第二章 過去からの亡霊
弓削ビル三階の会議室には、午後の陽射しが斜めに差し込み、テーブルの上に小さな虹を作っていた。篠原真希は窓際の席に座り、資料を整えながら深く息を吸った。時計の針は一時四十五分。――本城亮介との再会まで、あと十五分だった。
「緊張してるの?」
柔らかい声とともに現れたのは水野詩織だった。淡いブルーのワンピースをまとった彼女は、まるでファッション誌から抜け出したような佇まいだ。
「別に。ただ準備をしていただけよ」
真希は声のトーンを落ち着かせて答えた。
「そう。大学時代の知り合いだったのよね? 私が調べたところによると、本城先生とは同じゼミだったそうね」
「ええ、そうだけど。それが何か?」
「何でもないわ。ただ知っておくべきことかなって」
水野が意味ありげに微笑んだその瞬間、会議室のドアが開き、田中が現れた。そして、その後ろに立っていたのは――本城亮介。
彼は変わらない黒縁メガネをかけ、以前より落ち着いた佇まいを身にまとっていた。痩身だった大学時代とは違い、今は均整の取れた体格で、全身から落ち着いた威厳が漂っている。
「どうも、お久しぶりです」
静かな声に、真希の鼓動が跳ねた。
「はじめまして……いえ、久しぶりです。篠原真希です。編集を担当させていただきます」
「大学の時とは、随分違う再会の仕方ですね」
微笑む彼の言葉に、過去の記憶が一気に波紋のように広がった。
水野がすかさず手を差し出す。
「副編集長の水野詩織です。本城先生の作品、すべて拝読しています。特に『透明な影』は私の人生を変えた一冊です」
完璧な応対。その裏にある作為に、真希は舌打ちしたくなるのを堪えた。
「ありがとうございます」
本城は礼を述べたが、その視線は再び真希に戻っていた。
「篠原さん、あなたも私の本を読んでいただけましたか?」
「もちろんです。『夜の記憶』は三度読み返しました」
その瞬間、本城の目が僅かに和らいだ。それは真希だけが気づいた変化だった。
会議は驚くほどスムーズに進み、本城は真希の提案に対して真摯に耳を傾けた。三時間があっという間に過ぎ、初稿の締切や編集方針についても合意に至った。
「基本構想はすでにあります。個別にご相談させてください」
本城の言葉に、水野がちらりと意味深な視線を送ったが、真希は無視した。打ち合わせ後、一同は一階のカフェへ移動。真希は本城と並んで歩きながら、心の奥で記憶の扉が静かに開いていくのを感じていた。
大学三年の春。文芸創作ゼミで、真希は本城亮介と出会った。彼の発言は常に鋭く、教授ですら一目置く存在だった。
「君の小説には、見えないものを見る目がある」
その言葉に、真希は心を撃ち抜かれた。他の誰でもなく彼にそう言われたことが、何よりも嬉しかった。
やがて二人は図書館や喫茶店で会うようになり、創作論を語り合う仲から、自然と関係は深まっていった。
初めて手を繋いだのは、文学フェスティバルの帰り道。雨上がりの並木道で、本城がそっと手を取った。言葉はなかったが、互いの視線がすべてを語っていた。
初めてのキスは彼のアパート。狭い部屋で原稿を読み合ったあと、自然にそうなった。文学と若さに満ちた、濃密な時間だった。
しかし、その関係は長くは続かなかった。真希が経済学部の大輔と出会ってから、彼女の世界は現実的な方向へと傾いていった。
最後の会話は、大学の中庭だった。
「君の選択は間違っていないよ。でも、いつか必ず書いて。約束してくれ」
真希はその約束をした――が、「いつか」は来なかった。
「篠原さん?」
現実へと引き戻したのは、本城の声だった。カフェのテーブル越し、彼の微笑みがそこにあった。
「……すみません、少し考え事をしていました」
「昔のことを、でしょう?」
真希は曖昧に微笑んだ。
「懐かしい顔を見ると、つい。あなたはずっと書き続けてこられたのですね」
「ええ。約束を守ったのは私だけのようですね」
その言葉が胸を刺した。
「私は編集者になりました。作家の作品を世に出すのが、私の役目です」
「知っています。あなたが編集した作品、いくつか読んでいます。園田茜さんの『青い鳥の行方』、良かった」
「ありがとうございます」
「でも――あなた自身の言葉は?」
真希は返答できず、ただ微笑むことしかできなかった。
やがて水野と田中が戻り、会話は再び仕事へと戻っていった。
別れ際、本城は小声で告げた。
「また連絡します。もっと話したいことがあるので」
帰社すると、河村編集長に呼び止められた。
「本城先生との打ち合わせ、どうだった?」
「スムーズでした。こちらにもとても協力的です」
「さすがだな。それと、編集次長の件だが――君と水野さんを候補に考えている。心の準備をしておいてくれ」
「……ありがとうございます」
オフィスを出る前、真希は水野の席へ向かったが、彼女の姿はなかった。その整然としたデスクの上――一枚の写真が目に留まった。
銀のフレームの中には、スピーチ中の大輔の姿があった。彼の隣には、水野らしき姿。
「――あら、篠原さん」
背後から水野の声がした。
「会議の確認で……」
「その写真? 先月の合同パーティーのもの。ご主人、素晴らしいスピーチだったわ」
「そう……あなたと知り合いだったなんて」
「文芸支援の件でね。ご主人にはずいぶんお世話になってるの」
すべてが自然な説明に聞こえた。だが、違和感は消えなかった。
帰宅後、真希は大輔のデスクで一枚のレシートを見つけた。日付は「大阪出張」と言っていた日――だが、レシートは東京のホテルのもの。
SNSを確認すると、大輔が頻繁に「いいね」していたのは、水野のアカウント。投稿された写真の場所と大輔の外泊日が一致する。
偶然ではない。
真希の胸に、怒りにも似た感情が芽生え始めていた。
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