第3話 『美雪』
私はしばらく何も考える事も出来ずに立ち尽くしていました。
気もさだまらないまま食事を乗せたトレイを取りに戻りました。美雪ちゃんのいる部屋まで、呆然と足を運びました。
美雪ちゃんはさっきと同じように、可愛らしい姿勢で座って、漫画を読んでいました。
「漫画は面白いかな、美雪ちゃん」
美雪ちゃんは、やはり返事をしませんでした。本当はふたりで食事するつもりでしたが、私は病院に行かなくてはいけません。心の中の焦りを押さえ、穏やかな声をつくりました。
「あのね美雪ちゃん。私、夕食を作ったの。良かったら食べてね」
「姉さま、ありがとう。でもわたしご飯いらない」
美雪ちゃんは無邪気に言うと、読んでいた漫画を綴じたのです。
「わたしお腹が無いの。だから食事すると、服が汚れてしまうの」
美雪ちゃんはワンピースの裾を、キュッと引っ張って、お腹の辺りをへこませました。私は冗談を言っているのだと思いました。その仕草がとても愛らしかったのです。少女らしくて、たどたどしい物でした。私は義理の妹と打ち解けたのかもしれないと思うと、凄惨な現実の中に救われた気がしました。
食事を乗せたトレイを直に床に置きました(気が焦っていたのかもしれませんね)。
美雪ちゃんの前にしゃがみ込みました。
そして、私は意を決して話し始めたのです。
「ご飯は後で食べなさいね。よく聞いて美雪ちゃん」
「なぁに、姉さま」
「病院から連絡があったの。父さんと、恭子さんが事故で入院したみたいなの。これから病院まで行って、具合をみてくるから。父さんも恭子さんもきっと無事だわ。心細いかも知れないけど、美雪ちゃん。ひとりで留守番出来る?」
美雪ちゃんは顔色を変えずに、じっと私の言葉を聞いていました。
やはり話すべきでは無かったのかもしれない。
心に苦い後悔がよぎった。その瞬間でした。
「何だ、そんな事か」
その言葉を聞いたとき、私はまだ美雪ちゃんに事の次第を説明するつもりでした。
「姉さまが怖い顔するから、もっと酷い事されるのかと思った」
美雪ちゃんは笑っていました。安堵すらしていたように見えました。女の子らしく、とても愛らしい笑顔でした。私の言葉の中に、美雪ちゃんを安堵させる言葉があったのでしょうか。
なかったように思いました。
「バカな女、用心深いと思ってたけど巻き込まれちまいやがった」
「どうしたの、美雪ちゃん?」
私は伝えなければいけない言葉を選ぶ事が出来ませんでした。
「姉さまは知らなかったかな。わたしあの女の子供だけど、御山におとこと入って交わって産まれたの。わたしの産まれた所ってここよりもずっと山奥で」
心臓が鳴っていました。とても嫌な音でした。
「人の立ち寄らないクソ田舎なの。電車やバスも、一日の間に滅多に来ないような場所なの」
私は身動きさえ出来ませんでした。
愛らしい義理の妹は、自分を締め付けるものから解放されたように、流れるように語り始めたのです。
姉さまにはわからないかな。
私の産まれた田舎は、本当に人の住んでない所だったの。海が近いんだけど、潮風が悪くて。夏には湿気るし冬は凍えるような風が吹いたの。春も夏も秋も冬も。毎日まいにち、塩が臭くてたまらないんだから。そんな所だから、昔から住んでるやつら以外は、住み着いたりしないんだもの。遠くの土地から、田舎が良いとか言ってやってくるような、気が軽い連中でも、すぐに逃げ出すような所だったの。夜逃げだとかなんだとか、住む所もないような連中も、時々は紛れ込んできたみたい。そんな行き場のない連中でも、何日か寝泊りしただけで出て行ってしまうようなクソ田舎だった。気持ちよく暮らせる日なんて、滅多にないような場所だったんだから。そんなクソ田舎だから昔からある家には名前が付いていたの。ヤゴウなんて、姉さまにはわからないかな。苗字とか住所とか別に、家に名前が付いてるの。産まれた家で偉いとかえらくないとか、決めていたの。ずっと昔からね。
ほんとう、くだらない。
姉さまもそう思うでしょ?
わたしが産まれた家はどうって事のない家だった。上(カミ)でも下(シモ)でもない。中途半端な家だった。だけどあの女は、それが気に入らなかったんじゃないかな。自分の家が偉い家じゃなかった事が気に入らなかったんじゃないかな。シモの家の男と何度も会って、いやらしい事を繰り返してたのよ。若い頃から何度もね。わたしの産まれた家の連中は、あの女が厄介者だって思っていたけれど、何もできなかった。
あはは。
ほんとうばかみたい。
あの女がどれだけいやらしい事をしたって、カミの家もシモの家も関係ないじゃん。わかるかな。カミとシモをわけてるサカイ目なんて。姉さまにわかるかな。その家の土地に榊が立ってる家はカミの家なの。榊がない家はシモの家なの。榊の陰が伸びてくる土地や、榊がなくても水場や小屋を持っていた家は、シモの家より偉いの。昔々に、とても立派で綺麗な榊があった家が、いちばんカミの家なの。今では一本も榊が生えてないし、水場も小屋もないのに、その家がいちばんのカミの家だったの。ああ、おかしい。笑っちゃう。カミの家もシモの家も、おとこと女がいやらしい事もしようと思えば、関係ないもの。だからシモの家のおとこ連中は大喜びだったんじゃないかな。姉さまにはわからないでしょ。シモの家の人間がカミの家の人間と交わると、両方の家が汚い目でみられるなんて。シモの家から誘いかけるような事したら、家族ごと嫌われるの。その家にまだ結婚してない連中がいたりしたら、それは大変な事なの。汚れた血が入るって言ってね。カミの家にもシモの家にも頭をさげてまわって、それでやっと許してもらえるの。わたしの住んでたクソ田舎じゃ、あたり前の事だったからね。シモの家がカミの家と交わる時はね、カミの家にちゃんとした贈り物をして、お伺いして、頭を畳みに擦り付けて、それでやっと返事がもらえたの。それでもシモの家からのお伺いはほとんど断られてしまうの。そんなクソみたいな仕来り無視して、シモの家の連中といやらしい事ばっかりしてたあの女のせいで、カミの家の人間はみんな嫌な思いしてた。
あははは。
ほんとうにバカみたい。くだらない。
何人くらいのシモのおとこと寝たのかな。どうせあの女だって覚えてないんだから。祭りだとか、祝い事だとかそんな事があると、夜におとこ連中を引っ掛けてたみたいなの。ううん、もしかしたら葬式やケの日でも、理由をつけておとこ連中と会ってたのかも。わたしの産まれた家は、カミでもシモでもないような家だったから、両方から汚い目で見られてたんじゃないかな。あの女、いやらしい事ばっかりしてたのに、わたしが産まれるまでどうして孕まなかったのかしら。
あはははは。
わたしがお腹のなかに出来るまで、何十人のおとこ連中と遊んだのかな。
あははははは。
あの女がやる事って言ったら、それくらいだったんでしょ。若いおとこを見つけて取っかえ引っ換えでいい気になってたんじゃないかな。頭の回らないクソ田舎の連中に、汚い目で見下されるのが愉しかったんでしょ。復讐のつもりだったんじゃないかな。産まれた家や、カミの家に報復してるつもりだったんでしょ。狭苦しい汚い生き方しかできない、小賢しいあの女が考えそうな事。
ほんとう、おかしい。
あははははは。
クソ田舎だから、祭りの日には総出しになるの。祝いに出れない家は、仲間外れになってしまうの。祝いに出れない家が仲間外れだったのかな。どっちだったかな。どっちでもいいや。
ほんとうにくだらないね。
ねぇ、姉さまもそう思うでしょ。
カミの家で童貞だったおとこがいてね、その日あの女は、そいつに目を付けていたのよ。カミの家で大人しくしてれば、嫁が向こうから来ると思ってるような、何もできないおとこだったみたいなの。カミの家はシモの家と交わると穢れるなんて、くだらない事にこだわって、アグラをカイテいるみたいなおとこだったんだってさ。あの女にしてみれば小指を捻るようなものだったじゃないのかな。祭りの夜は、クソ田舎の連中は男も女も酒を飲んでしまうから、それにあわせて、密通したの。
あはははははは。
密通するのにクソ田舎の酔っ払いの隙を見るなんて。
ほんとうにくだらないよね。そんな事。
あはははははははは。
あの女は祝いに集ってくる連中を避けて、御山の入り口でカミのおとこと待ち合わせしたの。普段は何喰わない顔で過ごしてるクソ田舎の連中が、酒を飲んで深酔いになる頃を見計らったんでしょ。ほんとう、小賢しい。汚いよね。姉さまもそう思うでしょ。カミのおとこは誰かと恋人になった事もなかったんだって。
あははははははははは。
あの女の誘いに鼻の下を伸ばして、ヘラヘラしてたんでしょ。暗がりの中で、あの女を必死に探したんでしょ。祭りに集ってきた連中の目を避けて、ふらふら歩いてるうちに御山に踏み入れたんだって。ほんとう、頭がまわらない。わかるかな、姉さま。
クソ田舎の連中なんてね、おおっぴらに騒げる事が生き甲斐なの。祭りの日には、隣の町からも人がたくさんやってくるの。酒が飲めるし、大騒ぎしても誰も何も言わないから。みんな好き勝手にするの。
姉さまにはわからないかな。
田舎の狭苦しい連中の憂さが。
本当は入っちゃいけない御山だったんだってさ。
どうせ遊びのつもりだったんじゃないかな。
あははははははははは。
入っちゃいけない御山で。
祭りの日にカミのおとことシケこんで。
心も身体も満足だったんじゃないかな。
祭りが終わった後、しばらくしたらあの女の父親が倒れたの。
わたしの爺さまになるひとだよ。
わかる?
姉さま?
医者をよんでもクソの役にもたたないのにね。干からびて寝たきりになったんだってさ。ほんの少し目を離してる間に、喰った物も飲んだ物も戻して、干からびたんだって。
あはははははははははは。
医者に何がわかるのよ。身体中をまさぐって薬を出したって何もならないのに。あの女の父親がどうなったか、姉さまだけには教えてあげる。畳のある寝室でかたくなって死んだって。シモの家の親戚に行き遅れのおんながいてね、わたしの産まれた家で手伝いしてたの。
あははははははははははは。
からからに干からびてたんだって。
道端に落ちてる犬の汚物みたいになってたんだって。
あはははははははははははは。
手伝いが死体を見つけた時に撫でたんだって。
ガサガサのガビガビになってたんだって。
あははははははははははははは。
あの女は産まれた家からも蔑まされて生きてきたの。
あはははははははははははははは。
カミの家の連中もシモの家の連中も汚い目で見るから。
あはははははははははははははは。
心が汚いからそんな目にあうのよ。バカじゃないの。ほんとう、おかしい。クソ田舎の連中ども、みんなして見下しあってやがる。あの女はガキの頃から動物を殺して遊んでたみたいだし。産まれた家も、クソ田舎の仕来たりも、よっぽど気に食わなかったんでしょ。賭けに負けた軍鶏だとか、捨て猫だとか、そう言うのを切り刻むのが愉しくて仕方なかったんでしょ。
ほんとう。あの女も。姉さまの父さまも。
いなくなってせいせいしたわ。
ううん。ごめんなさい。姉さま。
わたし。姉さまの事は好きだから。
気を悪くしないで。姉さま。
あの女の父親が御山のかみ様の祟りで死んだ。
その後にわたしは産まれたの。
産まれたばかりのわたしは髪も歯も生え揃ってたみたいなの。
「美雪ちゃん? なんの話をしているの?」
「相手のカミの家のおとこは子供が出来たって聞いて、震え上がったみたいね。ほんとう、クソみたいなおとこ。わたしの本当の父親だと思うとぞっとしちゃうんだから。だから顔も知らないんだよね、知りたくもないし。あの女の家に近付かないようにって、クソ田舎の連中は寄って集って遠ざけたって聞いてるわ。カミの家もシモの家も、わたしの産まれた家に近寄らなくなった。へこへこして、みんなして見下しあってやがる。あの女は捨てられたんだ。わかる? 姉さま?」
わかるかな、姉さま。
あはははははははははははははははは。
捨てられてんだよ。
あははははははははははははははははは。
ほんとうにくだらないや。
あはははははははははははははははははは。
わたしが歩けるようになるまで、お情けで産まれた家に置いてもらっていたの。わたしがやっと、よちよち歩ける頃になって、追い立てるみたいにされて、家を出されたの。そんな目にあうくらいなら、金でも、金目の物でも盗んで、出て行けばいいのに。お腹にわたしがいるってわかった時に、クソ田舎なんか捨てちまえば良かったのに。
あはははははははははははははははははははは。
よちよち歩きだったけど覚えてるよ。
忘れようたって忘れるもんか!
クソ田舎を追い出された日の事をね!
あの女に抱かれて爺さまの墓まで行った。
どの家からもどの田畑からも見えない場所だった。
水場からも日差しからも遠かった。
薄暗い榊どころか草も生えない場所だった。
誰もよりつかない禿げ上がった荒地だよ。
陰気な荒地にぽつんと墓があった。
あの女が墓の前でなにしたかわかる?
笑ったんだよ。
あははははははははははははははははははははは。
やっとよちよち歩けるようなわたしを抱いたままね!
笑ったんだよ!
こっちは産まれて来てすぐに言葉がわかってたんだ!
よちよち歩るけるようになるずっとずっと前からね!
シモの家の親戚に行き遅れのおんながいたって言ったけ?
わたしの産まれた家で手伝いしてたって言ったっけ?
そいつに何度も耳元で聞かされてたんだ。
そんな時はいつも何時も!
半笑いだったさ!
わたしが何もわからないと思って!
誰にも相手されなくて行き遅れたおんながさ!
さんざん耳元で聞かされてんだよ!
『かわいそうな娘だ。きっと不幸になる』
そうやって、何から何まで!
知りたくもないような事まで耳元で聞かされて育ったんだ!
それでね、あの女はやっとクソ田舎を出たの。その後に何年しても何時まで経っても、わたしが大きくなってからも。ずっとずっと、クソみたいおとこ達をとっかえひっかえしてた。あの女はその度に捨てられてやがる。
あははははははははははははははははははははははは。
ほんとう、下らない。あの女らしいや。
わたしの事なんか邪魔にしか思ってなかったんでしょ。
叩いたり蹴ったりするから教えてやったの。
わたしは御山で出来た子供だって言ったっけ?
だから御山のかみ様に縁があるの。
わたしの肉を食べれば健康で頭もまわるようになるんだよね。
その事をあの女に教えたやったの。
そしたらあの女わたしの肉を刻んだの。
その時くっついてたクソみたいなおとこに食べさせたのよ。
馬鹿よね。
そんな事したっておとこの気が変になって狂うだけなのに。
あはははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははは。あははははははははははははははははははははははははははは。あはははははははははははははははははははははははははははは。
あははははははははははははははははははははははははははははは!
「美雪ちゃん。何を話してるのか、知ってる?」
「大丈夫よ姉さま。姉さまの父さまも、どうせ生きてるのが嫌になっていたの。よくある事でしょ? 姉さまが気にする事なんてないよ。姉さまの父さまはイッパイ、金があったから。あの女がそこに目を付けたのよ。前にくっついてた男が、気が狂って使い物にならなくなったから、いつもみたいに新しい相手を見つけて、付け入ったのよ。それだけの事だよ、姉さま。でもあの女、もっと気が回るかと思ったけど。わたしの肉を食べて狂った男に巻き込まれて、事故にあうなんて。ほんとう、間抜けだったね。おかげでせいせいしたわ。姉さま」
「冗談はそれくらいにしなさい」
「怒らないで、姉さま。あの女みたいにバカじゃないでしょ。わたしは、いっしょうけんめい、生きてるだけなの」
美雪ちゃんは自分の着ているワンピースの中に、小さな手を滑り込ませました。
注意しなければ聞えないくらい小さな音がしました。
「大丈夫、姉さまは心配いらないわ。わたしが守ってあげる。姉さま、口を開けて。わたしが食べさせてあげる」
美雪ちゃんの指の先に、血の付いた肉の塊がありました。
それを私の口元に差し出したのです。
「全部、あなたのせいなの」
それ以上は言葉になりませんでした。美雪ちゃんとふたりで食べようとして作った、手料理を引っくり返してしまいました。
気が焦っていて、直に床に置いてしまったせいでしょうね。
美雪ちゃんは私の手をかわし、ドアの向こうへ走り出しました。
「姉さま、今日からはふたりだけよ。怒らないで。わたし姉さまが好きだから」
「待ちなさい」
私は立ち上がって自分の部屋を出て、美雪に追いすがって、捕まえようとしました。そして美雪は、また、軽く身をかわしました。
「捕まらないわよ、いつもあの女と追い掛けっこしてたんだから」
美雪は廊下を走っていきました。
廊下を駆け足で逃げて行く走る足音は人の物ではありませんでした。小さな動物がかけて行くようなそんな軽い足音でした。
「姉さま。姉さまもわたしを化け物って呼ぶの」
「待て、待ちなさい」
美雪を追い掛け、家の中を走りました。風呂場を通り過ぎ、台所を通り過ぎ、美雪は玄関のドアに手をかけました。咄嗟に人に見られてはまずいと、心の中で思いました。
「やめなさい、外に出ないで!」
私は抑えた声で叫びました。
美雪の指はドアの取手を回していました。
「やぁだよ」
扉が開けられ美雪はついに外に出てしまったのです。
しかし私は夢中になって忘れていました。
時間は夕方を過ぎていました。
それでも未だ明るく蒸し暑い夏なのです。
今は蝉のうるさい真夏だったのです。
美雪は肌寒くなるような、重く沈んでいくような冷たい世界でしか、生きていけない身体だったのです。
私はそれを知っていた訳ではありません。その時ようやく気がついたくらいでした。沈みかける太陽にさえ、美雪は耐えられなかったのです。小さな、ちいさな女の子の悲鳴がきこえました。義理の妹は動きを鈍くして、家の門を出て数メートルも走らないうちに、倒れてしまったのです。私は美雪が倒れてしまった姿を、玄関のドア越しに眺めていました。ゆっくりとサンダルを突っかけました。玄関のドアを出て、倒れている美雪の傍らに歩みよりました。
「大丈夫、美雪? 無理しては駄目よ」
いかにも優しい姉を装い、しゃがみ込んで髪をかき上げました。
美雪の呼吸は既に荒く、とても衰弱していました。美雪の人形のように軽い身体をそっと抱え上げました。開け放しの玄関から家に戻ったでしょうか。腕と胴体を使って、しっかりと美雪を抱えました。決して離ればなれにならないように。ドアを閉め切ってしまうと、鍵とチェーンをしたのです。完全に閉めきると、家の中には美雪と私、ふたりきりになりました。自分でもわかるほど、身体の隅々にまで血が巡っていました。きっと昂揚していたのでしょうね。
優しく逃げられないように。
美雪を抱きすくめてゆっくりと廊下を歩きました。
美雪は。
身をよじって私から逃れようとしていました。
私はそれを許しませんでした。
風呂場が見えた時、きっとそこで行われていた事に思い巡らせました。自分の部屋に辿りつくと、鍵を閉めました。抱きかかえた美雪の身体を床に置きました。息をするにも覚束無い義理の妹を見下ろして、私はこう言ったのです。
「この化け物め」
私は美雪の首に手をかけました。心の中は例えようのない無い怒りで狂いそうになっていました。彼女の手が弱々しく、首を絞める手首に触れました。美雪には腕力と呼べる程の力は無く、何の抵抗にもなっていませんでした。私はその手を無慈悲に払った時、服の袖から白い物が見えました。
それは真っさらな包帯でした。
白い包帯でした。
厳重に何重にも何かを押し隠すように巻かれた白い包帯。
それが目に入った時、私の中で何かが壊れたのです。当たり前に過ごしてきた日々が、粉々に砕けたのです。胸の中に潜んでいた傷が、ぱっくりと割れてしまったのです。私は美雪が着ているワンピースを乱暴に。力ずくで脱がしました。ワンピースを剥ぎ取ると、包帯でグルグルと巻かれていたのです。
「正体を見せなさい」
私は静かに篭った声で言うと、真っさらな巻いたばかりの包帯に、指を食い込ませたでしょうね。力づくで解きはじめたのです。可愛らしいワンピースを暴かれた、包帯だらけの小さな身体。弱々しく抵抗を続けていたでしょうね。胴体には嫌というほど強くきつく包帯が巻かれていました。殆ど無理矢理と言ってよいのかもしれません。包帯だけで、女の子らしい腰つきを拵えてありました。それがいっそうの事、美雪の幼さや儚さに隠されている残酷でいやらしい本性を、見せしめているように思えました。巻いたばかりの新しいサラサラした何重にも重なった包帯は、念入りに、丹念に、偏執的なまでに丁寧に、美雪を被っていました。それでいても美雪の身を守るには、充分ではありませんでした。
「やめて」
美雪の細い声が、さらに私の感情を逆なでしました。
しかしそれは、怒りから何か別の物に変容しつつありました。
恨みや妬みだったのかもしれませんね。
希望や憧れだったのかもしれませんね。
愛情なのか憎悪なのか。
自分ではわからなかったのかもしれませんね。
包帯を剥ぎ取る私の手に、力がこもりました。
床には包帯がたまっていきました。いくら包帯を剥いでも、美雪の身体は見えて来ませんでした。やがて、包帯の上に小さな赤い、点々とした血の染みが顕れました。剥がすたび、その染みが広がっていきました。まっしろな包帯を剥がせば剥がすほど、真っ赤な染みは汚くこびりついていました。ベリベリと嫌な音がしました。
家の中は静かでしたから。
耳をすますなら。
そこら中に冷房の音だけがしました。
真っ赤な染みは茶色く汚い染みになりました。
やがて包帯のたまりが山になった頃。
力のこもった私の手が、フワッと、軽くなりました。
包帯の先にあった美雪の身体が転がりました。
コトン。
小さな音がしました。
美雪の身体は両手両足や、肩や太ももの一部、指先などが、多少なり残っているだけでした。私は、わずかに包帯から剥き出しになっていた、柔らかな幼い美雪だけを見ていたのです。鎖骨の少し下の辺りを境にして、皮も肉も神経も抉り取られていました。抉り取られて間もない個所はまだ赤く、血が通うたびに艶かしく脈動していました。時間が過ぎた個所は、茶色く汚く硬くなっていました。美雪の家族は膿みや体液を洗ったのだと思います。肉を削る度に生きている少女の内臓を洗ったのだと思います。自分が汚れない為に。それでもきっと、洗っても洗っても、傷口から溢れる膿みや、かさ蓋や真っ黒にこびりついた血の塊が消えなかったのでしょうね。
まるで、自分がした事のように、それがわかりました。
抉り取られて無くなってしまった肉の量を確かめれば、人であれば既に生きるには足りない量でした。医者でもない私でも、ひと目でそれとわかりました。人であれば身体の一部が欠けても、生きるに辛い筈なのに。見た目を気にしてか、それとも肉を抉るのに、機械的に順序としてそうなったのか。肩甲骨と鎖骨の周りには、ほんの少し肉が残っていました。どんなに巧く引き剥がそうとしても、しつこくこびりついていたのかもしれませんね。胸骨の周りは、それはよほど不様に肉が張り付いていました。その奥には本来見る事も出来ない筈の背骨がありました。背骨に沿って、真っ赤な悪魔の羽根のようにして、背中の皮が広がっていました。真っ赤な美雪の身体の中は、とても温かくて、柔らかでした。
なにもかも、足りていませんでした。
抉り取られた少女の肉体。
美雪は空虚さだけで支えられていました。
窪みでした。穴でした。
あるべき支えや保養されるべき傷つけてはいけない内腑まで。
切り取られ肉に替えられてしまったのでしょうね。
何も知らない子供が無垢でもって条理を逆撫でしていました。
私の過ごしてきた毎日を嘲笑うかのようでした。
美雪の肉体は醜く穢れていました。
包帯を暴かれて露わにされた醜くて汚い身体。
小さくて哀れな義理の妹。
包帯の山から顔を半分だけ出してモゾモゾと蠢いていました。
そして美雪の瞳から涙がこぼれました。
愛らしい小さな唇が私の事を『姉さま』と呼びました。
力づくで包帯を剥ぎ取っていましたから。
私は息を荒げ肩をゆすっていました。
呼吸が落ち着きました。
そして。
床に転がる義理の妹の身体に手を伸ばしたのです。
私は美雪の腕を拾いあげました。
わずかに繋がっていた肩と頭を持ち上げました。
包帯によって支えられていた身体。
だらぁん。としていました。
力がありませんでした。
私は形の崩れてしまった腕だった物に、歯をあてました。
「痛い、姉さま」
口の中に生温かい液体が広がりました。噛んで飲み込むと鉄の味がしました。身体の底が熱くなりました。まるで生まれ変わったように活力が湧いてきたのです。私は美雪を床に捨てるように置くと部屋を出ました。興奮と昂揚が、心の中で混ざっていました。
今まで感じた事の無い力が身体の底から漲ってきたのでしょうね。
私の家に新しい家族がやってきました。
新しい義理の妹の名前は、美雪と言います。
私は美雪に自分の部屋をとられてしまいました。
父はちょっとした経営の才覚がありましたから、このとおり家は広く、まだ使っていない部屋もありました。美雪に自分の部屋をとられてしまっても、そんなに困る事はありません。ですが誰も使っていない部屋となると、家具や棚を並べるのにも苦労します。私は広い家の中で、いくつかある部屋を思い浮かべました。少し前まで、掃除や家事は私の役割でしたから、想像にやすかったでしょうね。
そして私は、母の部屋を使う事にしました。
母の部屋まで行って見まわすと、使い心地のよさそうな、満足できる部屋でした。前に使っていた人が忘れていったのでしょうね。春用のカーディガンが掛かっていました。春用のカーディガンを、腕に通さずに肩にひっかけました。家の中は夏だというのに、重たく沈み込むような寒さで満ち足りていましたから、ちょうど良い具合だったのでしょうね。自分の使いやすいように部屋の片づけをしていると、タブレットの呼び出し音がなりました。地元の病院からの連絡でした。
私は面倒くさい気になって、タブレットの電源を切りました。
ですが、再婚したばかりの両親が家に居らず、義理の姉妹二人きりと言うのはやはり心細かったでしょうね。私は少しだけ考えて、ゆみに連絡する事に思い至りました。片づけの終わらない部屋の壁に寄りかかって、タブレットの電源を入れました。そして仲の良い同級生の番号を押しました。同級生は、私が義理の家族と暮らし始める事を知っていたので、気を揉んでいたのかもしれませんね。私から連絡が来た事で何かしら、安堵した様子でした。
「父さんと、母さんが交通事故にあったみたいなの」
電話口の向こうで、声が押し殺されるのがわかりました。
ゆみは、言葉を失ってしまった様子でした。
私はごく自然に、いつもと同じように会話を続けたでしょうか。
「これから妹とふたりだけになっちゃう」
「なんとかなるよ。大丈夫だから。礼子の傍にいるもん。今までもこれからも友達だからね」
ゆみと私は、しばらくお互いに何も喋りませんでした。
私は心の中で、どのようにしたら助け合って生きて行けるのかを考えていました。
「困ったら、いつでも声かけてよ。礼子がいないと寂しいもん」
私が悩んで言葉を探していると、ゆみがそうやって声をかけてくれました。
「私は、ゆみが大好きだよ。いつも傍にいてくれて、ありがとう」
私は胸のつかえがとれて、タブレットの電源を切りました。
夏休みが終われば新学期が始まります。
ゆみがいれば、いつもの日常に戻れる。
血の繋がった父と母、そして血の繋がらない母を失った私は、ようやく胸をなでおろしたでしょうか。
美雪は病気で家から出られない身体ですから、ただの知り合いに同情や、救いを求めるつもりで会わせる訳には行きませんでした。ゆみのように、私の事を思い遣ってくれる口の堅い連中になら、美雪の秘密を話をしてみても、良いのかもしれませんね。
そういえば、ゆみはサンドイッチが大好物でした。
美雪とふたりきりの家に招待するのもよいかもしれせんね。
みんなで食事をするのはきっと楽しいでしょうか。
父親と母親が別れてしまったり、再婚したばかりの両親が事故にあったりして、夏休みの課題にあまり手をつけていない事を思い出したでしょうか。今は義理の妹の部屋になってしまった自分の部屋に戻りました。部屋に入ると、とても散らかっていました。包帯の間に美雪の身体が転がっていました。捨てられたゴミのように床に横たわっていたでしょうか。それを足で押しのけました。なにか乾いた物が折れる音がしました。上半身と下半身を、ようやく繋いでいた背骨が折れてしまったのでしょうね。私は床に転がる美雪の上半身を拾い上げて、椅子にたてかけました。
そして逃げられないように包帯で縛りました。
包帯で縛り上げられた。美雪。
美雪は。
愛らしい人形のようでさえありました。
「包帯を解いて、姉さま」
「そんな事をしたら、あなたは逃げ出してしまうじゃない」
今なら恭子の気持ちが、父の気持ちがわかりました。
もし鏡を見たなら、今までにない程、瞳が輝いていたのかもしれませんね。
「酷い事なんてしないから。私たちは家族になったのよ」
あなたが私の言う事をちゃんと聞けばね。
口には出さずに、心のなかで呟きました。
私は美雪の頭を優しく撫でました。
「これからはずっとふたりよ。姉さんが幸せになるまで絶対に離さないから」
私はいつも使っていた机から、勉強道具を持ち出しました。
「死んじまえ」
そんな汚い言葉を使うのは誰でしょうね。きっと、義理の妹が悪戯に口走ったのに違いないのです。なにしろ人をからかう事が好きでしたから。ふたりきりになってしまった今、少し厳しくしないといけないのかもしれませんね。
「生意気な子ね。ずっとそうしてなさい」
「待って。良い子にするから。待って姉さま!」
ドアを閉める時に、わがままな義理の妹の声が聞こえてきました。良い子にすると言うなら、少しは反省したのかもしれませんね。新しい家族と言っても、まだ慣れていないのものですから、仕方が無いのかも知れません。少し時間が経って聞き分けが出来たら、服や漫画を買ってあげるのも良いのかもしれませんね。再婚同士の両親は、不遇にして立ち直れない事故にあってしまいましたから、私の大事な家族である美雪が、ちょっとした不安や行き違いで、家から逃げ出してしまわないように、工夫しなくてはいけないのかもしれませんね。なるべく早いうちに、部屋の外からかけられる鍵を買ってこなくてはいけないのかもしれませんね。これから先は高校生と小学生の娘だけ、ふたりきりで過ごす事になるでしょうか。どのようにして暮らしてゆくのか考えなくてはいけませんね。私は血の繋がった母と、義理の母が使っていた部屋に戻ると、夏休みの課題にとりかかりました。まだ半分も終わっていません。面倒くさいなんて思いながら、ようやく落ち着いて勉強を始めましたでしょうね。
こうして高校二年の夏休み。
私は義理の妹とふたりきりで暮らす事になりました。
高校はゆみとふたりで卒業まで頑張りたいと思っています。
家の中は全てが静かだったのでしょうね。
冷房の音だけがそこらじゅうに響いていたでしょうか。
<了>
『包帯』 青木克維 @KATSUO-create
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