第5話「監視者の影」
朝日が雪面に反射して、事務所の窓から差し込んでくる。マイナス12度の空気が窓ガラスの内側に霜の花を咲かせていた。
「今日も寒いな」
私、ラスクは窓の霜に前足で模様を描きながら、外を見つめていた。昨夜の吹雪は収まり、王国は一面の銀世界に包まれている。
「おはよう」
背後からミウの声がした。彼女はもう目を覚まし、毛づくろいを終えたところだった。
「チロはどこだ?」
「また早朝から探索に出かけたわ」ミウは窓際に来て、外を見た。「昨日聞こえた音が気になるって」
昨夜、地下から聞こえた謎の音。水の流れるような、金属がきしむような不思議な音だった。チロはそれが気になって、今朝早くから調査に向かったらしい。
「あの音、何だったんだろうな」
「私も気になるわ」ミウは少し表情を曇らせた。「この場所に隠された何かかもしれない」
私たちはしばらく外を眺めていた。そこへ、勢いよくドアが開き、チロが雪まみれの姿で飛び込んできた。
「大変だ!急いで見てくれ!」
彼の興奮した様子に、私たちは飛び上がった。
「どうした?何かあったのか?」
「説明している時間はない。とにかく来い!」
チロは私たちを促し、再び外へと飛び出した。ミウと私も急いで後を追った。
外の冷気が肺を刺す。チロは王国の敷地を横切り、森に続く小道へと私たちを導いた。新雪の上には、チロの往復した足跡だけが残っている。
「これを見ろ」
チロは森の縁に立ち、少し離れた場所を指さした。そこには、雪に覆われた金属の柱が立っていた。
「何だ?これは」
近づいてみると、それは最新型の監視カメラだった。小さなレンズと赤いLEDが私たちをじっと見つめている。
「監視カメラ…だな」私は緊張して言った。
「そうだ」チロが頷いた。「しかも新しい。昨日までここにはなかった」
「誰かが設置したの?」ミウが周囲を警戒しながら尋ねた。
「ああ。人間どもの足跡がある。雪が降る前に来たようだ」
私たちは不安な気持ちで監視カメラを見つめた。このカメラは何のために設置されたのか。私たちを監視するためか。それとも偶然なのか。
「他にもあるかもしれない」私は周囲を見回した。「手分けして探そう」
私たちは別々の方向に散り、王国の周辺を調査した。結果、3つのカメラが見つかった。すべて王国を取り囲むように設置されている。
「完全に監視されているな」私たちが再集合したとき、チロが暗い表情で言った。
「でも、なぜ?」ミウが疑問を呈した。「ここは廃墟だし、人間はもう来ないんじゃないの?」
「いや、来るんだろう」私は推測した。「おそらく…『害獣』対策だ」
「なるほど」チロは考え込むように言った。「噂では、市役所が本格的な『害獣一掃作戦』を計画しているらしい。カメラはその一環かもしれん」
「知らないと危険だな。食料調達に出かけた時に見つかったら…」
「そうね」ミウが頷いた。「もっと情報が必要だわ」
情報と言えば…。突然閃いたように、私は思い出した。
「情報屋のヒソカだ!」
「ヒソカ?」ミウが首を傾げた。
「ヤマトが言っていたドブネズミだ。JR札幌駅の地下にいるらしい。彼なら何か知っているかもしれない」
「そうだな」チロも同意した。「駅の地下は人間の情報がたくさん集まる。そのネズミが聞き耳を立てていれば、役立つことも知っているだろう」
私たちは作戦を練った。食料は昨日確保したので、今日は情報収集に専念する。私が駅へ行き、ヒソカに会う。チロはカメラの監視範囲を調査し、ミウは王国の防衛を強化する。
「夕方までには戻る」私は約束した。「カメラには気をつける。見つからないように行動する」
「気をつけてね」ミウが心配そうに言った。
「腕章を持っていけ」チロが差し出したのは、古い布切れだった。「これがあれば、ヒソカの仲間に襲われずに済む。『北の盟友』の証だ」
私は腕章を受け取り、札幌駅に向けて出発した。
---
札幌駅までの道のりは、思った以上に困難だった。監視カメラは王国の周辺だけでなく、住宅街の要所にも設置されている。人間の姿も多く、昼間の移動は危険と隣り合わせだ。
私は影から影へと移動し、時には排水溝や雪の壁の中を通り抜けた。東京で培った隠密行動の技術が、ここでも役立っている。
2時間ほどかけて、ようやく札幌駅に到着した。巨大な建物の周囲には人間があふれ、構内は活気に満ちていた。
「地下への入口は…」
チロの説明によると、駅の西側に小さな換気口があるらしい。そこから地下通路へ潜入できるという。
人間に見つからないよう注意しながら、私は西側へと回り込んだ。そこで見つけたのは、雪に埋もれかけた金属製の格子だった。押してみると、少し動く。以前、誰かが壊したようだ。
私は隙間から体を滑り込ませ、暗い通路へと降りていった。駅の地下は予想外に広く、複雑な通路が迷路のように広がっている。人間用の通路とは別に、配管や電線の通るダクトや隙間がある。小動物にとっては絶好の移動経路だ。
「ヒソカはどこだ…」
しばらく迷った末、私は小さな物音に導かれた。それは微かな引っ掻き音と、かすかな会話の声。通路の奥から聞こえてくる。
私はチロから借りた腕章を前足に巻き、音のする方向へと進んだ。通路が急に開けると、そこは驚くべき光景だった。
駅の地下、人間の目が届かない場所に、小さな「都市」が広がっていたのだ。ダンボールや廃材で作られた小屋、配線から引かれた小さな明かり、そして何十匹もの動物たち—主にネズミだが、時折モルモットや小鳥の姿も見える。
「おい、お前は誰だ?」
突然、太ったドブネズミが私の前に立ちはだかった。彼の後ろにはさらに数匹のネズミがいる。
「ラスクだ。東京から来たアライグマだ」私は腕章を見せた。「チロから紹介された。情報屋のヒソカに会いに来た」
ネズミたちは腕章を見て、互いに顔を見合わせた。そして、最初のネズミが頷いた。
「ついてこい」
彼の先導で、私は地下都市の中心へと向かった。そこには、古いテレビの箱を改造した「建物」があり、その前には列を成すネズミたちが並んでいた。
「ヒソカ様に会いたい者がいます」私の案内役が箱の入口で声をかけた。
「入れ」中から低い声が返ってきた。
私は小さな入口をくぐり、中に入った。そこには一匹の老ネズミが、クッションの上に座っていた。彼の周りには新聞や雑誌の切れ端、人間のスマートフォンの画面を映したような小さなディスプレイまであった。
「東京から来たアライグマか」老ネズミ—ヒソカだろう—が私を見上げた。「噂は聞いている。何の用だ?」
「情報が欲しい」私は率直に言った。「最近、市が設置した監視カメラについて」
ヒソカはディスプレイに目をやり、何かを確認した。
「ほう、気づいたか。あれは昨日から始まった『害獣対策強化プロジェクト』の一環だ」
「害獣対策?」
「そうだ」ヒソカは頷いた。「つい先日、市役所で記者会見があった。小田切守という男が中心になって進めている計画だ」
「小田切守…」その名前は以前、ヤマトから聞いたことがあった。
「彼は札幌市鳥獣被害対策課の新しい主任だ。元々は自然保護活動家だったが、今は『害獣ゼロ』を掲げる男だ」
ヒソカは新聞の切れ端を指し示した。そこには小田切らしき男性の写真と共に、「徹底駆除で住みよい街に」という見出しが踊っていた。
「記者会見の内容は?」私は尋ねた。
「監視カメラの設置、新型トラップの導入、GPSタグ付き首輪による追跡システム、そして市民からの目撃情報を一元管理するアプリの開発だ」ヒソカは淡々と説明した。「特にアライグマは最重要ターゲットの一つとされている」
「そこまでやるのか…」私は息を呑んだ。「なぜそこまで執着するんだ?」
「個人的な恨みもあるようだ」ヒソカは小さく笑った。「彼の自宅が数年前、アライグマに荒らされたという。それ以来、彼は180度方針転換した」
「その小田切という男は、どんな人物なのか?」
「几帳面で使命感が強い。仕事に関しては妥協を許さない。常に手帳とスマホで記録を取る。そして…」ヒソカは少し言葉を選んだ。「アライグマの習性を徹底的に研究している」
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず、か」私は父からよく聞いた言葉を思い出した。
「正確にはな」ヒソカは身を乗り出し、小さな声で続けた。「小田切が率いる『害獣対策課』は、明日から本格的な作戦を開始する。名付けて『冬眠前一掃作戦』。外来種を冬に入る前に徹底的に捕獲、駆除するというものだ」
「冬眠前って…冬はとっくに来てるだろ」
「そう言ったのは私ではない」ヒソカは肩をすくめた。「行政の仕事は常に遅れるものだ」
「作戦の詳細は?」
「まずは豊平川流域とモエレ沼公園周辺から始め、徐々に市内全域へと広げていく。主に夜間の作戦だ」
この情報は非常に価値がある。私たちの「王国」は直接のターゲットにはなっていないようだが、油断はできない。
「他に知っておくべきことは?」
ヒソカは少し考え、それから言った。「実は、小田切の作戦に異を唱える人間もいる。遠藤美雪という女性ジャーナリストだ。彼女は『外来種と共存できる札幌』を提唱している」
「遠藤美雪…」私はその名を記憶にとどめた。
「彼女が書いた記事のせいで、市議会内でも意見が分かれているようだ。駆除か共存か、議論が続いている」
「情報感謝する」私は頭を下げた。「お礼はどうすれば?」
ヒソカは笑った。「チロの腕章を持つ者に初回の情報は無料だ。だが次回からは…」彼は意味深に言葉を切った。「価値ある情報との交換になる」
私は感謝の意を示し、ヒソカの住処を後にした。地下都市の住人たちに見送られながら、来た道を戻る。
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駅から「王国」への帰り道、私はさらに警戒を強めた。監視カメラの存在と、明日から始まる「一掃作戦」のことを考えると、一刻も早く仲間に伝える必要がある。
しかし、住宅街に入ったところで思わぬ光景を目にした。
「何だ、あれは…」
小さな公園に、数人の人間が集まっている。制服らしき服を着た男性と、周囲の住民のようだ。彼らは何かについて説明を受けていた。
私は茂みの影に身を隠し、その様子を探った。男性は手に持った図面を示しながら話している。
「…これが新型センサーの設置箇所です。赤外線センサーと動体検知を組み合わせ、中型動物の動きを特定します…」
その男性こそ、小田切守に違いない。写真で見た顔と一致する。彼は40代半ばで、眼鏡をかけ、几帳面な印象だ。
「小さい子どもがいる家庭は特に不安ですよね。アライグマは見た目は可愛いですが、実は危険な病気を持っていることもあります」
小田切の説明に、住民たちが不安そうに頷いている。
「この地域は先週、目撃情報が3件ありました。今日から防犯カメラも増設し、24時間体制で監視します。不審な動きを見つけたら、すぐにアプリで通報してください」
そう言って、小田切はスマートフォンのアプリの使い方を説明し始めた。
「奴が小田切か…」私は茂みの中で固まった。
私を「害獣」として駆除しようとする男の姿。しかし、彼の表情や話し方は憎しみに満ちたものではなく、むしろ使命感や責任感が感じられる。彼なりの「正義」を実行しているのだろう。
説明会が終わり、人々が散り始めたとき、一人の少年が茂みの近くを通りかかった。
「カズナリ!」
思わず声に出しそうになるのを抑えた。あの少年は間違いなくカズナリだ。何をしているのだろう?
カズナリは公園の隅でスケッチブックを広げ、何かを描いていた。説明会を聞いていたのだろうか。彼の表情は少し曇っている。
私は少し近づき、彼の描いているものを見ようとした。そのとき、彼が突然顔を上げ、私の隠れている茂みの方を見た。
一瞬、目が合ったような気がした。カズナリの目が大きく見開かれる。彼はすぐにスケッチブックを閉じ、周囲を見回した。誰も見ていないことを確認すると、彼はポケットから何かを取り出し、さりげなく茂みの下に置いた。
そして、「またね」と小さく呟き、立ち去った。
カズナリが去った後、私は慎重に近づき、彼が置いていったものを見た。それは小さなチョコレートの欠片と、折りたたまれた紙切れだった。
紙を広げると、そこにはメッセージが書かれていた。
「危ないよ。カメラが増えてる。僕の家の窓は開けておくから」
この少年は…私たちのことを心配してくれているのか?
チョコレートには触れず(父は「チョコは毒だ」と教えてくれた)、私は紙を持って急いで「王国」へと向かった。
---
「王国」に戻ると、ミウとチロが事務所で待っていた。二匹とも緊張した面持ちだ。
「何かあったのか?」私は尋ねた。
「監視カメラが増えているわ」ミウが報告した。「さっき、人間たちが新しいものを設置していったの」
「俺も見た。小田切守という男だ」
私はヒソカから得た情報と、小田切の説明会で聞いたことを詳しく話した。そして、カズナリの警告も伝えた。
「そうか、状況は思ったより深刻だな」チロが重々しく言った。
「対策を考えないと」私は言った。「まず、明日からの『一掃作戦』に備えて、外出は最小限にする。特に豊平川流域とモエレ沼公園周辺は危険だ」
「でも、食料はどうするの?」ミウが現実的な問題を指摘した。
「備蓄で何日持つか計算しよう。それに基づいて、リスクの低い時間と場所を選んで調達する」
チロも頷いた。「俺が知っている安全なルートもある。裏道や下水道を使えば、監視の目を避けられるだろう」
私たちは地図を広げ、安全なルートと危険区域をマーキングした。「王国」はまだ直接のターゲットではないようだが、周辺のカメラ設置は憂慮すべき事態だ。
「それと、地下施設をもっと整備しよう」私は提案した。「あの音の正体も調査する必要がある」
「実はな」チロが言った。「お前がいない間に調べてみたんだ。あの音は、地下に眠る古い配管が温度変化で伸縮する音らしい。危険な兆候ではなさそうだ」
「それは良かった」私は安堵した。「地下は厳冬期の避難所として重要だ」
計画を立て終わると、私たちは食料庫へ向かい、備蓄状況を確認した。今の量なら、約5日間は持ちそうだ。その間に小田切の「一掃作戦」の様子を見て、次の行動を決めよう。
「カズナリの件はどうする?」ミウが尋ねた。「彼の家は安全な避難場所になるかもしれないけど…」
「人間を完全に信用するのは難しい」チロが警告した。「あの少年は今は好意的かもしれないが、状況が変われば変わるかもしれん」
「わかっている」私は頷いた。「でも、選択肢として残しておこう。緊急時には…彼の窓を頼るかもしれない」
その日の夕方、私は事務所の窓から外を眺めていた。日が落ち、辺りは闇に包まれていく。数日前までは星が輝いていたのに、今夜は曇りで何も見えない。
「まるで未来のようだな」私は呟いた。
「どういう意味?」後ろにいたミウが尋ねた。
「星が見えない。何が起こるか分からない。でも、前に進むしかない」
ミウは私の横に立った。彼女の体温が、少しだけ冷えた心を温める。
「一緒に乗り越えましょう」彼女は静かに言った。
その時、不意に窓の外で動く影に気がついた。
「あれは…」
私たちは身を潜め、窓の隅から覗き見た。月明かりに照らされて、一人の少年が雪の上に立っていた。カズナリだ。
彼はスケッチブックを広げ、何かを描いている。時折、「王国」の方を見上げるような素振りがある。
「何をしているんだ?」
「スケッチしているのね」ミウは小声で言った。「私たちの住処を」
カズナリは夢中で描き続けた。寒さのせいで手袋をした手が震えているようだが、それでも熱心だ。彼の表情には、好奇心と、どこか孤独な影が見える。
しばらくして、彼は描き終えたスケッチブックを眺め、満足げに頷いた。そして、最後にもう一度「王国」を見上げ、「君たちに害意はないんだよね」と呟いた。
その言葉が、かすかに窓を通して私たちの耳に届いた。
カズナリは踵を返し、来た道を帰っていった。その小さな足跡だけが、雪の上に残された。
「あの少年は…」チロまでもが言葉を失っていた。
「特別な子ね」ミウが言った。「人間なのに、私たちを理解しようとしている」
私は窓についた霜を拭き、カズナリの姿が見えなくなるまで見送った。
「彼は架け橋になるかもしれない」私は思わず言った。「人間と私たちの間の」
その夜、私は複雑な気持ちで眠りについた。敵意む雪の中で、小さな灯りを見つけたような感覚。小田切の監視の目と、カズナリの優しい視線。相反する人間の姿に、私たちの未来を垣間見た気がした。
雪は静かに降り続け、「廃墟王国」を白く覆っていった。そして監視カメラの赤いランプだけが、闇の中でじっと私たちを見つめていた。
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