第八章 闇夜の啓示

 雨の音が、警察署の面談室に静かに響いていた。真希、大輔、水野詩織、そして佐藤刑事。四人の間に流れる沈黙は重く、しかし奇妙に清らかだった。


「これが全てですね」


 佐藤がペンを置く。


「篠原さん、水野さん、正直に話してくれたことは考慮されるでしょう」


 大輔はうなだれたまま、小さく頷いた。


「責任は取ります」


「検察との協議になりますが、自己申告と実害の軽微さは有利に働くはずです」


 真希は隣に座る夫を見つめた。かつての自信に満ちた彼は影を落とし、別人のように見えた。


「奥様」


 佐藤が視線を向けた。


「あなたは今回の件をご存知なかったと?」


「はい。昨夜初めて知りました」


 それは半分の真実だった。彼女の中で、真実と嘘の境界線は、もはや曖昧だった。


「情報提供者については特定には至っていませんが、内部の人間であるのは確実です」


 三人は黙ったままだった。


「手続きについては改めて連絡します。篠原さん、当面の間は出国を控えてください」


 署を出ると、雨は止み、淡い光が雲の隙間から差していた。三人は無言のまま駅へと歩き出す。


「真希」


 大輔がつぶやいた。


「本当にごめん」


 真希はただ前を見据えて歩き続けた。水野が遠慮がちに口を開いた。


「私も謝るわ。あなたに嫉妬して、意地悪もした。兄さんへの歪んだ気持ちから……」


 真希は歩みを止め、二人を見つめた。


「謝らないで。私もあなたたちに嘘をついていたから」


「どういう意味だ?」


 大輔が眉をひそめる。


「後で話すわ。まずは美月を迎えに行かなくちゃ」


 三人はそれぞれ別の方向へと歩き出した。


 学校前で真希はスマートフォンを取り出し、本城へメッセージを送る。


『今日の夕方、会えますか? すべて話したいの』


『アンダンテで6時。待っている』


 制服姿の美月が姿を見せた。


「お母さん、警察どうだった?」


「帰り道で話すわ」


 二人は住宅街を歩きながら、警察署での出来事を静かに語った。


「お父さん、刑務所に入るの?」


「まだわからない。でも、できる限りのことはするって」


 マンションに戻ると、大輔がリビングで待っていた。


「美月」


 彼は力なく微笑んだ。


「お父さんががしたことは――」


「知ってる。でも、ちゃんと責任取ろうとしてるんでしょ?」


 娘の大人びた言葉に、大輔は何も言えなかった。


「コーヒー淹れるわ」


 テーブルを囲んで、三人は今後について語り合った。


「真希、さっき言っていた嘘って……」


 真希は深呼吸をし、目を逸らさずに言った。


「私が、警察に情報を送ったの」


 静寂が落ちる。


「そうか……」


 大輔は苦く笑った。


「責めるつもりはないよ。君を疑わせたのは、俺だから」


「最初は復讐のつもりだった。でも、今は違う。真実を知りたかった」


 美月が真希の手を取った。


「お母さん、正しかったよ」


「夢を押し殺していたのも、もう終わりにする」


「夢……?」


「小説を書くこと」


「知らなかった……」


「それが、私たちの問題だったのよ。お互いを知ろうとしていなかった」


「これから、どうするの?」


 美月が尋ねる。


「少し時間が欲しい。自分を見つめ直すために」


「別れるってこと?」


「違うわ。自分を取り戻す時間」


「『影を縫う女』の作者は私。美月が投稿してくれた」


「君が……」


 大輔は驚きの表情を浮かべる。


「これからは、自分の名前で書くつもり」


 美月が笑顔で拍手をした。


 その夜、真希はアンダンテで本城と会った。


「無事でよかった」


「色々あったけど、終わったわ」


 真希はすべてを話した。本城は静かに聞き、優しく手を握る。


「本当の自分は、何を望んでいる?」


「書くこと、自分の意志で生きること」


「ご主人とは?」


「まだ答えは出せない。けれど、彼は悪人じゃなかった」


「君の選択を、尊重するよ」


「ありがとう、亮介」


「続編の話が来ている。今度は君の名前で」


「本当に?」


「僕が出版社を紹介する。君にふさわしい場所を」


「でも、まずは家族を落ち着かせたい」


「もちろん。待ってる。作家として、そして――」


 二人は夕暮れの公園を歩き、穏やかに別れを告げた。



 一ヶ月後――。『文学新潮』発売日。


 真希の名前が、雑誌の表紙に躍っていた。


 美月とカフェに入り、二人はホットチョコレートを頼んだ。


「お父さん、大丈夫かな」


「弁護士によると、実刑は避けられそう。社会奉仕と罰金で済むかもしれない」


「これから、どうなるの?」


「分からない。でも、真実の上で生きていくことになるでしょ」


「お母さん、私はあなたが誇りだよ」


「ありがとう。あなたこそ、私の誇りよ」


 夜、真希は書斎で新しい物語を書いていた。


 主人公は影と和解し、新たな旅へ。


 本城からのメッセージが届く。


『雑誌、見たよ。素晴らしい出来だった』


『ありがとう。いつか、また創作について語り合えるといいわね』


 窓の外に満月が浮かぶ。


 それは闇夜に差し込む、希望の光だった。


『彼女は初めて、自分の足で立ち、自分の声で語り始めた。そこには、もう誰の影もなかった』


 闇夜の啓示――それは終わりではなく、新しい始まりだった。

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影の棲む家 海野雫 @rosalvia

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