第四章 真実の影

 水曜日の夕暮れ、空は深い紺に染まり始めていた。真希は「ブルーノート」の入り口で小さく息を吸い、小さな階段を下りて店内に足を踏み入れた。木と革の温もりを感じさせる内装。間接照明に照らされた空間には、静かなジャズが流れていた。


「ご予約の篠原様ですね?」


 バーテンダーが丁寧に迎える。真希は頷き、案内された半個室へと向かった。テーブルには白いバラが一輪挿されていた。


 バッグから原稿の入った封筒を取り出しかけて、真希は躊躇した。テーブルに置いた手が震える。見せるべきか否か――決意と不安が胸の内でせめぎ合う。


「来てくれたんですね」


 懐かしい声に顔を上げると、本城亮介が立っていた。黒のジャケットとグレーのシャツ、落ち着いた装いが彼の知性と落ち着きを引き立てている。


「約束したから」


「それが君の変わらないところだ」


 ワインを注文し、軽い世間話を交わす二人。表面は穏やかな会話でも、言葉の端々に記憶の影がちらつく。


「実は、初稿を書いてみたんだ」


 本城が取り出したのは、『影の輪郭』の第一章。真希は原稿に目を落とす。主人公は四十代の女性作家。彼女が創造した登場人物が現実に干渉し始め、次第に精神の境界が曖昧になっていく。


「これは……すごいわ」


「本当?」


「ええ。特に主人公がキャラクターと対峙する描写。自分の抑圧と向き合うようで……痛いほど分かる」


「君をモデルにしたんだ」


 真希は目を見開く。


「直接的ではない。でも、君の持っていた葛藤や可能性を、ずっと忘れられなかった」


 真希の胸に何かが波紋のように広がった。


「田中くんが言ってた。あなたの伝記に、大学時代の恋愛について語ったって」


「名前は出してない。でも、あれが原点だったのは確かだ」


 沈黙が訪れる。真希は、そっと封筒を取り出し、テーブルに置いた。


「私も……見せたいものがあるの」


 本城は静かに封を開け、真希の原稿に目を通し始めた。ページをめくる音だけが静かに響く。時折、表情を変える彼に、真希は息を詰めて反応を待った。


 数十分後、本城は顔を上げた。


「これは……本当に素晴らしい。出版すべきだ」


「そんな……」


「うそじゃない。言葉に透明感がある。読者の心を素手で触るような文章だ」


こみ上げるものを抑えきれず、真希の目に涙が浮かんだ。


「ありがとう」


 本城は手を伸ばし、彼女の手にそっと触れた。


「これは終わりじゃない。始まりだ」


 その温もりが、遠い記憶と感情を呼び覚ます。


「……亮介」


「また、昔みたいに」


 けれど真希は目を伏せた。


「私たちは、過去に戻れない」


「わかってる。でも今は、編集者と作家として、最高の作品を作ろう」


 本城は原稿を大切そうにカバンへしまい、微笑んだ。


「来週、感想を伝える」


 バーを出た後、二人は無言で駅まで歩いた。別れ際、本城は彼女の頬に軽くキスを落とした。短く、柔らかな接触――だが、それは確かな感情の印だった。



 帰宅すると家は静かだった。美月の部屋から微かな光が漏れている。真希はソファに腰を下ろし、今夜の出来事を思い返していた。


 スマートフォンが鳴る。大輔からだった。


「今から帰るところだ。夕飯は軽く食べたから、大丈夫。三十分ぐらいで着く」


 メッセージを見終えた真希は、ふと思い立ち、書斎へ向かった。新しいアイデアを記録しておこうと、原稿の引き出しを開けたとき――それが微妙にずれていることに気づいた。


 誰かが開けた?


「美月……?」


 彼女は娘の部屋のドアをノックした。


「書斎に入った?」


「入ってない」


 嘘ではなさそうだった。ならば、可能性は一つ――大輔。


 原稿を別の場所へ移す。古いアルバムの裏、誰も触れない場所へ。


 三十分後、大輔が帰宅した。疲れた様子でネクタイを緩め、リビングに入ってくる。


「お茶入れるわ」


「助かる」


「大丈夫? 何か心配ごと?」


「いや、仕事が忙しくて」


「それより、本城さんとの仕事はどう?」


 真希の手が止まる。


「名前、教えてないけど」


「……水野さんから聞いた」


 やはり――二人は頻繁に接触している。


「水野さんと、よく会うの?」


「たまに。仕事でな」


 それ以上追及せず、話題を変えた。


 だがその夜、大輔のスマートフォンが鳴ると、彼は慌ててリビングへ移動した。真希はそっと寝室のドアの裏で耳を澄ませた。


「明日は無理だ。……疑い始めてるかもしれない。……書類は確認した」


 真希の背筋に冷たいものが走る。



 翌朝、大輔はすでに出勤していた。枕元にはメモが一枚。


『今日も遅くなる。心配しないで』


 通勤電車の中で、真希は一つの決意を固めた。大輔の会社に連絡して、事実を確かめる。


「篠原建設です」


「篠原大輔の妻です。急ぎの用がありまして、今日の予定を教えていただけますか?」


「本日は終日外出と伺っております」


「大阪のプロジェクトでしょうか?」


「……大阪出張は、先週キャンセルになっております」


 嘘だ。


 その日の昼、真希は篠原建設の近くにあるカフェから、オフィスを見張った。そして見た。建物から出てくる大輔。そして、その車に同乗する水野詩織の姿を。


 ただの不倫ではない。二人は、何かを隠している。


 真希はスマートフォンで写真を撮った。その目は冷静だった。真実を知りたい――ただそれだけが、今の原動力だった。



 帰宅後、大輔の書斎に入り、鍵付きの引き出しを調べた。古い時計ケースの中に鍵を見つけ、開ける。


「特別会計」と書かれたファイル。


 そこには、不正経理の証拠があった。架空の会社への送金記録。そしてその書類には、水野詩織の署名――。


 真希は震える手で写真を撮り、元に戻した。


 これは単なる裏切りではない。犯罪だ。



 夜、本城からのメッセージが来た。


『君の原稿、何度も読み返した。これは世に出すべき作品だ』


 真希は静かに微笑んだ。彼女の言葉は、確かに誰かに届いていた。


 その夜、彼女は闇の中で目を開いたまま、天井を見つめていた。


 真実の影が、いま、輪郭を持ちはじめていた。

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