第6話「同盟の響き」

暁の光が薄く差し込む中、私は事務所の窓から外を眺めていた。小田切の「冬眠前一掃作戦」が始まってから三日が経つ。予想通り、豊平川流域とモエレ沼公園周辺で集中的な捕獲活動が行われているという。


「ラスク、起きてたのね」


振り返ると、ミウが毛づくろいを終えたところだった。彼女の毛並みは冬の間に厚くなり、美しい艶を帯びている。


「ああ、少し考え事をしていた」


「食料のことかしら?」


「それもあるが…」私は窓の外を指さした。「この状況をどう打開するか、だ」


監視カメラの設置により、私たちの行動範囲は著しく制限された。食料の備蓄は残り二日分。このままでは窮地に陥る。


「チロは?」


「早朝から偵察に出かけたわ」ミウは言った。「『重要な情報がある』って言ってたけど…」


そのとき、階段を駆け上がる足音が聞こえた。チロが息を切らして事務所に飛び込んできた。


「大変だ!食料調達に行くぞ、今すぐに!」


「どうした?何があった?」私は驚いて尋ねた。


「小田切たちが一時的に撤退した。モエレ沼に大量の目撃情報があったらしく、全員そっちに移動した。隙だぞ、今なら安全に食料が確保できる!」


これは貴重な情報だ。私たちは即座に行動することに決めた。用意を整え、「王国」を出る。


外は相変わらず厳しい寒さだったが、日差しがあるだけましだ。チロを先頭に、私たちは雪の中を進んだ。監視カメラを避けるため、彼の知る小道や裏通りを使う。


「町はどうだった?」歩きながら私はチロに尋ねた。


「緊張が走っているよ」チロは言った。「町内会で『害獣対策』の講習会が開かれたらしい。住民たちも警戒を強めている」


「小田切の作戦は効果を上げているのか…」


「まだ初期段階だがな。ただ、奴らは予想以上に組織的だ。通報アプリで市民からの情報が集まり、すぐに対策チームが動く」


「それにしても、モエレ沼に目撃情報が集中するなんて変だな」私は疑問を抱いた。「何か罠の可能性はないか?」


「そこまでは考えなかったが…」チロが立ち止まった。「確かに不自然だな」


「でも、情報源は?」ミウが尋ねた。


「朝方、佐伯清掃のゴミ収集車の運転手たちの会話だ」チロは言った。「『小田切が全員引き連れてモエレ沼に向かった』と話していた」


私たちは少し警戒しつつも、進み続けた。目的地は近くの住宅街だ。「燃えるゴミの日」なので、食料の残りが期待できる。


住宅街に近づくと、様子がおかしいことに気づいた。いつもなら静かなこの時間帯に、カラスの大群が空を舞っている。


「どうしたんだ?」


私たちが角を曲がると、その光景に息を呑んだ。ゴミステーションの周りにカラスが十数羽集まり、ゴミ袋を荒らしていた。彼らは協力して、カラス除けネットを引き上げ、中身を散らかしている。


「おい!」思わず私は声を上げた。


カラスたちは一斉にこちらを向いた。その中心に立っていたのは、あの高慢なカラス、ヤマトだ。


「おや、東京者じゃないか」ヤマトは特徴的な声で言った。「久しぶりだな、Indeed!」


「これはどういうことだ?」私はゴミが散らかった状況を指差した。「こんなことをすれば、人間の警戒心が強まるだけだぞ」


「我々には我々のやり方がある」ヤマトは高みから見下ろすように言った。「食料が必要なのは、お前たちだけではないのだよ」


緊張が走る。カラスたちが羽を広げ、威嚇するような体勢を取った。この状況がエスカレートすれば、ただでは済まない。


「待て」私は冷静を装って言った。「争う気はない。ただ、こんなやり方では皆が危険になる」


「危険?」ヤマトは首を傾げた。「我々カラスは何百年も人間と共存してきた。お前たち外来種とは違うのだよ」


その言葉に、ミウが前に出ようとするのを、私は手で制した。挑発に乗るべきではない。


「確かにそうだろう」私は認めた。「だが今は状況が違う。小田切という男が率いる対策チームは、カラスも標的にしているはずだ」


「我々を捕まえられるものか」ヤマトは翼を広げた。「空を飛ぶ我々に、地上の者の策は通じん」


「そうかな?」私は静かに言った。「通報アプリで市民が情報提供し、新型トラップが設置され、GPSタグで追跡される…どの種も安全ではないんだ」


私の言葉に、カラスたちの間で小さな動揺が広がった。ヤマトも少し表情を変えた。


「それにね」ミウが続けた。「小田切の対策は『外来種優先』かもしれないけど、彼が目指すのは『害獣ゼロ』。いずれカラスも標的になるわ」


チロも頷いた。「住民からすれば、ゴミを荒らすカラスも厄介者だ。今こそ、種を超えた協力が必要な時かもしれないぞ」


ヤマトはしばらく考え込むような仕草をした。そして、他のカラスと短い会話を交わした後、私たちに向き直った。


「面白い提案だ」彼は言った。「実は我々も懸念を抱いていたところだ。新しいトラップは、従来のものと違う。より高度で、粘着性のある罠まで現れた」


「協力できることはあるはずだ」私は言った。「例えば、情報共有。カラスは空からの視点を持っている。地上の私たちには見えないものが見えるだろう」


「確かに」ヤマトは少し態度を軟化させた。「我々は市内を広く見渡すことができる。対策チームの動きも追跡可能だ」


「そして私たちは、地上での詳細な情報を持っている」チロが加わった。「トラップの設置場所や、安全なルートなど」


議論は前向きな方向に進んだ。最終的に、私たちは暫定的な同盟を結ぶことに合意した。まずは食料調達を共同で行い、その後、より詳細な情報交換の場を設けることになった。


「まずはこのゴミを元通りにしよう」私は提案した。「痕跡を残さないことが重要だ」


カラスたちも同意し、散らかったゴミを一緒に片付け始めた。私とミウは器用な手を使ってゴミ袋を結び直し、カラスたちはネットを元の位置に戻す。チロは見張り役に回り、人間の接近を警戒した。


作業中、ヤマトが私に近づいてきた。


「ところで、東京者よ」彼は小声で言った。「モエレ沼の目撃情報の件だが、実は我々の策だったのだ」


「何だって?」私は驚いて手を止めた。


「我々カラスの一部が、通報アプリを使い込んだ人間のスマートフォンを狙って、偽の情報を大量に送信させたのだよ。Actually, かなり効果的だった」


「なるほど」私は感心した。「それで対策チームが引っ張られたのか。賢い戦術だな」


「我々も生き残るためには知恵を絞っている」ヤマトの目が誇らしげに輝いた。「東京の知恵と我々の戦術が合わされば、より効果的な防御が可能になるだろう」


作業を終え、私たちは食料を分配した。カラスたちは主に果物や柔らかいパンを選び、私たちは肉や魚の残りを中心に取った。


「夕方、我々の『会議場』で会おう」ヤマトは別れ際に言った。「札幌駅の東側、古い倉庫の屋根だ。我々カラスの評議会が開かれる場所だよ」


「行くよ」私は頷いた。「お互いのためになる話ができるといいな」


カラスたちは空へと飛び立ち、私たちは「王国」への帰路についた。


---


「王国」に戻ると、私たちは早速獲得した食料を保管し、夕方の会議に備えた。


「カラスとの同盟か…」チロは少し懐疑的な様子だった。「上手くいくかな」


「やってみる価値はある」私は言った。「今はどんな協力も必要だ」


「それにね」ミウが加わった。「カラスは札幌中を見渡せる。それは大きな利点よ」


日が傾き始めたころ、私たちは札幌駅へと向かった。監視カメラを避けながら、慎重に移動する。


ヤマトの言った古い倉庫は見つけやすかった。駅の東側に位置する、使われなくなった細長い建物だ。その屋根の上に、既に多くのカラスが集まっていた。


「どうやって上るんだ?」チロが当惑した様子で尋ねた。


「あそこだ」ミウが建物の側面を指差した。「錆びた雨樋がある。登れそうね」


私たちは雨樋を使って屋根に登った。タヌキのチロにとっては少し難しかったようだが、何とか全員が上に辿り着いた。


屋根の上では、三十羽以上のカラスが集まっていた。彼らは一斉に私たちに注目した。緊張する空気の中、ヤマトが前に進み出た。


「諸君、我らがゲストを歓迎したまえ」彼は高らかに宣言した。「東京から来たアライグマ・ラスク、小樽出身のアライグマ・ミウ、そしてエゾタヌキのチロだ」


カラスたちの間で小さな騒めきが起きた。


「アライグマを迎え入れるとは」一羽の年老いたカラスが反対した。「彼らは外来種、我々の敵ではないのか」


「時代は変わった、長老」ヤマトは言った。「今や我々は皆、小田切という男の標的だ。古い敵意は脇に置くべき時なのだよ」


議論が続く中、私は一歩前に出た。


「私は東京で生まれ育った」私は静かに、しかし明瞭に語り始めた。「そこでも『害獣』と呼ばれ、排除の対象だった。しかし、私たちは単に生き延びようとしているだけだ。人間の作った環境の中で、その隙間を見つけて生きている」


カラスたちが静かになり、聞き入る。


「カラスの皆さんは知恵深い。空からの視点を持ち、人間の言葉まで理解する。私たちアライグマは手先が器用で、複雑な仕掛けも解除できる。タヌキのチロは北海道の自然を熟知している。これらの能力を合わせれば、私たちは皆、より安全に生きていけるはずだ」


私の言葉に、いくつかの頷きが見られた。ヤマトも満足げだ。


「実際的な協力の形を提案しよう」彼が続けた。「我々は毎朝、空からの偵察情報を提供する。対策チームの動き、新たなトラップの設置場所など。そして地上の諸君は、安全なルートや食料源の情報をもたらす」


「それだけではない」私は付け加えた。「互いの技術も教え合おう。例えば、私はカラス除けネットの開け方を教えられる。そして皆さんからは、空からの危険回避の方法を学びたい」


「カラカ、カラカ!」(素晴らしい考えだ!)


一羽の若いカラスが興奮して鳴いた。他のカラスたちも同調し始める。


「すまない」ヤマトが私に言った。「彼はまだ人間の言葉を上手く話せない」


「カラス語を教えてもらえないか?」私は突然思いついて尋ねた。「基本的なフレーズだけでも」


この提案に、カラスたちの間で笑いが起きた。


「カラス語を学びたいと?」ヤマトは驚いた様子だ。「我々の言語は複雑で、人間の言葉より遥かに微妙な音の違いがある。アライグマの声帯で再現できるとは思えないが…」


「試してみたい」私は真剣に言った。「コミュニケーションは重要だ」


「よかろう」ヤマトは興味を示した。「基本的な警告音なら、教えることができるだろう」


ヤマトは様々な鳴き声の意味を説明し始めた。「カララ」は人間の接近、「カロロ」はトラップの発見、「キリリ」は食料の発見を表すなど。


私は懸命に真似しようとしたが、舌の構造が違うため、正確な発音は難しかった。私の不器用な真似にカラスたちは大いに沸き、ヤマトも笑いを抑えきれない様子だった。


「『カララ』と言いたいのに、それでは『今日は良い天気』と言っていることになるぞ」ヤマトは笑いながら指摘した。


「難しいな」私も笑った。「でも諦めないよ」


和やかな雰囲気の中、より具体的な協力計画が話し合われた。まず「王国」とカラスの「会議場」の間に連絡ルートを確立する。緊急時の合図も決めた。さらに、互いの縄張りを尊重しつつ、共有の「安全地帯」も設定した。


「もう一つ、重要な提案がある」会議の終わりに、ヤマトが言った。「我々カラスには『全体地図』の作成が可能だ。札幌の街を空から見た図に、安全な場所、危険な場所、食料源などを記録する」


「それは素晴らしい」私は興奮した。「それがあれば、移動の計画が立てやすくなる」


「だが、正確な地図には地上からの情報も必要だ」ヤマトは続けた。「諸君の協力を仰ぎたい」


「喜んで」チロも前に出た。「私は北海道の自然と街をよく知っている。詳細な情報を提供できるだろう」


会議は成功裏に終わり、私たちは新たな同盟の形成を祝った。カラスたちは空へと飛び立ち、いくつかの小グループに分かれて去っていった。


「明日の朝、最初の偵察報告をもたらそう」ヤマトは別れ際に言った。「Indeed, これは有益な協力関係となるだろう!」


私たちは屋根から降り、「王国」への帰路についた。心は希望で満ちていた。


---


翌朝、約束通りヤマトが「王国」に現れた。彼は重要な情報をもたらした。


「対策チームは今日、市の西部に移動する」彼は報告した。「昨日の作戦は失敗に終わったらしい。小田切は激怒していたよ」


「それは朗報だ」私は安堵した。「今日の食料調達は安全に行えそうだな」


「Actually」ヤマトは得意げに続けた。「我々は対策チームの出動パターンを分析した。彼らは通報情報に基づいて動くが、一度失敗すると、翌日は必ず別の地域に移動する。おそらく『成功体験』を求めてのことだろう」


「なるほど」チロが感心した。「彼らの行動パターンを知れば、先回りして対策が立てられる」


その日から、カラスとの情報交換は日課となった。朝には偵察報告が届き、夕方には私たちが地上の状況を伝える。日に日に、情報の質と精度は向上していった。


約束の「全体地図」も形になり始めた。「王国」の事務所の壁に大きな紙が貼られ、そこにカラスからの情報と私たちの知識を統合して描き込んでいく。トラップの位置、監視カメラのある場所、安全なルート、食料源…あらゆる重要情報が集約された。


一週間が経ち、私たちの同盟は着実に機能していた。食料の確保も安定し、「王国」の備蓄は増えていった。何より、精神的な安心感が大きかった。もはや孤立無援ではない。仲間がいる。


ある朝、ヤマトが普段より興奮した様子で訪れた。


「重大なニュースだ」彼は言った。「対策チームが新しい装備を導入した。GPSタグ付き首輪の自動装着機能付きトラップだ」


「どういうことだ?」私は警戒した。


「罠にかかった動物に、自動的に首輪を装着する仕組みだ」ヤマトは説明した。「そして即座に解放する。動物は自由だと思い逃げるが、その行動は全て追跡されている。彼らが住処に戻ると…」


「仲間も一網打尽か」チロが言葉を続けた。「恐ろしい作戦だ」


「既に導入されたのか?」ミウが心配そうに尋ねた。


「今朝から、豊平川流域に設置され始めた」ヤマトが答えた。「我々の偵察隊が確認した」


これは由々しき事態だ。GPSタグを付けられた動物が「王国」に来れば、私たちの隠れ家も発見されてしまう。


「対策を考えないと」私は言った。「まず、王国の入口に検問所のようなものを設置しよう。新しく来る動物は全てチェックする」


「何をチェックするんだ?」チロが尋ねた。


「首輪や不自然な傷がないかだ」私は答えた。「GPSタグ付き首輪は目視でも確認できるはずだ」


「それと、カラスの協力も仰ごう」ミウが提案した。「彼らは空から、不審な動物の動きを監視できるわ」


計画は即座に実行に移された。「王国」の主要な出入口には、チロの知り合いのエゾリスを配置。新たに来る動物を厳重にチェックする体制を整えた。カラスたちも交代で周辺を監視することになった。


さらに私たちは、地下施設を「最終避難所」として整備した。もし「王国」の場所が発覚したとしても、地下には複雑な迷路のような通路があり、そこに隠れることができる。


「これで少しは安心だな」作業が一段落したとき、私は言った。


「でも、根本的な解決にはならないわ」ミウが指摘した。「いつか必ず彼らは私たちを見つける」


「そうだな」チロも同意した。「長期的な戦略が必要だ」


私たちが議論している最中、一羽のカラスが急いで飛んできた。それはヤマトの部下の一人だった。


「緊急事態です!」彼は息を切らして報告した。「仲間のアライグマが捕まりました!」


「何だって?」私は飛び上がった。「どこで?」


「豊平川の東側です。新型トラップにかかったようです」


「GPSタグを付けられたのか?」


「いいえ、通常の罠のようです。今、対策チームの車で運ばれています」


「どこへ?」


「市の研究施設へ向かう様子です」


私たちは即座に作戦会議を開いた。捕まったアライグマを救出するべきか。しかし、それは危険を伴う。


「行くべきだ」私は決意を固めた。「仲間を見捨てるわけにはいかない」


「でも、危険すぎるわ」ミウが心配した。「それは小田切の本拠地よ」


「だからこそ、情報を得る絶好のチャンスでもある」私は言った。「彼らの作戦や施設の様子を知ることができれば、今後の対策に役立つ」


議論の末、救出作戦を実行することが決まった。ただし、無謀な突入ではなく、まずは偵察から始める。カラスたちの協力を得て、施設の様子を詳しく調査する計画だ。


「私が行く」私は宣言した。「東京での経験が役立つはずだ」


「一人では危険だ」チロが反対した。「俺も行く」


「私も」ミウも前に出た。


「いや」私は首を振った。「全員が行けば、王国が無防備になる。ミウ、君はここに残って指揮を執ってくれ」


ミウは不満そうだったが、最終的に同意した。「約束して。無理はしないで」


「ああ、約束する」私は頷いた。「情報収集が最優先だ。危険は冒さない」


準備を整え、私とチロはカラスの案内で市の研究施設へと向かった。捕らわれた仲間を救い出せるか、そして小田切の計画の詳細を探れるか。この作戦の成否が、私たちの未来を左右するかもしれない。


空を飛ぶカラスと地上を進む私たち。種を超えた「同盟の響き」が、初めての大きな試練を迎えようとしていた。


---


夕暮れ時、私とチロは市の研究施設の近くに到着した。カラスたちは上空から偵察を続け、定期的に報告を送ってくる。


施設は予想以上に大きく、厳重に警備されていた。高いフェンスに囲まれ、監視カメラが要所に設置されている。


「あれが研究棟だ」チロが低い茂みの中から指差した。「あの車から仲間のアライグマを下ろしたらしい」


「入り口はどこだ?」


「北側にある小さな扉だ」偵察から戻ったカラスが報告した。「警備は手薄だが、監視カメラがある」


「電気系統は?」私は尋ねた。


「南側の小屋だ」カラスが答えた。「しかし、接近するのは困難だろう」


私たちは状況を分析し、作戦を練った。正面からの突入は不可能だ。しかし、夜間に警備が緩むとすれば、その隙をついて潜入できるかもしれない。


「まず施設の内部構造を知る必要がある」私は言った。「誰か中を見たことはないか?」


「実は…」カラスの一人が言葉を選びながら言った。「我々の中に、窓から内部を覗いたことのある者がいる。小田切の研究室の位置も把握している」


「素晴らしい」私は興奮した。「その情報は極めて貴重だ」


カラスは口頭で施設の内部配置を説明し、私は雪上に簡単な地図を描いた。研究室、動物保管室、スタッフルーム…全体像が見えてきた。


「ここが弱点だな」チロが地図の一点を指差した。「裏口の換気口。そこから忍び込めるかもしれない」


日が完全に沈み、施設の明かりが暗くなり始めた。作戦開始の時だ。


私たちは慎重に施設に近づいた。カラスたちは交代で見張りを務め、危険が迫れば警告を発する。チロと私は雪の上に足跡を残さないよう、細心の注意を払った。


裏口に到達すると、予想通り換気口を発見。しかし、それは思ったより高い位置にあった。


「背中に乗れ」チロが提案した。「俺が支えるから」


チロの背中に乗り、辛うじて換気口に手が届いた。格子は錆びついており、少し力を入れるとグラグラと動いた。


「開きそうだ」


慎重に格子を外し、中を覗く。暗い通路が見えた。十分なスペースがある、私たちのような小動物なら通れるだろう。


「行くぞ」


私は換気口から中に滑り込んだ。チロも後に続いた。施設内は静かで、わずかに機械の稼働音だけが聞こえる。


「どちらへ行く?」チロが小声で尋ねた。


「動物保管室だ」私は答えた。「カラスの情報によれば、右の通路を進み、二つ目の角を曲がったところだ」


私たちは静かに通路を進んだ。人間の匂いが強く、緊張が走る。どこかで人間に見つかれば、一巻の終わりだ。


曲がり角で一度立ち止まり、周囲を確認。人の気配はない。先に進むと、「動物保管室」と書かれたドアが見えた。


「ここだ」


ドアの下には小さな隙間がある。そこから中を覗くと、いくつかのケージが並んでいた。その一つに、アライグマが入れられている。


「見つけた」私は小声で言った。「でも、ドアが閉まっている」


「鍵は?」チロが尋ねた。


私はドアノブを調べた。電子ロックだ。これは難しい。


「東京の経験では、こういう鍵は開けられない」私は認めた。「別の方法を考えないと」


「窓はないのか?」


「あっちだ」


私たちは部屋の外周を回り、窓を探した。小さな窓があったが、高すぎて届かない。


「何か別の手段を…」


そのとき、足音が聞こえてきた。誰かが近づいている!私たちは急いで物陰に隠れた。


廊下を歩いてきたのは若い女性研究員だった。彼女は動物保管室のドアを開け、中に入っていった。


「チャンスだ」私は囁いた。「ドアが開いている間に入ろう」


私たちは素早く室内に滑り込んだ。部屋の隅の棚の下に身を潜める。


研究員は捕らえられたアライグマのケージの前に立ち、観察記録をとっているようだった。


「個体番号A-471、メス、推定年齢3歳…」彼女はスマートフォンに音声入力していた。「外見上の特徴として、右耳に古い傷跡あり。性格は警戒心強く、攻撃的」


ケージの中のアライグマは確かに怯えていたが、それ以上に怒っているようだった。彼女は檻の隅で身を丸め、時折低い唸り声を上げる。


研究員は記録を終えると、部屋を出て行った。ドアは自動的に閉まり、私たちは再び閉じ込められた形になった。しかし、目的のアライグマにはたどり着いた。


「大丈夫か?」私はケージに近づきながら声をかけた。


メスのアライグマは驚いて振り向いた。


「誰?」彼女は警戒した様子で言った。


「私はラスク。これはチロだ。助けに来た」


「助けに?」彼女は疑わしげに私たちを見た。「どうやって?」


「それを考えているところだ」私は正直に答えた。「まずは君の名前を」


「クルミ」彼女は名乗った。「札幌の南区で暮らしていた」


「どうやって捕まったんだ?」


「餌に釣られたの」クルミは恥ずかしそうに言った。「あまりに空腹で…油断した」


「大丈夫、誰にでも起こりうることだ」私は彼女を安心させた。「さあ、どうやって出るか考えよう」


ケージを調べると、複雑な閉鎖機構があった。私の技術では開けられない。


「窓から出られないか?」チロが提案した。


窓を調べたが、固く閉ざされていた。開ける方法は見当たらない。


「ドアしかないな」私は結論付けた。「でも、どうやって開ける?」


私たちが考えている間、施設内の別の場所で騒がしい音が聞こえ始めた。何かが起きている。


「何の音だ?」チロが耳をそばだてた。


すると突然、緊急アラームが鳴り響いた。赤いランプが点滅し、自動音声がスピーカーから流れ始めた。


「避難訓練を開始します。全職員は指定の避難経路で建物の外に出てください」


「訓練?」チロは困惑した。


「違う」私は気づいた。「これはカラスたちの仕業だ!」


そう言った直後、奇妙な羽音が聞こえ、一羽のカラスが換気口から室内に飛び込んできた。


「ヤマトの命令だ」カラスは言った。「緊急事態アラームを起動した。人間たちは今、全員避難している」


「賢い」私は感心した。「でも、ドアはまだ閉まっている」


「そのためにこれを持ってきた」カラスは嘴で何かを落とした。それは小さなカードキーだった。「研究員のポケットから、ちょっと借りてきた」


「素晴らしい!」


私はカードキーを持ち、ドアのリーダーに近づけた。緑のランプが点灯し、ドアが開いた。


「急げ」カラスが促した。「人間たちが戻ってくる前に脱出しないと」


私たちはクルミのケージを開け、彼女を解放した。四匹は急いで避難経路を辿り、施設の裏口へと向かった。


外に出ると、カラスの群れが上空で待機していた。彼らは私たちに気づくと、誘導するように先を飛んだ。


「彼らについていくんだ」私はクルミに言った。「安全な場所に連れて行ってくれる」


私たちは雪の中を全力で走った。背後では施設のアラームがまだ鳴り響いていた。やがて十分に距離を取ると、安全な茂みの中で一息ついた。


「ありがとう」クルミは心から言った。「助けてくれて」


「仲間だからな」私は微笑んだ。「それに、情報も必要だった」


「情報?」


「ああ、小田切の計画についてだ。施設の中で何を見た?何か聞いた?」


クルミは思い出すように目を閉じた。


「研究員たちが話しているのを聞いた」彼女は言った。「彼らは『識別システム』について話していた。アライグマの個体識別と、行動パターンの分析だって」


「個体識別?」チロが尋ねた。


「そう。各アライグマに番号を振り、DNAサンプルを取って、データベース化するらしいわ」クルミは説明した。「そして、その情報をもとに『効率的な駆除計画』を立てるつもりみたい」


「なんて…」私は言葉を失った。


「もう一つ」クルミは真剣な表情で続けた。「彼らは『集中作戦』について話していた。来週、北区の廃棄物処理施設跡地を一斉捜索するって」


「廃棄物処理施設?」チロが驚いて私を見た。「それは…」


「ああ、私たちの『王国』だ」私は緊張した面持ちで言った。「彼らは既に場所を突き止めている」


「急いで戻らないと」チロが立ち上がった。「皆に警告しなければ」


私たちは最大限の警戒心を持って「王国」へと急いだ。カラスたちは上空から守りを固め、私たちの安全な帰還を援護してくれた。


「王国」に戻ると、ミウが心配そうに出迎えてくれた。


「無事だったのね!」彼女は安堵の表情を見せた。「うまくいったの?」


「ああ、クルミを救出できた」私は紹介した。「そして重要な情報も得た」


私たちは緊急会議を開き、得た情報を全員で共有した。来週の「集中作戦」に備え、対策を練る必要がある。


「移動するしかないかもしれない」チロが沈痛な面持ちで言った。


「でも、この厳冬期に?」ミウが心配した。「新しい避難場所を確保できるの?」


議論は深夜まで続いた。最終的に、「王国」を完全に放棄するのではなく、一時的に分散して身を隠し、作戦が終わった後に戻ってくる計画が立てられた。


カラスたちも協力を約束してくれた。彼らは分散した隠れ家を上空から監視し、連絡役を務める。さらに、小田切チームの行動を常に追跡し、情報を提供してくれるという。


「種を超えた同盟の力だな」私は感慨深く言った。


「Indeed!」ヤマトが英語交じりで応じた。「我々の知恵を共有することで、生き延びる道が開ける」


「会議が終わった後、私は事務所の窓から外を眺めていた。雪が静かに降り始め、「王国」は再び白い装いで覆われていく。」


「心配?」背後からミウの声がした。


「少しな」私は正直に答えた。「ただ…」


「ただ?」


「東京を離れたとき、単に生き延びることだけを考えていた」私は言った。「でも今は、守るべきものがある。仲間がいる」


ミウは私の横に立った。彼女の温かさが、心にも伝わってくる。


「一緒に乗り越えましょう」彼女は静かに言った。「北の流儀で」


窓の外では、カラスたちが雪の中を飛び交っていた。上空から見張りを続ける彼らの姿。種を超えた絆が、厳しい北の冬を生き抜く希望となっていた。


「明日からの準備をしよう」私は決意を新たにした。「私たちの『同盟の響き』が、小田切の計画を打ち破るはずだ」


雪は静かに降り続け、様々な足跡が雪面に刻まれていた。アライグマ、タヌキ、カラス…異なる生き物たちが、一つの目的のために集まった証だった。

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