第2話 強引な導き

 古い大きな柱時計の音が幽かに聞こえる。僕は今彼女の住処、景水荘にいる。その柱時計は、ここ景水荘の背中側、北側に在る古い洋館の、おそらく1階に設置してあるものだろう。時間を告げる音は1時間毎に鳴り、その時の回数だけゴングを鳴らす。先は3回鳴ったので、現在時刻は15時。昨日はこのくらいにかみさまがいらっしゃった。かみさまは人間と時間の感覚がズレているのか、お忙しいのか、1ヶ月に1度か2度しかいらっしゃらない。彼女はそんなかみさまを今日も待っている。

  彼女はこの時間、窓から差す陽の当たる畳に寝そべって、猫のように微睡んでいる。かみさまがその身体にいらっしゃるのを毎日そうして待っているから、彼女の髪は少し焦げ茶色を帯びてきていて、その髪が陽に当たると忽ち、金色に輝く。僕はそんな彼女をずっと見ている。見守っている。太陽の隠し持つ強いエネルギーに、彼女が消えてしまうことのないように。それほどに彼女は儚く、擦り切れているから。

  出会ってこれまで、ほとんど会話がない。僕は彼女のことを全く知らない。成り行きのままここに来るようになったが故にどういう関係なのかも分からない。でも、彼女がかけがえのない存在だということは分かる。

  4ヶ月前、人好きの母が同じ市内に遠い親戚が越してきたということを知っただけで、軽く挨拶に行こうと言い出した。それについて行った先で僕は、彼女に出会った。その時はたまたま母親と父親が留守で、彼女だけがその家に残っていたんだと思っていたが、どうやら越してきたのは彼女ただ1人なのだということを僕は後から分かった。母は未だそれを知らず、そして知らずとも彼女のことをひどく気にかけている。母はその挨拶以来、毎週土日に景水荘に彼女の様子を見に行こうと躍起になった。僕はその度に母の気持ちを宥め、代わりに僕がおにぎりとおかずを持って景水荘に行った。それほどに母は彼女の安否を憂慮していた。母をそうさせるのは、挨拶の時の彼女の様子の所為だろう。あの時彼女は尋常ではない様子を見せた。

  あの時。母がインターフォンを2回押して、3回目押すべきか迷った頃に扉を開けた彼女は、拙い口調で母の挨拶に受け答えをしていた。挨拶が10分くらい続いた頃、彼女の疲れ始めた様子を感じ取った母が潮時を感じて、引き上げようとした。玄関先で始まって玄関先で終わるはずだったその挨拶は、扉を掴んだ途端、何もかもを奪われた廃人のように膝をついた彼女によって有耶無耶にされた。忽然と視界から一瞬消えた彼女に僕と母は驚きつつも寄り添い、声をかけながら身体を担いだ。軽かった。そして部屋の中まで彼女を運んだところで、母は身体に以上がないかの確認をしながら119にコールしていた。僕はその時横で、彼女はきっとナルコレプシーなんだろうと考えていた。彼女は畳に身体を預けきって、目も閉じていた。救急車を待っている間、母は部屋の扉の前に立ち、僕は彼女の様子を見ていた。呼吸はしているから、死んではいないか、と思ったところで、僕は人の聴覚は意識を無くす死ぬ直前まで機能しているという知識を思い出した。そして彼女の耳をじっと見た。たぶまでその身体と同じように薄く、穴は綺麗な丸で、漆黒だった。「大丈夫?」聞こえていると信じて、僕はその耳に問いかけた。すると、「うん。大丈夫」そう返事があった。僕の身体は反射でグッと強ばりながら、彼女の顔を見た。彼女の目は閉じたままだったから安堵したが、口はその口調と同じ、にっこり微笑んでいた。「もう大丈夫なの?」僕は強ばった身体の力を抜きつつ問いかけた。「うん。彼女は大丈夫。降りて来るのが急だったね」「はあ。」彼女は頭のおかしな子なのかもしれないという思いと、やっぱりナルコレプシーなんだろうという考えが交互に過ぎった。救急車のサイレンが近づいてくる音がし始めた。そしてそれに反応を見せた彼女は優しい口調でこう言った。「もう他の人が来てしまうから出ていくけど、君、来週の日曜日ここへ来なさい。待ってるよ」僕はそれに言葉を持たず、彼女の口角が下がっていって真っ直ぐになるのを眺めていた。僕は放心していた。知らない場所で知らない女の子に回りくどい方法でまた来てねと言われた、どうすればいいんだろう。そんなことを考えていると、彼女は虚ろな目を開き、喉を骨ばった腕で抑えながら声を発した。「水筒」それがかみさまとの出会いだった。

その時のかみさまの言葉と、母をこの女の子に関わらせることで母に不利益が被るかもしれないという思いから結局僕は次の日曜日に景水荘を訪れ、そこで地球の危機について聞かされた。僕は生半可な気持ちで、全て承諾してしまった。

  かみさまは決まって彼女の身体を使って現れた。彼女は霊的な適正があるようで、かみさまは現状彼女の身体に降りてくることでしか、僕と話すことができないと仰っていた。そして彼女がなぜそんな奇天烈な身体になったのかは、どうやら家系が原因らしい。彼女の家系の女は皆霊的な体質をもって産まれる、そして彼女もそんな体質に産まれた故、かみさまを身体に迎え入れることができる。これもかみさまが仰っていたことで、彼女から聞いたわけではない。僕らは会話をしてこなかったから、互いをほとんど知らない。仲を深めたいという気持ちは強くあるが、彼女は僕に興味が無さそうな様子で、話しかける勇気が湧かない。かと言って僕も彼女に話しかけられたくはない。彼女から会話が始まる時、それはきっと仕事の始まる時だからだ。そんなジレンマがあって、僕らは今日も会話をしない。

  柱時計が4回ゴングを鳴らして、陽が部屋の中を充分に満たすこともなくなった。16時から17時、僕は大抵この間に帰宅する。今日は早めに、もう帰ろう。16時のゴングが鳴ったばかりだったが、今日の夕飯はカレーと聞いていたから、早く帰りたくなった。僕は胡座を崩し、片手で畳を押して立ち上がった。その瞬間、僕の日常は終わった。その衣服と畳の擦れる音に彼女が反応し、こっちを見た。僕はその彼女の眼差しを見た時、血の気が引いた。「ねえ、かみさまの仰ったこと。覚えてる?」ああ、きっと今日だ。彼女の「水筒」、という声以外を聞いたのはこれで初めてだった。そしてこの問いは言葉少なだけど、僕にはその問いの真意が分かっていた。分かっていたから、僕は彼女の急な問いかけに驚くことはなく、恐れていたことが起きたという恐怖を抱いた。もちろん覚えている、仕事のことだ。「地球存続のための、僕たちの仕事のこと?」「うん。」それをかみさまから命ぜられたのにも関わらず、僕らはこの4ヶ月間、それに取り掛かろうともしなかった。取り掛かれるはずがない。生半可な気持ちでここまできてしまったんだ。そして、「命は大切なんだよ」そうだ。命は大切な、かけがえのないものなんだ。「でも、やらなくちゃいけない。少ない命と、多くの命、一心君、どっちが大切だと思う?」僕の葛藤を知る由もない彼女はそう冷たく言い放った。焦りが喉を貫通する。僕にはまだ、というかこの先もたぶん、心の準備なんてできない。「多くの方」「そうだよね」僕らはゆったり、時間を稼ぐようにのろのろと会話をしていた。そのせいか、彼女の声は所々震えていた。「よし。」彼女が何かの覚悟を決めたように拳を握った。何か、仕事以外のことであってくれ。僕の呼吸は乱れ始めていた。烏が巣に帰る時の鳴き声が聞こえる。部屋の中の陰りが次第に僕らを飲み込んでいく。静謐。「昨日、かみさまに相談してたことってもちろん、覚悟を決めるためだよね。そろそろ、覚悟を決めないといけない。私はもう迷うのはやめたい。だから、」僕はそれに返答を持たない。少ない命。多くの命。嫌いな命。好きな命。僕は今綺麗事を考えている、そんなの無駄なことなのに。必定、この先僕は母の元に帰れないだろう。「だから、一心君の父親。今日何時頃帰ってくるの?」彼女のその声は今目の前にじんわり広がりつつある闇よりも深い。彼女の猫のように丸く鋭い目が、僕を見つめる。僕は畳に視線を送る。覚悟が決まらない。いくら地球存続のためだからといって、かみさまの仰ることだからといって、単簡に行動に移すことはできない。責任は?、罪悪感は?、まだ決心もつかない後のことを想像して不安になる。「父親。嫌いなんでしょう?父親がいなくなれば、母親も一心君も幸せになれるんじゃない?」彼女の声が、記憶の中のかみさまの声と重なっていく。左のこめかみの辺りに違和感が感じられる。そこから彼女の言葉とかみさまの言葉が入ってくる。こめかみが痛みだし、不安が攪拌されていく。父がいなくなれば、母は幸せなるかもしれない。そして人も救える。その想いがあればいい、思考が曖昧になっていく。「多分、6時くらいに、帰ってくる」答えてしまった。はっきり、十二分に父が今日帰ってくる可能性がある時間を。そんな後悔もこめかみに痛みに消される。「それじゃあ。今日、始めようよ、仕事。どうせこの先何人もやっていくんだし」その時、かみさまの言葉が頭の中で響いた。それと同時に、左のこめかみの辺りがひどく痛みだした。「君たちにしかできないし、君たちが成し遂げてくれなくちゃ、人も自然も故郷も、何もかも失われてしまう。やるんだ。人類の繁栄のため。」その痛みは、仕事を躊躇う感情を排除していった。白血球のように。やってしまわないと、やるしかないんだ。人類のため、みんなのためなんだ。多くの、大勢の命を救うんだ。母を幸せにするんだ。途端に都合の良い奨励の言葉が押し寄せる。僕はどうでもよくなった。家族だとか、命だとか、道徳だとか、どうだっていい。その勢いに任せて、僕は遮二無二自分を奮い立たせた。「人類の繁栄のため。やろう」その時の僕は、標的が父親に決定したことを忘れていた。僕らはかみさまから言われて記録した、仕事の要項を確認し始めた。「うん」彼女の声はやはり震えていた。

  僕らはかみさまから与えられた特殊な知識の通りに仕事の準備に取り掛かった。かみさまの人智を超えた力を借りるための作業だ。まず、人から視覚でも触覚でも嗅覚でも聴覚でも認識されようにするために、シャワー室で冷水を浴びて清潔な白い下着を身につけ、彼女の家にもとからあった白装束をその上から纏った。別段身体のどこかが変化した様子はないが、これで何者にも認識されることはなくなるようだ。そして次は凶器の準備に掛かる。僕は家から持ってきた習字道具の墨を磨りあげた。そして充分に墨を用意したら、それを自らの手が真っ黒になるまで塗りたくった。手の皮膚の中を泳ぐようにじわじわ浸透していく黒が怖かった。少しの間乾燥させたら、真っ黒に染まった手ができる。乾燥させる時に彼女の手を見た、彼女の手が震えているのが分かった。彼女も怖いんだ。それに気づいた途端、恐怖心が思い出したように僕の中を駆け巡った。準備が整っていく、用意が仕上がっていってしまう。僕はなんて親不孝者なんだ。頭痛がそんな僕の意気地なさを鼓舞するかのように、僕の感情を飲み込むように、左のこめかみの辺りを刺激した。それからは人類の繁栄のため。それだけを考えるように意識した。頭がぼうっとする。僕がそんな戯言を考えている間に、彼女は浮遊の準備を進めていた。足を少し濡らして白土をそこに纏わせる。それだけで僕らの身体は宙に浮き上がった。感覚的には、持ち上げられて吊るされている感覚に近い、まるであやされている赤子のように僕らの体は左右に揺れている。バランス感覚は時間をかけて整えて、遂に僕らは準備を完了させた。初めての知識、初めての行為、初めての感覚だらけなのに、心が仕事に集中しているせいで落ち着いていた。まるで誰かに意識を操られているようだ。

 柱時計のゴングが6回鳴ったのを確認した後、夕焼け小焼けを横目に、僕らは家々の屋根の高さを導に飛んで、僕の家に向かった。そして10分以上飛んだ後、僕の家の玄関の前に到着した。父の車はまだない。僕らはそこから、45分程待った。その間僕らは人のものとは思えないほど黒く染まった手を握りあって、同じ間隔、同じ深さで呼吸していた。彼女の目尻は光っていた。僕の鼓動は体中に響いていた。こめかみの痛みがだんだんと強まる。心は平静、感情の全てがその痛みに押し殺されているような感覚。やっぱりやめようなんて、僕も彼女もきっと考えていない。父の車のエンジン音が待ち遠しい。そんなことを考え始めると、頭がぼうっと熱くなって他に何も考えることがなくなった。そして、ハッと気づいた時、父が帰宅した。その時、またかみさまの言葉が頭に響いた。「人類は堕落していくんだ。飼育小屋の中の食用の鶏のようになっていっている。そして未来、人がそのまま人口を増やし続けることで宇宙のルールに背き、この星が滅亡させられてしまう。それを防ぐには、人口の大幅な減少。つまり大量殺人。これしかない。わたしは人類を繁栄させるために存在しているから、それをすることはできない。でも君たちならできる。最初は辛いかもしれない。無理だと思うかもしれない。でも、君たちはわたしに選ばれた、人類の希望だ。覚悟ができたら取り掛かって欲しい。君たちだけじゃ不安だろう、だから、思うことがあれば全てわたしに相談して欲しい。ゆっくりでもいい、君たちの寿命は伸ばしておいたから、この世界を一緒に救おう。人類の繁栄のため」人類の繁栄のために。おかあさん、どうかしあわせに。「人類の繁栄のため」僕らはその黒い手を父親の体内に潜り込ませ、心臓を握り、動きを止めて、殺した。「人類の、繁栄のため」

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