第三章 禁断の再会

 雨が静かに窓を叩いていた。


 真希はコーヒーカップを両手で包み込みながら、曇天の広がる窓の外を見つめていた。喫茶店「アンダンテ」の窓際席――大学時代から通い続けている、彼女のお気に入りの場所だった。時計の針は十時五十分。本城亮介との待ち合わせまで、あと十分。


 昨夜、大輔は予定通り帰宅した。「大きなプロジェクトが動き出して忙しかった」と告げる夫に、真希は何も言わず、いつも通り夕食を用意した。だが、内心では水野との関係への疑念が渦を巻いていた。


 彼のスマートフォンを見る勇気はなかった。真実を知ることの恐怖が、その一歩を踏み出すのを阻んでいた。


「お待たせしました」


 静かな声に顔を上げると、本城が肩に雨粒を乗せて立っていた。黒縁メガネ越しの瞳には、かつてと変わらぬ鋭さが宿っている。


「いいえ、私も今来たところです」


 真希は微笑み、向かいの席を示した。


「懐かしい場所ですね」


「覚えていたんですか?」


「もちろん。ここで何度も原稿を書きました。あなたも、よくここにいた」


 二人で原稿を批評し合った時間。熱い議論、静寂の中の視線。それらが記憶の底から浮かび上がる。


「それで、『影の輪郭』の構想は?」


 真希は意識的に仕事の話題に戻した。プロとしての距離感を保つことで、自らの心を守るために。


 本城は数枚の紙を取り出した。


「プロットです」


 それは、自作のキャラクターが現実に現れ始めるという物語。現実と幻想の境界が崩れ、作家の精神が次第に崩壊していく。


「これは……」


「あなたへのオマージュです。大学時代、あなたが書いていた短編に似たテーマだった」


 真希は息を呑んだ。学生時代の習作を覚えてくれていたことに、胸が熱くなる。


「覚えていてくださったんですね」


「忘れられるわけがない。あなたの言葉は、今も私の中に棲んでいる」


 二人の間に静かな沈黙が流れた。雨音だけが、その空白を満たしていた。


「私たちは今、仕事の関係です」


 真希が切り出すと、本城は柔らかく頷いた。


「もちろん。編集者と作家として、良い作品を作りましょう」


 それからの二時間、二人は真摯に作品について語り合った。プロの顔を保ちながらも、会話には時折過去の記憶が交差し、まるで暗号のように散りばめられていた。


 別れ際、本城が言った。


「来週、もう一度打ち合わせを。できれば、もう少し静かな場所で」


 真希は一瞬迷ったが、自らに言い訳するように答えた。


「わかりました。場所は連絡します」


 駅までの帰り道、本城が差し出した傘の下、二人の肩が触れ合う。言葉はなくとも、二十年前の感覚が確かに甦っていた。



 オフィスに戻ると、河村編集長が声をかけてきた。


「どうだった? 本城先生との打ち合わせ」


「順調です。構想もしっかりしていますし、締切も問題ありません」


「それは良かった。それと――編集次長の件だが」


 真希の視線が鋭くなる。


「来週、最終決定を出す。君は有力候補だ。あの先生を任せたのも、その一環だよ」


「ありがとうございます」


 ようやく訪れたチャンス。だが、それは簡単に与えられるものではなかった。


「ただし、水野さんも評価が高い。気を抜かないように」


 席に戻ると、水野が待ち構えていた。


「お帰りなさい。打ち合わせ、どうだった?」


「順調だったわ」


「そう。それならよかった」


 水野は立ち上がり、真希の肩に手を置いた。


「次は私も同席させてもらうわ。副編集長として」


「次回は個別の打ち合わせ。作家との信頼関係を築くためにも」


 水野の視線が冷たく光る。


「でも、本城先生は会社の看板作家。私たちの共同プロジェクトでもあるのよ」


 真希は返事をせず、席に戻った。


 午後の時間、園田茜の原稿を確認しながらも、本城のプロットが脳裏を離れなかった。二人で語り合った文学。かつて夢見ていたもの。


 スマートフォンが震えた。本城からのメッセージ。


『今日はありがとうございました。再び創作を語り合えるとは思いませんでした』


『こちらこそ。プロの視点、とても勉強になります』


 距離を取ったつもりだった。しかし、次の一文が心の奥を突いた。


『でも私は、創作者・篠原真希と話がしたい。いつか、あなたの作品を読ませてください』


 真希は息を呑み、しばし画面を見つめた。胸の奥に隠した原稿の存在が意識の底から浮かび上がる。


『いつか、機会があれば』



 帰宅すると、美月が珍しくリビングでテレビを見ていた。


「ただいま」


「おかえり」


「何見てるの?」


「暇つぶし」


 短いやり取りの後、真希はキッチンへ行った。


「美月、もうすぐ期末でしょ? 勉強は順調?」


「うん」


「手伝えることある?」


「別に」


 無機質な会話。それが今の親子関係だった。


「お母さん、聞いていい?」


 意外な問いに振り向くと、美月は静かにリモコンを握ったまま、母を見た。


「お母さんは、本当に今の生活、幸せ?」


「どういう意味?」


「お父さんが遅くても、私が冷たくしても……怒らないし、何も言わない。お母さんが本当に望んでる人生なの?」


 真希は包丁を置いた。


「家族って、お互い支え合うものよ」


「でも、自分の気持ちも大事じゃない?」


 真希は返す言葉を探しながら、ただ黙って娘を見つめた。


 その夜、原稿に向かいながらも、美月の言葉が頭から離れなかった。


『彼女は完璧な妻であり母であることに疲れ始めていた。仮面の下にある自分が何者なのか、それを知るのが怖かった』


 自分が書いた文章なのか、自分自身の独白なのか、もはや区別がつかなくなっていた。


 スマートフォンが光る。


『来週の水曜日、打ち合わせいかがですか? 場所はお任せします』


 真希はすぐに返信した。


『水曜日で大丈夫です。場所は追って連絡します』


 彼女は決意した。原稿を持っていく。誰にも見せたことのない、自分の言葉を――彼に。



 翌日、田中が資料を持ってきた。


「本城先生の過去作、マーケティングデータをまとめました」


「ありがとう。助かるわ」


「先生って大学時代の恋愛が作風に影響したって、去年の評伝に書いてありましたよね」


「評伝?」


「ええ、名前は伏せられてたけど。創作の原点になった恋愛があったって」


 真希の胸がざわついた。


「今度、その本持ってきてくれる?」


「もちろんです!」


 田中が去った後、真希は画面を見つめていた。過去が、思わぬ形で現在と繋がっている――そんな感覚が彼女を包んでいた。


「何か面白いことでもあったの?」


 水野の声。真希の背筋が強張る。


「仕事よ」


「そう言えば……ご主人には話したの? 昔の知り合いと仕事するって」


「ただの仕事だからその必要はないと思うけど」


「でも刺激的よね。才能ある人との再会って」


 水野の言葉には、明らかな含みがあった。


「水野さん、何が言いたいの?」


「ただのおしゃべり」


 そして、水野はとどめを刺すように告げた。


「編集次長の件、私に決まったの。今朝、河村さんから内々に連絡があったの」


 昨日まで「有力候補」と言われていたのに――それは真希の中で何かを崩した。


 彼女はスマホを手に取り、まずは大輔に連絡した。


『今夜、話したいことがある』


 返信は冷たかった。


『今夜は無理。明日なら』


 そして、次に本城の連絡先を開く。迷いはなかった。


『水曜日、アンダンテの近くにあるブルーノートというバーで。十九時に』


 すぐに返事が来た。


『楽しみにしています』


 真希はスマホを胸に抱いた。何かが、ゆっくりと解き放たれていく気がした。



「もう帰るの?」


「ええ、今日の分はもう終わったから」


 水野が声をかけてきた。


「才能ある男性って、危険よね。特に過去に接点があると」


 真希は何も言わずにバッグを持った。


「そうそう。先日、ご主人とまた会ったの。イベントの件で。とてもあなたを誇りに思ってるって」


 その言葉が、皮肉にしか聞こえなかった。


 外は雨だった。傘を持っていなかったが、構わなかった。


 スマホが震えた。本城からのメッセージ。


『あなたにだけ見せたい新作の章があります』


 真希は立ち止まり、打った。


『私も、お見せしたいものがあります』


 雨の音に紛れて、誰にも聞こえない告白が、小さく空に溶けていった。

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