「篠原真希さんですね。警視庁経済犯罪捜査課の佐藤と申します」
真希の心臓が跳ねた。
「篠原建設の不正経理に関する情報提供があり、確認のためお電話しました」
「申し訳ありませんが、私は何も知りません」
「そうですか……。何かあればご連絡ください」
電話を切った後、真希の手は小さく震えていた。早くも捜査が始まっている。
アンダンテに到着すると、本城が心配そうに待っていた。
「顔色が悪いな。何があった?」
真希は警察からの連絡、水野の動きについて話した。
「早すぎる展開だな。君は慎重に動いたんだ、恐れることはない」
「でも……怖いの」
「俺が守る」
彼の力強い言葉に、真希の不安が少し和らいだ。
本城は続けた。
「水野が『影を縫う女』の作者を追ってる。俺が実験的に書いたことにしてる」
「そんなことさせられない」
「構わない。それくらいのこと、喜んでやる」
その時、彼のスマートフォンが鳴った。出版社からだった。
「すぐに行かないと。水野が俺の過去原稿を持ち出して照合し始めたらしい」
「一緒に行く」
「いや、君が同行すれば疑いが深まる。今は分かれて動こう」
彼の判断に従い、真希は店に残った。
編集部に戻ると、田中が走り寄ってきた。
「水野さんが本城先生が作者じゃないかって騒いでます!」
「そう……」
真希は微笑み、机に向かった。
夕方、大輔から電話が入った。
「会社に警察が来た。調査が始まったらしい」
「そう……私には何もわからないけれど」
「今夜は帰れそうにない」
「分かったわ」
帰宅後、美月が原稿を手にして出迎えた。
「お母さん、すごく良かった! でも……これ、お父さんがモデルなの?」
「違うわ、フィクションよ」
「でも……お父さん、最近変だもん」
真希は娘の手を握った。
「あなたも味方でいてくれる?」
「もちろんだよ」
夜遅く、本城から電話が来た。
「なんとか疑惑は収拾したよ。水野は納得していないけど、上層部は信じてくれた」
「ありがとう……本当に、ありがとう」
「明日、アパートで話したい。人目がある場所は避けたいんだ」
少しだけ沈黙が流れた後、真希は答えた。
「わかった。行くわ」
電話を切った後、廊下に立っていた美月が口を開いた。
「さっきの……編集者さん?」
「ええ、仕事の話よ」
「楽しそうだったね」
真希は笑みを浮かべた。
「好きな仕事だから」
美月は何かを飲み込んで「おやすみ」と言って部屋へ戻っていった。
その夜、真希はベッドの中で眠れずにいた。崩れゆく仮面、その向こうにあるものを、彼女は見据えようとしていた。
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