第2話 『恭子』


 新しくやって来た家族は、父の案内で家の中を見てまわりました。

 義理の母の恭子と、義理の妹の美雪は、私の産まれた住みなれた家の中を、うろうろと歩き回っていました。


 私は事前に「万が一にも失礼の無いように」と、父に言い含められていましたから、仕方なくそれに着いてまわりました。そして、父は何のつもりなのか、義理の母と義理の妹に向けて、別れた母の部屋まで案内をはじめたのです。どこで化粧をしていたとか、どんな色の内装が好きだったとか、事細かに説明していました。説明していた時の父の顔は、嬉々として、また、口元は裂けるようにしてわらっていました。あまりの事に見兼ねて、私は父に言いました。

「父さん、何もそんな事まで言わなくてもいいじゃない!」

 父はギラギラした昂揚して興奮した瞳でした。

 その瞳を私に向けて、こう返事をしたのです。

「こうした方が早く幸せになれるんだよ!」

 その言葉はネットリと陰気を含んで、誰にも言い返せない気持ち悪さがありました。前向きにそう思って父が言葉にしたなら、私も頷いてよい返事をしたかもしません。しかし、父は虚しく冷たい風の吹き荒ぶ心にあいた穴を、無理に塞いでしまっていたのです。私と血の繋がった母と別れてしまって、傷ついた事を認めようとしていないのです。心の穴から膿汁が溢れ出るのに任せてしまって、心の痛みを鈍く鈍く、誤魔化していたのです。大事にしなければいけない、家族なら決して捨てる事は許されない気持ちを、忘れてしまっていたのです。父の歪んだ気持ちに、私が返事をしないでいると、傍らにいる女性が母の部屋に足を踏み入れました。満足そうに部屋を眺めると、私と父を振り返って、こう言いました。

「とても素敵な部屋ね。この部屋、使わせてちょうだい」

 私はその言葉を聞いて、身体中に毒が回るような気持ちになりました。思わず叫ぶように言ったのです。

「空いてる部屋がありますから、この部屋は使わないで下さい」

 しかし、言った後でそれがどれだけ無駄な事なのか、気がついてしまったのです。父の返事は聞くまでもありませんでした。手を叩かんばかりの素振りでした。そして私にまでこう言い出したのです。

「礼子! お前も別れた母さんの事を、はやく忘れなさい!」

「ねぇ、礼子さん。辛いのはわかるから、血の繋がったお母さんだと思ってなんでも言ってちょうだい」

「そうだ! そうすれば良いんだよ! 礼子!」

 義理の母と父は、ふたりだけで陰険な姦計を企て、私に仕掛ていたのだとようやく気がつきました。目を合わせて、うまくいったとばかりに、わらっていたのです。 私はたまりかねて、終いにはその場を立ち去ろうとしました。

「姉さま」

 立ち去ろうとした私の手を、義理の妹の美雪が引きとめました。

 美雪に握られた手は、とてもひんやりとしていました。


 私は握られた手の先を、ゆっくりとふり返りました。

「行かないで。仲良くしよう、姉さま」

 まるで体温が通わない。そんな冷たい声でした。父とは違った意味で、心が寒くなるのを感じました。何より夏だと言うのに、美雪から熱や暑さを全く感じないのです。家の中は冷房が効いていましたから、暑く無いのは当然としても、美雪の手からは人の持つ温もりが伝わって来ないのです。父に対する悪寒や寒気には、まだ、人間らしい肉親に対する愛憎も混じっていました。義理の妹に対するそれは、人間らしさを全て捨て去った者に接したと言う、恐怖でした。私はその手を振り払えず、言葉を失いました。それを見ていた父は、無言でわらっていたのです。

「美雪、新しい姉さんを困らせてはダメよ」

 そう言ったのは、恭子さんでした。私たちの握りあった手に触れると、そっと引き離したのです。恭子さんの指先は化粧で真っ白に塗られ、爪の先も濃い色のマニキュアで染められていました。それに、恭子さんが吐く息はなんだか生臭くて、胸が悪くなりました。再婚ですから義理の母も父も、年は若くありません。恭子さんは化粧や服で飾ると言うよりも、心や身体の芯にある老いを隠して、生々しい色気を放っているように私には見えたのです。

「ごめんなさいね、そんなに簡単に馴染めないわね」

 恭子さんはそう言って、義理の妹の頭を撫でました。

「無理を言ってはダメよ、美雪」

 義理の母は優しげに言いました。

 父は同じようにして義理の妹の頭を撫でました。

「すぐに慣れるさ、まだ戸惑っているんだよ」

 これから義理の妹になる女の子にむかって、やはり優しげに言いました。私はひとり、疎外されたような気になって、誉めそやされる新しい妹を見ていたのです。この家はもう私の家では無くなっていたのです。父と新しい家族の住家に、すり替わっていたのです。私はたったひとり、いつの間にか部外者として暮らす事を、強要されていたのです。


 私は夢でも見ているような気持ちでその場を離れました(本当に夢だったらどんなに良かったでしょうね)。


 身も心も覚束無いまま、玄関で靴を履きました。ドアを開けて飛び出そうとしました。するとまた父が「礼子」と呼びました。優しげで、でも有無を言わさぬ声で私の名前を呼びました。聞こえなかったふりをして、家の外に逃げ出しました。夏の熱気は私を焼きました。陰鬱な湿気は、私の気持ちをじっとりと包みました。

 家族以外の誰かに会いたかった。

 血の繋がった父にも義理の母にも妹にも会いたくなかった。

 私は駆け足で、産まれた家から逃げていきました。

 タブレットを取り出して、ゆみに連絡しました。駆け足から早歩きになって、どこともなく、ただただ、家から逃げる事だけを考えていました。泊めてもらえるように頼もうとしていました。自分でも冷静さを無くしている事くらいはわかりましたから、回線がプツプツ言って繋がって、その後に呼び出し音が鳴る間、感情を平らに戻そうとして呼吸を整えました。そうすると肺の中は都会の真夏の湿気であふれかえって、もっと息苦しくなりました。胸をおさえて、泊めてもらう理由を考えました。素直に頼むのが一番だろうとは思いましたが、心に得体のしれない、つっかえがありました。ゆみや友達の家を泊まり歩いて、やがて夏休みが終わった日の事を考えました。たとえ夏休みの間、一週間、二週間と逃れても、私はあの父の庇護が無くては、生活そのものが成り立たないのです(再婚してすぐ実の娘が家を出たとあっては悪い噂も立つでしょうね)。呼び出し音のなるタブレットの電源を切り、両の手を力なくだらりと下げました。いま逃げ出した所で、何の解決にもならない事に、気がついてしまったのです。

 高校生の自分をここまで恨んだ事はありませんでした。

 夏の湿気とアスファルトから群がる熱気は、立ちすくむ私を間断なく容赦なく包み込みました。トボトボと歩く方向を変えて駅前まで歩きました。気持ちが落ち着くのを待つために、喫茶店に入りました。この間、ゆみと学校をさぼって入った喫茶店です。いつの間にか、バスも使わずに歩いてきてしまっていたのです。窓際に座ると、私はあの時と同じように、アイスコーヒーを頼みました。身体中が汗でベタベタしていました。テーブルに置いてあるシロップを混ぜても、ほとんど甘みを感じませんでした。

 身体には悪いだろうなと思いました。

 それでも。

 もうひとつ。

 もうひとつ。

 もうひとつ。

 そうやってシロップを空けてアイスコーヒーに混ぜました。

 それでも微かにしか甘みを感じませんでした。甘みだけではありません。苦味も香りも感じていなかったのです。昼食も食べていない空腹の所にそうやったものですから、胸が悪くなりました。しばらくの間、気持ち悪さが抜けませんでした。

 そのうちに汗が乾きました。

 アイスコーヒーもとっくに飲み干してしまいました。

 それでも私は喫茶店から離れる事ができませんでした。

 喫茶店の窓から見える空に、真夏の夕焼けを眺めました。

 どれくらいそうしていたのか、わかりません。 

 いったい、どれ程の時間、喫茶店に座っていたのでしょう。

 タブレットに父からの着信がありました。

 私は怯えるような気持ちで通話のボタンを押しました。

「礼子、どこにいるんだい。夕食は家族全員で喰べよう」

 電子音に変換されたタブレットの向こうから、平静を装おう父の声が聞こえました。

「新しい家族でそろって夕食にしよう。早く礼子も慣れると良い」

 義母と義理の妹から無様に逃げ出した私を叱る様子もなく、物わかりが良すぎる態度に思えました(私の事など本当に気にしていないのかも知れませんね)。私は穏やかすぎる父の言葉に逆らう事が出来ず、会計して喫茶店を出ました。来た道を歩いて帰りました。陰鬱な気持で家の前までやってくると、停めてあった父の車の周りをウロウロと野良犬がとりついていました。同じ場所を何度も何度も嗅ぎ回り、見つからない餌を探していました。その姿は、げっそりと痩せていて、目だけは爛々としていました。私は変わってしまった父の顔を思い出して、その野良犬をしかって追い散らしたのです。


 玄関を開けて家に入ると、冷たい風が吹き抜けていきました。冷房が効き過ぎて寒いくらいでした。外と家の気温差が強過ぎるのでしょう。玄関の扉を閉めてしまうと、噛みつくような暑さのなか、歩いて帰ってきた私の身体をつたう汗が、一瞬で冷や汗になりました。

「お帰りなさい」

 恭子さんが台所から出てきました(私が戻って来る事を聞いていたのでしょうね)。

 義理の母は口紅を塗った唇で、作り物みたいな微笑みをうかべていました。恭子さんは真夏の季節に、春用のカーディガンを着ていました。それは家の中に相応しくない、洒落た服装のように見えました。考えて見ればこの人は、これから我が家になる家に、よそ行きの服を着て、慎重に繕った見栄えのある化粧をして来たのです。

 例えば、少し安っぽい服を着てくる事があってよいのかもしれません。見栄えがしなくても、きちんと話が出来る人ならよいのかもしれません。私が思う程に、おかしな事で無いのかも知れません。ですが、その時の私には酷く鼻につきました。

「冷房が寒いのね。ごめんなさいね、美雪は暑さに弱いのよ。病気なの、大目に見てやってちょうだい」

 恭子さんは同情も苦情も、欲っしてはいなかったように思いました。ただ事実を突きつける。そんな、乾いてしまった口ぶりだったように思います。義理の妹が病気だと聞いて、少し驚いたのは事実です。

「礼子さん。いきなり知らない人と暮らす事は、とても辛い事だと思うけど慣れてちょうだいね。どんな人でも誰かと一緒に暮らしたいものなのよ。戸籍だとか婚約だとか、そう言う事も気にせずにね。誰かと暮らす事が大切な時があるのよ。礼子さん、あなたのお父さんはそれが必要だったのよ」 

 今日、突然。義理の母になった恭子さんの言葉に、私は何も言い返せませんでした。恭子さんが次に口にした言葉は、私に告げるでもない、口の中にこもった言葉でした。私は驚きを忘れて吐き気すら感じたのです。 

「例え化け物でも、家族は家族ですからね」

 恭子さんはその言葉を吐き捨てるように言いました。

 なにかの、聞き間違いかとも思いました。

「あら、聞こえちゃったかしら。気にしないでいいわよ、礼子さん」

 恭子さんは唇に手を当てると、可笑しくもない事を言ってしまった様子で、クスクスと笑っていました。美雪は私の義理の妹ですが、恭子さんにとっは、実の娘である筈です。人の持つべき心と身体の温もりを、美雪からは感じませんでした。病気だと教えられた今でも、私を引きとめた時の美雪の小さな冷たい手を思い出すと、ぞっとしました(ついさっきの事ですが遠い昔の事のように感じたのかもしれませんね)。それだって恭子さんが母親として愛情を持って接してやれば、気持ちの上でどれだけ救われるかわかりません。

「本当になんでもないのよ、礼子さんも慣れてちょうだいね」

「恭子さん」

 私は重たい気持ちで、唇をひらきました。

 言わなければいけない事が、胸の中に溜まっていました。

「父さんは、新しい家族だと思ってるみたいだけど。私は、そんな簡単に、知らない人を母親だとか」

 怯えるような気持ちでなんとか、本心を伝えようとしました。

 しかし、恭子さんはそれを遮ってこう言いました。

「いいのよ。全部わかってる。礼子さんも年頃だものね」

 恭子さんは。

 義理の母は。

 私の心の動きを何から何まで先回りしていました。

「この齢になるとね、いろんな事がわかるのよ。昔はね、若いから、女だからって理由だけで、酷い目にあったものよ。礼子さんの気持ち、わかるのよ」

 恭子さんの言葉の中に私に対する家族としての思いやりを、感じる事が出来ませんでした。恭子さんは、言葉に詰まっている私の瞳を覗き込みました。心の奥を見透かして、握りつぶす。言葉を尽くす前に、心を殺す。恭子さんの瞳は、ギラギラと輝いていました。新しい家族を繕う為には、私の心を押し殺さなければいけない。そんな、怒りや報復と言ったような、家族には相応しくない感情があった様に思います。

「家族なんだから、少しくらい、嫌いな事があっても良いでしょう? 大丈夫よ、我慢しろなんて言わないから」

 私の背中にうっすらと悪寒が走りました。家族なら。いえ、家族だからこそ、間違える事はたくさんあります。恭子さんは高校生である私に、再婚によって傷つけられた事を受け入れろと言っているのです。我慢する事さえ認めないと言っているのです。私が傷ついたままで良いから、家族として、一緒に暮らそうと言っているのです。声に出さずに、私は心の奥で呟いていました。


 父を含めた新しい家族は心が砕けてしまっているのだと。


 言葉にならない心の奥に、また、冷たく湿った気持ちの悪い風が吹きました。岩場に擦りつけられた私の身体は、ずぶずぶと深く尖った岩場に沈んでいきました。諦めたようになってしまった私は、恭子さんの後を、黙って着いていきました。リビングと台所が一緒になった、部屋へ行きました。ふたりきりでなんの会話もなく、父と夕食を共にしていた部屋です。テーブルには夕食として豪勢な肉料理が並んでいました。

 美雪ちゃんはいませんでした。

「これから毎日料理は恭子さんが作るから、お前は食べるだけでいいんだよ」

 私の帰りを待っていた父は、家から逃げ出した事に触れませんでした。何もなかったと言うようでした。そして、そのまま、恭子さんの作った肉料理をよく噛まずに食べ始めたのです。ほとんど丸呑みでした。下品や粗野を通り越して、獣が獲物を喰らう姿のようでした。私は目を反らしました。恭子さんも席に着いたかと思えば、さっそく料理を食べ始めていました。上品な手つきで食べていましたが、肉を口に運ぶ時に、何かいやらしい感じがしました。私は食欲がありませんでした。一口だけ食べました。肉料理は味付けが薄く血の味がするようでした。 噛んで飲み込む事ができませんでした。私は口に入れた料理を、皿の上に戻すような、失礼な事があってはいけないと思っていましから、気持ち悪さに耐えて、肉料理を丸呑みにしました。

「食べたわね」

 そう言ったのは恭子さんでした。その目は、ドンヨリと曇っていました。ギラギラと鈍く光っていました。私は寒気がして立ち上がり、台所を飛び出しました。自分の部屋に駆け込みました。部屋に逃げ込むと叩くようにドアを閉め、鍵をかけてベッドにうつ伏せになりました。柔らかい枕に頭を埋めていると、全身が重たく沈んでいくような感覚に襲われました。食べたものが胃を下っていくのがわかりました。気持ち悪さを通り越して、吐き気がしてきました。トイレに行こうと、のろのろとベットから立ち上がって、部屋のドアの鍵を開けました。ドアのノブを回した途端、さらに酷い眩暈がやってきて、その場でしゃがみ込んでしまったのです。このまま部屋の中を汚してしまうのが心配になって、必死で立ち上がろうとしました。しかしどうした事なのでしょう。しばらくすると、眩暈や吐き気が消えて行きました。そして、急激に身体が痒いような気になりました。身体が火照って疼いて仕方がなくなってしまったのです。私は下着に手を入れてしまったのです。その場で自慰をはじめてしまったのです。こんな恥ずかしい思いは、はじめてでした。 私は身体中に駆け巡る痒さに負けて、頭が回らなくなっていました。

 自分で自分のしている事がわからないのです。

 家族に覗かれてはまずいとおもって、ドアを閉めようとしました。


 そこには美雪が立っていたのです。

 

 私は声にならない悲鳴を上げました。開け放しにしたまま、ドアの前で自慰をしていた、迂闊な自分を後悔しました。美雪の目から逃れるのに死ぬような思いで、身体を硬く縮めました。

「出て行って!」

 ようやくそれだけを言うと、ドアを閉めようと手を伸ばしたのです。私の気持ちを知ってか知らずか、義理の妹は部屋の中に身体を滑りこませました。じっと、私の事を見下ろしていました。年下の無垢な女の子に、何もかも見透かされたようで、いたたまれない気持ちになりました。

「早く部屋から出て行きなさい」

 出来るだけ強く言ったつもりでしたが、恥ずかしさで上ずっていました。

「気にしないでいいよ、姉さま」

 美雪は愛らしい女の子座りでペタリ、と床に座りました。

「勝手に人の部屋に入らないで」

 私は焦る心を必死に押さえ、虚勢を張って美雪の身体に触れました。追い出そうとしたのです。そんなに力を入れたつもりも無いのですが、小さな悲鳴があがりました。義理の妹は身を崩し、身体を護るように腕を前に出したのです。

「……!」

 衝動に任せ、小さな女の子に手を挙げてしまったのです。

「ごめんなさい姉さま」

 美雪は腕の間から怯えるような目で私を見ていました。

「痛く無い? ごめんなさい美雪。美雪ちゃん。もう怒らないわ」

「本当?」

 頷くと美雪は腕を解き、ようやく私に笑いかけました。

「姉さま、仲良くしよう。わたし寂しいのは嫌いだから」

「いいわ、美雪。ううん、美雪ちゃんて呼んでいい?」

 考えて見れば美雪ちゃんは病気の身体なのです。

 詳しい事はわかりませんが、ずっと外に出れなくて寂しかったに違いありません。

「うん、ありがとう姉さま」

 私は美雪ちゃんの腕を取り、手を繋ぎました。 

「もう酷い事はしないわ。さっきは気が動転していたの。もう二度としない。約束するわ美雪ちゃん」

「ありがとう、姉さま。わたし姉さまがまた酷い事をするんじゃないかって心配だったの」 

「え?」

「わたしの母様、何度も何度も結婚しているの。新しい父様に変わる度に、わたしに酷い事するの。刃物で私の事、切り付けるの」

 淡々と話す美雪ちゃんの手を、私は握りしめました。

「それが母さまの望みなの。わたしは母様がないと生きていけないから、ずっと言う事を聞いているの」

 美雪ちゃんの温もりが無くなってしまった小さな手を、私は強すぎないように握りしめたでしょうか。にこにこと愛らしく笑い続ける美雪ちゃんを見ていると、自分の心が何処にあるのかさえも解らなくなりました。それは、とても辛い気持ちでした。


『新しい家族』


 その言葉が、私の胸に響きました。今の私には何も出来ないのかも知れません。それでも血の繋がった母と別れ、父との埋まらない溝を抱えていた私にとって、初めて差した希望の光でした。

 その時でした。

「美雪、礼子さん」

 美雪ちゃんと私が向き合って話しをしている間。いつから恭子さんが廊下に立っていたのです。私の部屋のドアは、美雪ちゃんが入り込んで来た時と同じように、開け放されたままでした。恭子さんの声が聞こえるまで、全くと言う程なんの気配も感じませんでした。

「あら、まあ。仲の良い事ね」

 恭子さんはクスクス、クスクスといつまでも笑っていました。美雪ちゃんと私が新しい家族として打ち解けたことが、嬉しかったのでしょう(別の理由で笑っていたのかもしれませんね)。ドアの向こう。まるでそこに見えない壁でもあるかのように、恭子さんは廊下に立ったままでした。私の部屋に入ろうとしないのです。ギラギラとして鈍く光る眼で見下ろされているままでした。だからでしょうか。恭子さんはとても威圧的でした。

「美雪。あまり迷惑をかけてはダメよ。貴女は人とは違うのだから」

「はい、母様」

 美雪ちゃんは人形のような返事をしました。私に抱きすくめられて、恭子さんを背にしていました。美雪ちゃんに恭子さんがしていた事を聞かされていた私は、恭子さんを見上げて睨む様な気持ちでした。

「恭子さん。私、美雪ちゃんが好きです。だからそんなに美雪ちゃんを責めないで下さい」 

「そう、なら好きになさないな。私は忠告したわよ」

 恭子さんは美雪ちゃんを、物でも扱うような口ぶりでした。私は思わず美雪ちゃんを護るような気持ちになりました。強く抱きしめました。その身体は、羽のように軽くて人形のようでした。

「物好きだ事。それならそれで、仲良くしてちょうだいね。私たち、会社の方で急な仕事が入ったから。今から行かなくちゃ行けないのよ。礼子さん、貴女まだお腹が減っているのではないかしら。わかっていると思うけれど、今夜は遅くなると思うから。だから食事は美雪とふたりでなさいね。最も」

 恭子さんそこで言葉を切り、美雪ちゃんを睨みつけて口の中で笑いました。

「それじゃそう言う事だから、後はよろしく」

 すげなくそう言って、私の部屋の前から去ったのです。

「わたし、母様が好きじゃない」

 美雪ちゃんは呟くように言って、私の胸にすがりました。私の腕の中では、独りきりで耐えるしかなかった小さな、ちいさな女の子が泣いていました。義理の妹はとうの昔に、小学校に通える年齢でした。私の身体に全てを預けていました。

「母様嫌いだ。小さな動物を見つけていじめてるのを見た事があるもの。何度も結婚して、新しい父様といやらしい事ばかりしてるの、見た事があるもの」

 私は義理の妹の、美雪ちゃんの頭を優しく撫でました。さっき美雪ちゃんが私を見て動揺しなかったのは、もっとずっと酷い目にあって来たからに違いありませんでした。小学生の女の子とは思えない、病的に軽い身体。微かな温もりさえ逃げていく消毒液と、高級な白いワンピースから漂う、絹の香り(痛々しさを感じるには有り余る程だったのでしょうね)。すがりつく義理の妹が、本当に哀れに思えてなりませんでした。私はその時、今日からは本当の姉として接してやろう。心の中でそう決めたのです。姉として護る新しい幼い家族が、腕の中で温もりを求めていました。私はひとしきり美雪ちゃんを慰めました。


「美雪ちゃん。私はこれから父さんと恭子さんの見送りに行ってくるわね」

「はい、姉さま。部屋の中の漫画を読んでも良い? 散らかさないから」

「大丈夫よ美雪ちゃん、部屋にいてもいいわ。漫画を読んだら戻しておいてね」

 父と恭子さんを見送るため部屋を出ました。ふたりは早々と仕事に行く仕度を済ませていました。今日はじめて顔を知った高校生と小学生の娘が、ふたりきりになってしまう事に、なんの関心もないようでした。仕事だからと勢い込み、父の外車に乗って、あっという間に出掛けて行きました。父の車は相変わらず乱暴な運転でした。家からみえるコンビ二の交差点を曲がっていきました。私の立っている玄関からも、ブレーキの音が聞こえたほどです。父の外車が見えなくなるまで見送りました(心の通わない家族がいなくなる事にどこかで安堵のため息をついたでしょうね)。

 時間は夕方を過ぎていましたが、夏でしたからそらにはまだ、蒸すような暑い太陽が照っていました。

 玄関を閉めて家にあがると、強い冷気が家の全てを包んでいました。沈み込んでいくような、重たい冷たさでした。瞬く間に鳥肌がたちました。美雪ちゃんが病気の為とは言っても、少し過剰では無いのかと、鳥肌の立つ腕をさすりました。美雪ちゃんが待っているといけないと思い、足早で自分の部屋に駆けていきました。その時、台所が目に入りました。恭子さんの作った料理があまりにも口に合わなかったせいで、私自身も殆ど何も食べていない事に気が付きました。

 そして、ふと。

 さっき父と恭子さんと夕食を囲んだ時の事を思い出しました。

 リビングのテーブルには、美雪ちゃんの食事がなかったような気がしたのです。台所をのぞいてみると、さっぱりと何もなかったように、綺麗に片付けられていました。だから私の勘違いなのかも知れませんが、記憶の中には父と恭子さんと私の食事しか無かったように思いました。

 

 私は台所まで行ってみました。冷蔵庫を開くと食材がありましたから、美雪ちゃんにも食事を作る事にしたのです(なにしろ小金がある家ですから当然だったのかもしれませんね)。台所のあるリビングから、顔だけ出して私の部屋にいる筈の美雪ちゃんに向かって、聞えるように大きな声で言いました。

「美雪ちゃん、今から夕食をつくるから。嫌いなものがあったら言ってね」

 返事はありませんでした。大きな声で言いましたから聞こえているだろうとおもい、ふたりの食事を作る仕度を始めました。美雪ちゃんは病気だと言うので消化の良さそうな物を選びました。お米を洗って、またご飯を炊いたのです。身体が温まりそうな献立を考えました。昨日までは食事を作るのは私の仕事でしたから、むずかしい事ではありませんでした。ふたりの料理は思ったよりも手間がかかりませんでした。ご飯が炊き上がるのを待つだけになりました。私の部屋にいるであろう義理の妹に向かって声をかけました。

「美雪ちゃん。今ね、ご飯を炊いてるから。私と夕食を食べようね」

 やっぱり返事はありませんでした。それもあまり気にはなりませんでした。きっと、漫画を読むのに夢中になっているのだと思います。作った食事にラップをして、包丁やまな板を洗いながら、ご飯が炊けるまで、少し時間が開いてしまうなと、気がつきました(食事が出来上がるまで待ち遠しくなるのは誰でもそうなのかもしれませんね)。

 どうやって暇をつぶそうか取り留めもなく考えました。

(部屋に戻って、美雪ちゃんと漫画でも読もうかな)

 そんな事を、考えていると、今頃気が付きました。家を出て駅前まで歩き通して汗をかいて、その後に部屋で自慰をしてしまって、そのままだったのです。家の中が冷えすぎて、身体の感覚がまともでは無いのかもしれません。


 私は自分の身体に鼻をあてると、臭いを嗅ぎました。いつもより、生臭いような気になりました。熱いシャワーを浴びたくなりました。私は、風呂場へ行きました。その時、美雪ちゃんに、一緒にお風呂に入らないかと声をかけたのですが、返事はありませんでした。返事がない事が気になり始めていました。ですが、お互いがまだ、家族として慣れていないだけなのだと、自分に言い聞かせました。

(美雪ちゃんは、私の作ったご飯を食べてくれるかな)

 少しの不安がありましたが、今は考えても仕方ない事だと押し殺して、ひとりで風呂場に行きました。私の家の風呂場や脱衣所は、不便がないように大きく、広く作られていました。脱衣所には家族の使う、寝巻きやバスタオルが、いつも備えられていました。最も血の繋がった母がいなくなってからは、私がそう言った家事を賄っていました。


 私は少し臭う服を、脱ぎ捨てるように籠に放りんで風呂場の硝子戸をあけました。浴槽にまで入り込んだ、家の中の冷気は肌に絡みつくようでした。真夏の盛りだとは思えませんでした。タイル張りの艶々とした風呂場は、まるで真冬のように底冷えがしたでしょうか。鳥肌のたつ我が身をさすり、シャワーを浴びました。シャワーはぬるくて勢いがありませんでした。汗や愛液で汚れた身体を、うまく洗い流せませんでした。

 もっと熱く、勢いよくシャワーを浴びようとして、コックをひねった時の事です。 

 浴槽に赤い小さな塊がこびりついていました。

 汚らしく固まったそれは、血に見えました。気味が悪いと思って、シャワーで赤い塊を洗い流そうとしました。浴槽にへばりついていたそれは乾いていましたから、しつこく流れ落ちずにいました。洗い落とすにはシャワーの勢いではたりませんでした。仕方なくなって、いつも使っている浴槽用のブラシを使って擦りました。ようやくへばりついた赤い塊は洗われて、剥げ落ちて排水口へと流されていきました。


 綺麗になった浴槽に満足すると、熱くしたシャワーを身体中に浴びました。とても気持ちが良かった。父や義理の母へのわだかまりも、綺麗に洗い流されていくような気がしました。

 シャワーを浴び終えれば、美雪ちゃんとはじめての夕食です。お互いに思い違いがあったとしても、ひとつひとつ、間違いを認めていけばよいのだと思います。血が繋がっていなくても家族なのですから、そうやって、積み重ねるように仲良くなってゆけば良いのだと思います。頭から熱いシャワーを浴びていると、美雪ちゃんと、家族としてやっていける自信がわいてくる気がしました。美雪ちゃんの為に食事を作ってやろうと決めたのは、他ならぬ私自身なのです。

 義理の妹と、新しい家族として生きていく事に希望を持ったのは、私だけなのです。心に決めてしまえば、それは難しくない事のように思えました。血の繋がった母を捨て、気持ちが途切れてしまった父や、まだ気の知れない、義理の母である恭子さんとも、美雪ちゃんを家族の中心にして、ちょっとだけ気を使いあえば、うまくいく筈だと言う気持ちになりました。身も心も、穢れが落ちた気になりました。


 とてもさっぱりとした気持ちで風呂場を出たのです。汗や愛液を吸っていない、清潔な寝巻きに着替えました。浴槽を洗うのに使ったブラシはそのままゴミ箱に、投げるように捨てました。浴槽についていた赤い塊の汚れは、何かの間違えだったのだと忘れる事にしました。


 風呂から出ると、うっかりしていました。家の中に充満している冷房の事を忘れていたのです。熱いシャワーを浴びたばかりと言う事もあって、思わず身震いをしました(そうしているうちに慣れていくのでしょうね)。美雪ちゃんと、はじめての夕食を食べるのだと思って耐えました。身体の芯まで凍えてしまうような、冷たい世界でも、家族の温もりが必要なのです。台所へ行くと、炊飯器のご飯がちょうど炊き上あがっていました(新しい妹に姉らしい事をしてやれると少し浮かれていたでしょうね)。自分と義理の妹、ふたり分の食事をお皿にわけていると、父と狭苦しく食事していた時には忘れていた、家族と一緒に食べる為に作る料理の楽しさを思い出していました。

 

 私と美雪ちゃん。

 ふたりの食事をトレイに乗せて廊下に出た時の事です。

 どこからかわかりません。

 私の耳に聞き慣れたタブレットの呼び出し音が鳴っていたのです。

 風呂場の脱衣所で服を脱ぎすてた時。

 タブレットを置きっぱなしにしていたのです。

 食事を乗せたトレイをテーブルに戻しました。

 仕方なく脱衣所までタブレット取りに行きました。

 洗面台の上にありました。

 呼び出しを知らせるランプが執拗に点滅していました。

 連絡を寄越したのは地元の病院でした。

 内容は次のようなものでした。


「あなたのお父さんとお母さんが交通事故にあった。かなりの重体だから、家族の確認が欲しい」       


 私は、何を言われているのか、理解できませんでした。受け答えも覚束無いまま、地元の病院の場所や、面会時間を確認しました。タブレットの向こうから「家族や親族の面会は、早めにお願いします」と告げられました。

 

 そして通話は途切れました。

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