第3話 アイデンティティ
拝啓、みんな。
僕は父親を殺しました。
殺しました。
父親を殺しました。
父の心臓は蛇のようにうねり動いていました。生きていました。その生をこの手で静止した時、父は死にました。
その刹那、僕の催眠状態は解除され、後悔が溢れ出しました。彼女も泣きじゃくっていました。僕は、母を想っていました。
また僕は、大いなる理不尽を感じました。僕は理不尽が大嫌いです。今、この理不尽に対する怒りを叫びます。
どうして、どうして!僕はこんな目に!僕がこんな目に!!選ばれた?かみさま?糞食らえ!!
あの時、僕は正気じゃなかった。父への憎しみは確かにあったけど、本気で殺す気はなかった。誰が僕を操った。誰だ。
でも、これで世界は救われるんだ。飲み込もう、そうだ。飲み込んでしまおう。できるわけない。ばかばかしい。
僕は殺した後、しばらく泣いている彼女と、抜け殻の父親を交互に見ていました。父親を見る度に悲壮と自己憐憫で頭がイカれそうになるため、共犯の彼女の姿を見ることで安心感を得ていました。僕の目はショックからか閉じることを拒み、瞬きすらもできなくなりました。やがて玄関が空いて、母が父を発見しました。その時、僕の母さんにしか纏うことのできない母親のオーラが解けていくのを察しました。母さんの表情がアラレもないものになってしまう直前に、それを見てはいけないと本能が強烈に叫び、僕は逃げ出しました。彼女と一緒に。振り返ることはなく、どこへ向かうのかもよく分からず、月の大きさなんか測る余裕もなく。彼女は僕の身体に強くしがみつき、僕は彼女の頭を抱えながら飛びました。彼女が共犯で、彼女だけが僕の行いを許してくれる。なにか強い感情が身体の奥底から込み上げて、より一層彼女を強く抱きました。そして泣きました。
景水荘に着いてからは2人、抱き合って朝を待ちました。やがて眠りに落ちて7時間程眠り、幽かな柱時計のゴングの音で起き、今に至ります。彼女はまだ眠っています。きっと今頃お母さんは泣いている。姉も、祖母も、父の周りにいた人もみんな。父の生きていた頃の全てが僕を否定するのを感じます。やめてください。許してください。人類を救うためなんです。あなたたちのためなんです。理解してくれると嬉しいです。できるならば、ですが。
かみさま。これを読んだならば、またいらっしゃって、話を聞いてください。そしてできるなら、こんな思いを繰り返したくありません。慣れることはないでしょう。仕事は続けます。人類の、繁栄のため。ご加護をどうか、どうか。
みんなお身体をお大事に。 海野 一心
手紙を書き終えてまず考えたのは、もう家に帰ることはないだろうということだった。僕に母の抱擁を受ける資格があるのか、母の愛を受け取る器があるのか、きっと否だろう。どの面を下げて帰っていいのか分からなかった。かみさまは1回目の会話の時、人類の繁栄のために必要なことならば、なんだって願いを叶えてあげる。確かそう言っていた。あの家から、僕の存在、僕に関する記憶を全て消してもらおう。それで一件落着だ。めでたしめでたし。 そんなことを考えてすぐ、僕は不完全燃焼の睡眠欲と温かい気温に誘われたため、もう一度眠ろうとした。しかしこの部屋に布団は1つしかなく、そこは既に彼女のテリトリーだ。穏やかな子供らしい寝顔に、涙の軌跡が這っている。僕は眠りを妨げられることが嫌いで、それ故に人の眠りを妨げることも嫌いだ。眠る彼女の横で僕は静かに、開いた窓から吹く春の風を香っていた。
そういえば手紙に書いた通り、僕は眠りを妨げられることの他に、理不尽が嫌いだ。理不尽には怒るのが人間なんだ。社会には尊敬と信頼が必需なんだ。しかし僕の今いる子供という期間は尊敬も信頼もされ辛く、理不尽を感じやすいと思う。僕はそれを分かっている。だから理不尽を感じて、怒りが昂った時には、手紙の形式をとって想いを吐き出すことを意識している。それで大抵の怒りはパッと消えてしまうんだ。でも、今回は違った。消えてくれないんだ。ずっとこの胸に何かが渦巻いている。多分これは一生付き合っていく類いの感情で、トラウマというやつなのかもしれない。地球を救うために殺人を犯す代償。覚悟が足りなかった。僕はこれから仕事をする度、このトラウマに勝たないといけない、当たり前だ。人類を救うためとはいえ、やってることは殺人だ。僕らは同じかそれ以上のダメージ、あるいは罰を受けなければ、平等じゃない。それをやっと分かった。僕はそろそろ子供の期間を抜け出す。色々知って、分かっていかなければならない。仕事がどんなものかも分かった。己が殺人に向いていない性格だということも分かった。あとは何を知っていかなければならないのか、それすらも分からない僕だけど、そんな未来への不安を抱えた僕だけど、「それでも、覚悟はできた」人類の繁栄のため。これは勇気を振り絞るための言葉。僕が、いや、俺が、救うんだ。猫のように体躯を丸めて眠る彼女を見つめながら、決意を固めた。
柱時計が1回鳴った、時刻は13時だ。彼女が起きてくる前に、シャワーを浴びて着替えを済ませておきたい、シャワー室は1つしかないのだ。手紙を書いた後の手癖で、引き出しを手探った。いつも書き終えた手紙はそうして引き出しの中にしまっておくのだが、この部屋のこの小さな低い机にはそんなものは付いていない。その手紙をどうすればいいのか、精神衛生上、彼女の目に留まってはいけないということは分かっていた。でもこの部屋に隠し場所はなかった。衣服がぎゅうぎゅうに押し込まれた2段のプラスチックのタンス。シャワー室。収納の付いていない洗面器。暗闇の押し入れ。机。畳。1つしかない敷布団。レースの付いた窓。かみさまから授かった天井から垂れ落ちる白土。観察すると生活感が欠けた部屋だと感じる。隠し場所はどこにもない。諦めて、くしゃくしゃになって布団の足元にほっぽってあるズボンの衣嚢に手紙をしまった。そしてシャワーを浴びて、まだ手に滲んだ墨が目立つものの、俺はその部屋を出た。
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