『包帯』
青木克維
第1話 『礼子』
私が高校二年の、春の事でした。
父と母が離婚しました。
他人からすれば、よくある理由だったのだと思います。
新学期が始まってすぐの事でした。
とても動揺した事を覚えています。
私はその日、クラスでいちばん仲の良い、ゆみとふたりでした。
新学期が始まった楽しさを分かち合い、はしゃいでいました。春の空や気持ちの良い風に、高校生らしく胸を膨らせていたのです。
「ゆみは学校が楽しいでしょ。成績も良いし、可愛いし」
「別に。どうって事ないもん。家族や先生が文句言ってこないだけだよ。わたしは言うほどは可愛くないもん。礼子は大人っぽいから、学校の男の子たちは興味がないだけだよ」
「そうなのかな。でも、私は勉強できないからな。面倒くさがりだし。課題とか後回しだし」
「成績がすごい悪いて事はないでしょ。気にしすぎだよ」
「そうだけどさぁ」
「この間、ふたりで学校さぼって遊びに行ったの、楽しかったね」
「あはは、ゆみって変わってるよね」
「そんなこと、みんなやってるもん」
「ゆみは違うよ」
「違わないもん、礼子と同じだもん」
いつもと同じように、くだらない会話をしながら、コンビ二のある交差点で手をふって別れました。私の住む家は、そこからわずかな距離でした。楽しい気持ちで帰ってきたのに、雰囲気が違った様子でした。玄関に父の車が停めてあったのです。
私の父には経営の才覚がありました。ちょっとした貿易を扱う会社を運営していたのです。仕事は長い間うまくいっていた筈ですから、父が早く帰ってくる事は、思い出す限りいちどもありませんでした。ですから、車庫に停まっていた豪奢な外国の車は、初めて見たような錯覚さえしました。父の車を眺めるのは、殆どが夜でしたから、日の暮れない夕方の日に、黒光りしたボンネットや窓ガラスには威圧感がありました。得体が知れないような気さえしました。学校から帰って来たらいつもそうするように、玄関に靴を脱ぎっぱなしには出来ない、不安な気持ちになりました。
「ただいま」
心の中の不安を何かの勘違いだと思い込んで押し殺しました。声の出し方にも気を配りながら、そっと玄関を上がりました。父の家庭への気高さと母の幸せへの要求によって、大きく広く建てられた家の中に、静かに張り詰めた空気が漂っていました。父と母は、リビングと台所が一緒になっている部屋に座っていました。ふたりは向かい合わせではなく、斜めに合わせて座っていました。私が帰ってくるまで、ずっと顔を合わせないようにして、待っていたのだと思います。母は力なく優しげに笑っていて、少しやつれているようにも見えました。父の方は力が抜けて、垢抜けていたように見えました。岩場で転んで擦り疵になってしまった時のような、ザワザワした気持ちが隠せなくなりました。胸の中にべっとりと気持ちの悪い湿った風が、吹き込んで来るのがわかりました。
「礼子、座りなさい」
最初に語りかけたのは、父でした。スッキリしていて、躊躇いのない通る声でした。母は何も言わずに静かに私と父を見ていました。私が椅子に座ると、父は咳払いをして、大事な話であると示しました。父の咳払いには、それ以外の何かが、差しはさまる余地が、ありませんでした。父には要件を伝える時にする癖がありました。
短く、言い切ってしまうのです。
「僕たちは離婚するよ、礼子には寂しくなるかもしれないけれど、辛い思いはさせないつもりだ。礼子は何の心配はいらないから、これからもこの家で暮らしなさい」
私は母の顔を見みようとしました。母はどれほどうちひしがれているのか。血の繋がった女同士、哀しみや痛みを分かち合えると思ったのです。ですがそれが出来ませんでした。私は母の顔を見る事ができませんでした。その時の母は、きっと言いたい事も言わずに、健気を装ってふるまっていたのかもしれません。明瞭で簡潔で行動力があり、全てに先回りして、賢い事、優秀な事、権利を振りまわさない包容力を持つ家父長でいる事。それを確認し続ける事で満ち足りる父。落ち着いて物事を考えながら、腰の重い生き方をして、自らの手では何もしない事に安堵して、その上で不満でいる母。こうして家族がバラバラになって、離ればなれになるキワにまで、いつも通りにふるまい続けていたのです。
私はと言えば。
寂びしさも悲しさも。
驚きも怒りも。
なにもかも通り越していました。
突然、乾き切ってしまった感情に嬲られて、打ちのめされていました。私は打ちのめされたまま、知っておかなければいけない事と悟り、父と母に離婚の理由を聞いてみました。ですが父も母もふたりして口を閉ざして何も教えてはくれませんでした。実の娘にさえ見栄や建前が大事であって、心の辛さを分かち合うことが出来なかったのです。私はなんとか顔をあげて、やっと母の顔を見ました。諦めと疲れがありました。もしかしたら、娘である私には哀れみの目で見ないでほしいのかもしれません。それでも取り繕う笑顔は、いつも通りにも見えました。家族に心を見せる事をやめてしまっていたのです。そうして、見せ掛けはとても穏やかに家族の離婚の手続きは終わりました。
新学期が始まったばかりですから、私は高校へ通い続けました。
学校にいる間も、家族がバラバラになってしまった心の隙間を抱え、茫然と過ごしました。うわついてしまって、授業を聞いていない事がありました。私立だったものですから、事情を知っている教師たちはうるさく言い立てる事はありませんでした(生徒の家庭の事情に関わりたくないと言うのが教師達の本音かもしれませんね)。知ったような顔をして、ずかずかと心の中に入り込まれるよりは、気楽でした。大人たちに建前でされる心配より、事情を知っていても変わらずに付き合ってくれた、ゆみや同級生たちの方が、私にとって救いでした。母のいない家。父とふたりきりの暮らし。私には耐えられませんでした。時々は辛くなって父を置き去りにして、家を飛び出す事がありました。同級生たちの家を泊まり歩いたりもしました。ゆみの家には、何度も泊まりにいきました。おじさんもおばさんも何も言わずにいてくれました。家で寝る時は、ひとりきりです。嫌な夢を見るのではないかと、怯えながら寝る事もありました。ゆみとふたりの時は、安心して眠る事が出来たのです。
その日も私の方から、わがままを言いました。
朝、ベッドから抜け出すと、家の中に人の気配がありませんでした。父が朝食も食べずに仕事に出かけた事がわかりました。
自分で作った朝食を食べた後、どうしても学校に行く気になりませんでした。タブレットでゆみに連絡しました。学校にも家にもいたくない。とにかく自分の知ってる場所にはいたくない。気の知れた友達とだけで過ごしたい。そんなわがままだったと思います(高校生らしい考えだったのかもしれませんね)。タブレットで話をしていると、ゆみはすぐに「遊びに行こうよ!」と返事をくれました。
「礼子はいま、大変なんだからさ。わがままとか、そんなの関係ないもん。行こうよ、学校なんて面倒なだけだよ」
「先生たちに見つかったら、ゆみまで怒られるね」
「見つかるわけないって。先生なんて、生徒の事なんて何も考えないんだから」
「そうなんだね、そうかもしれないね」
「遊びに行こうよ、礼子! 授業なんてさぼっちゃえば良いんだよ!」
話をしていると、私はとうとう家を飛び出しました。私服でしたから、ゆみも私服で待ち合わせました。私と違って、ゆみは制服で出かける事もできたのです。遊んだ後に、そのまま学校に遅刻する事も出来たのです(先生たちもゆみが言えば信用したでしょうね)。
でも、ゆみはそんな事はしませんでした。
私とゆみはバスに乗りました。いつも登校に使うバスでした。同じ高校に通う生徒たちが、登校する時間帯でしたから、私とゆみだけがバスの中で私服でした。私のようなわがままな友人に付き合う事で、内定や高校での評判に関わってしまうかもしれません。ゆみの負担になってしまうかもしれません。ですが、ゆみは私よりずっと落ち着いていました。高校での評判や世間の目に怯えるほど、ゆみは幼稚な人間ではなかったのだと思います(大人でもそう言う考え方が出来る人はあまりいないかもしれませんね)。
私は小さな声でゆみに言いました。
「ねえ、みんな見てるよ。なんだか、嫌な感じがする」
「気にしすぎだってば。嫌な感じなんてしないもん」
「クラスが違う女の子たちも、みんな見てるよ。噂になったら面倒だよ」
「大丈夫だってば。噂なんて、すぐに誰も言わなくなるもん」
「ゆみは、どうしてそんなに冷静なの」
「冷静とか言われてもよくわかんない。わたしは礼子が元気ならそれでいいもん」
そんな会話をしてると、バスが高校の前で停まりました。制服を着た生徒たちは、みんな降りて行きました。顔見知りの先輩がひとりだけ「見つからないようにしなよ」と言って、笑ってバスを降りて行きました。バスが走り出すと、制服を着た乗客は、ひとりもいなくなりました。ちょっとした冒険のように感じました。やがて私とゆみを乗せたバスは、近隣でいちばん大きな駅に到着したのです。
バスを降りると春の入道雲が見えました。
とても大きかった。
春の日差しを受けて陰影がはっきりしていました。
透き通るような太陽の光りでうつしだされた入道雲。
まるで私たちを取り残しているように感じたのです。
その美しさや明確な陰影が私には辛かったのです。
入道雲の淵は赤色と金色に輝いているように見えました。
しろい雲の腹に烏の影がありました。
鳥の影は小さかった。
私はそれを見上げて立ち止まってしまったのです。
「どうしたの、礼子。カラオケ行くの、やっぱりやめる?」
「ああ、ごめんね。大きな入道雲」
「入道雲?」
私はそらに向かって指を差しました。
ゆみはつられて見あげると、こう言いました。
「ハナグモ?」
「なんのこと?」
「なんでないもん」
「あの入道雲のまんなかの、小さい影って、鳥だよね?」
「鳥が飛んでるなんて、珍しくないもん」
「そうだね、ゆみの言うとおりだね」
「なんでもいいよ、どこのカラオケ屋にしようか」
「安い所でいいよ、どうせ暇つぶしなんだし」
「うん。いちばん安いカラオケ屋は、まだ開いてないよ。夕方からだと思う」
「そうだっけ? それなら、開いてるカラオケ屋でいいよ」
ゆみと私は、しばらく駅前をうろうろとした後、喫茶店に入りました。私はアイスコーヒーを、ゆみは紅茶とサンドイッチを注文しました。授業がはじまるような時間ですから、ほとんどのカラオケ屋はやっていませんでした。そこそこに安いカラオケ屋が開店する時間になるまで、中身のない、学生らしいおしゃべりをしていました。やがて、私とゆみは揚々と喫茶店を出て、駅前を散策しました(喫茶店の店員に顔を覚えられるほど長くしゃべってしまったのかもしれませんね)。ゆみが知っているカラオケ屋のなかで、いちばん安い店にいきました。カラオケ屋に入ると、ゆみはまた、サンドイッチを頼みました。安いカラオケ屋で食べるサンドイッチは、まずいし、値段も高いのです。それでもサンドイッチはゆみの大好物でした。メニューにサンドイッチがあれば、どこに行っても、ゆみはそれを頼んだものでした。
ゆみは歌がとても上手でした。高校の合唱部に誘われたほどした。その歌声はとても心地良かった。いつまでも聴いていたい、そんな気持ちになりました。私はと言うと、ゆみのような才能もないし、成績が良いわけでもありません。ゆみの歌を聴いているくらいが、私には似合っていたのです。だからと言って、ゆみは私の下手な歌を聴いて、何か不満を言うような事もありませんでした。それが友達と言うものなのだと思います。カラオケ屋でふたりきり。喉が枯れて、飽きるまで過ごしました。カラオケ屋を出る頃には、日が落ちていました。しゃべりすぎと歌い過ぎで、喉がカラカラでした。帰りのバスに乗ると、仕事から帰ってきた大人たちばかりでした。同じ高校に通う生徒たちが、乗っているはずもありませんでした。ひとつ年上の運動部の先輩が、制服を着たまま乗っていましたが。私とゆみの事に、気がつく素振りもありませんでした。
なにも変わらない春が過ぎて行きました。ゆみのような友達以外はみんな、私の事にとりあっている暇などありません。淡々と過ごしやすい季節が過ぎていきました。岩場に擦り付けられて、どこにも行き場のない気持を抱えてしまっているうちに、いつか春が終わりを迎えました。終業式がやってきたのです。煩わしい校則も授業も、宿題もない夏休み。遊びたい盛りの私にとって救いなのでしょうか。それとも、重く沈むような冷たい世界を歩くような気持ちだったのでしょうか。
もし誰かに夏休みがない方が良いのかと訊かれたら。
ずっと永遠に高校二年の春が続いていた方が楽だった。
父とふたりだけで暮らすくらいなら。
私はそう答えたと思います。
ゆみは夏休みに入っても、何気ない事まで私に気を使ってくれました。それでも本当は何も助け合えない無い事くらい、知っていたでしょうか(高校生だったからこそお互いの心の痛みに敏感だったのかもしれませんね)。父とふたりきりの夏休みは、毎日が静かでした。生活の匂いも音もない。凍えるような時間が流れていました。母の代わりに私が全ての家事を賄って、じっと疑問や不満に耐えるような時間が過ぎて行きました。
夏休みと言っても、それは高校生の私のはなし。
父は自分の会社があるものですから、仕事で家にいない日が多かったのです。私がひとりきりで過ごす時間は、長く辛いものでした。今は悲しみを忘れる為には必要な時間なのだと言い聞かせ、出来るだけ淡々と過ごしました。闊達で精力的で、自信家だった父もいつか仕事に追われ、母を忘れ、かすれたような表情に変わって行きました。気が付くと家の中の静けさが、底なしに深くなっていくようでした。時々、耐え切れずに、破裂してしまいそうでした。私の知っていた当たり前で幸せな毎日は、家の中から失われていたのです。
そんなある日の事でした。
夏休みもまだ半分も過ぎていませんでした。焦げつくような暑さが続いていました。母と別れてからいつもそうしていたように、ふたりきりで会話のない夕飯を食べていた時でした。
父が私にこう告げました。
「礼子。新しい家族は欲しくないか」
私は勿論反対でした。あまりにも突然でしたから、当然だったのかもしれません。
最初は、父に対する反抗心だったのかもしれません。
「私、新しい家族いらない」
口にしてみると、改めて父の言葉に腹が立ちました。
全く身に覚えのない事でした。
それよりも、なによりやはりまだ、血の繋がった母が好きでした。
二度と戻ってこない、過去の記憶が好きでした。
「私、新しいお母さんなんか、いらないから!」
再びそう告げると、父は恐ろしい目で睨みました。母と別れて以来、父は確かに精神的にも肉体的にも、やつれていました。私より深く心に傷を負ったのは理解しているつもりです。しかし、離婚した日から考えても、あまりにもはや過ぎる話でした。父の話から受けた私の心の痛み。寂しさや怒りを差し引いたとしても、父の身勝手さが身に染みるようでした。とても嫌な気持ちでした。
「礼子、父さんはその人がとても大切なんだ。その人がいると嫌な事を忘れられるんだ」
父の口ぶりは、人に何かを相談するような態度ではありませんでした。離婚して傷ついた筈の両親。父の様変わりは私の心と身体を貫いたでしょうか。それはあまりにも唐突すぎる宣告でした。自分の傷付いた心を慰める為、内向して歪んだ自我を吐き出しているように、私には聞こえたのです。父は。私と血の繋がった母以外の女性に。誰に心を許したのでしょう。
家族がバラバラになってしまって間もない今に。
なぜ再婚を言い出したのでしょう。私は猛然と腹が立ちました。父の家族への心変わりにではありません。まだ、高校生である私の気持ちを考えていない事に、腹が立ったのです。
「再婚なんて! 何を考えてるの父さん!」
夕飯を食べていた時でしたから、私は箸を叩くように置いて、席を立ちました。高校生の私には父の唐突な宣告を拒絶する事しか出来ませんでした。
「礼子、礼子」
父の声は縋るとか懇願すると言うよりも、ただ苛立って叫んでいるように聞こえました。その声が煩わしかった。耳障りだった。早くこの場を離れてしまいたかった。部屋を出る時に、振りかえりました。父は曇天した、お酒を飲んだ時のような濁った目で、私を見ていたのです。生きる気力を無くし、諦めてしまった人の目でした。こんなに曇った眼で、父親が娘を観るだろうか。
私は、心底ぞっとしました。
母と父と、私。
家族で過ごした幸せな記憶が暗く色褪せていきました。
温かい家族の記憶。
その記憶が硬く冷たく押し込められていくのがわかりました。
私は自分の部屋へ逃げ込むと、頭から布団を被りました。何もかも悪い夢であって欲しいと願いました。目が覚めたら夏休みの前まで戻っていたら。いいえ。始業式の前、高校二年になる前の日まで戻っていたら、どれだけ救われるのだろう。そら悲しく、虚しく布団の中で想像したでしょうか。泣きたくても涙まで乾いていました。怒りすらもありませんでした。得体の知れない、名前もわからない塊が、私のなかで膨れ上がっていきました。それを押さえつけるように、首が痛くなるくらい、強い力で枕に顔を埋めました。やがて夕食が途中だった事も、お腹が減っている事も、父への嫌悪感もドロドロに溶けてしまって、眠りについてしまったのです。
その夜。とても嫌なものに身体を支配される夢をみました。とても気持ちの悪い、黒い死体のような者に、身体を乗っ取られる夢でした。恐怖を感じて夢の中で叫んでいたでしょうか。
そしてその日から、父と私は挨拶すら、しなくなりました。
次の日になっても、父は自分の経営する会社に相変わらず勤めました。朝起きて、車庫に外車がない事に安堵さえしました(そんな自分にすぐにでも疲れていたでしょうね)。あとから思えば母を失っても気力を切らず、娘である私と心通わなくとも、会社に通い続けた理由があったのです。父の会社は海外からの小物を輸入する会社でしたから、家には多少の小金がありました。生活に困らない事を良しとしても、それを頼りにして母よりも父を選んでしまったような謂れの無い罪悪感が、私を貫いていました。小金がある家ではよくあるように、この通り家は広く、母がいた時から生活は清潔に整っていました。母がいなくなって、両親が結婚した時に夢をえがいたであろう、いずれ増える筈だった妹や弟の部屋は、使われる事がなく、空いていました。そんな心の穴のように、ぽっかりと人のいない部屋は、掃除をするにも虚しかったのです。血の繋がった母は毎日、いつかその日の為に清潔にしていたです。家族の減った言い表せない気持ちは、胸の痛みが癒えるまでずっと続くものと諦めていました。 再婚の話をされた後。私は誰の為に家事を続けているのか。掃除や家事のたびにうちひしがれ、身が入らなくなっていたのです。父の様変わりを思い返せば、やはり、辛く冷たい気持ちになりました。
父と私は、朝食の時に時間を合わせて食事をする事もしなくなりました。父が会社の定時に帰ってきた日にだけ、夕飯の時に顔を合わせるだけになりました。心の中で父を罵り上げ、汚い言葉を散々に投げ付けました。血の繋がった母と私を裏切った父に向けて、得体の知れない塊を胸の内側に溜め、ひたすら不快な日々を過ごしたのです。そして。何とはなしに、父の目つきが、日毎に変わって行くようなのです。顔を合わせる度に、父は口の中だけでぶつぶつと、再婚を了解しない私に向けて、何かを言っているようでした。その様子は見るに耐えないものでした(私の心の奥に父に対する信頼が残っていたのかもしれませんね)。
再婚の話があって、数日。いよいよ暑さが増して来た頃でした。父の様子に堪り兼ね、再婚の話が、どういう了見なのか詳しく聞いてみる事にしたのです(夏の煩わしさと私の不安も手伝っていたでしょうね)。父の口から聞かされた事実は、私の耳にそら恐ろしい物でした。再婚の相手は父の会社に勤める、女性社員だったのです。その女性は「恭子(きょうこ)」と言う名前で、彼女が来てから、会社が非常に上手くいっていると、父は思っていたのです。恭子と言う女性は素晴らしい女性だから、会えばきっと、私も過去の幸せに縋る事を忘れ、悲しい気持ちを忘れて、幸せな家族になれると言うのです。父がその恭子と言う女性の話をする時の顔は、昂揚して興奮していました。私は勘繰り、母と別れた理由をさりげなく尋ねました。父は口の端を釣り上げて歪めて、笑っていました。寂しさや怒り、興奮や憐憫が混ざったような、うす気味の悪い笑顔でした。陰鬱な疲れのたまったギラギラした瞳から、さらに深く鈍い光を放っていました。父はもはや、私の知っている父ではなかったのです。
家から出ようにも出れない私は、寒々した、痛々しい静寂の中で、前よりもさらに深まった孤独の中で生活するようなりました。変わり過ぎた父のあの異様な目つきが恐ろしくて、再婚を反対する気力すらなかったのです。父と私はお互いの気持ちに、なんの了解すら求めないまま、淡々とした焦げる様な夏が、さらに過ぎていきました(父の中で再婚する事はとても大きな希望だったのでしょうね)。恭子と言う女性との再婚が早ければ早いほど、父にとって望ましい事だったのだと思います。
私が父と会話を絶ったまま、ひとりで朝食を食べていた時でした。再婚の相手である恭子さんの事を教えられてから、何日も経っていませんでした。父がリビングと台所が一緒になった部屋にやってきて、新しい家族がやってくる日付を教えられました。私がその日付を黙って確認したのを知って、父はそのまま会社へと向かいました(私が嫌悪感を隠さずにいた事にもなんの関心もなかったのでしょうね)。玄関を出てドアを閉めるまでは静かでした。車のドアを閉める音、乱暴な運転で家の門を出て行く音が、耳障りでした。夏休みさえ終われば学校がはじまりますから、家から離れる自然な理由に恵まれます。その時までは、ただ、痛ましい空っぽの家の中で、家事以外の殆どの時間を、自分の部屋で過ごす事になります。
高校生の私には味わった事のない孤独でした。
その日その後に、ゆみからタブレットに連絡がありました。
県外の大型のプールに誘ってくれたのです。
「おはよう、礼子。ゆみさんは、ハハオヤに水着を買ってもらってしまった。学校の授業には着ていけないから、プールに行きたい」
「わぁ、水着買ったんだね。私は去年、買った水着しかないかな。デパートでお母さんと選んで、買った水着。ゆみと同じだね。学校の授業で着たら、職員室に呼び出されてしまうような水着だけど」
タブレットの向こうでゆみの笑い声がきこえました。
「そうそう、わたしもそんな水着を買ったの。もったいないから、プールに行こうよ」
「あはは。どうせ買って貰った水着なんだし、もったいないっておかしい」
「いいじゃん。誰に買って貰っても関係ないもん。プールに行こうよ」
「うん、わかった。どうせやる事なんかないしね」
「夏休みなんて、暇なだけだもん」
この痛々しくて、肌を刺すような真夏に、ゆみの存在だけが私にとって救いだったのです。私とゆみは、バスと電車を乗り継いで県外の大型プールに行く事にしました。
県外の大型プールに行くまで、人の群れで溢れていました。私とゆみははぐれないように、時々、そっと肩を寄せ合いました。バスから駅に乗り継いで目的地に辿り着くと、一目散に大型プールに向かいました。ほとんど駆け足でした。その道すがらさえ、家族連れも、恋人同士もいて、ひとで溢れていました(私たちのように高校生の友達どうしも多かったのか知れませんね)。
入り口で学生証を出して料金を払うと、ふたりで更衣室まで走りました。更衣室で水着に着替えていると、家の事をおもいだしてしまったのです。
「どうしたの、礼子? 水着とか恥ずかしかった?」
「違うの。暑くて、ちょっとぼぅとしちゃった」
「なんだ、気をつけなよ」
「なんでもないから、気にしないで」
「良かった、プールが嫌なのかと思った」
「プールが嫌なわけないじゃん、こんなに暑いのに」
「そうだよね、泳ごうよ! 礼子!」
ゆみは可愛らしい水着になると、私に先立ってひとのあふれるプールに飛び出していったのです。ひとが多すぎて、遊ぶには窮屈でしたが、ゆみは気にならないようでした。私も着替え終えて、ゆみの後を追って、プールサイドに飛び出しました。ゆみを見失って、ひとりで歩いていると、見ず知らずの若い男性に声をかけられました。一緒に遊ばないかと言う、誘いでした。私は断ったつもりだったのですが、男性は笑いながらしつこく話しかけてきました。心の中で面倒だと思っても、男性が話しかけてくるので、どうしても返事をしてしまうのです。誰かが私の手を握って、私を男性から引き離しました。ゆみでした。後ろから私たちを笑う声が聴こえました。ゆみと私は手を繋いだまま歩きました。離ればなれにならいように。
私は自分の手が痛くなるくらい、ぎゅっと、ゆみの指を握り締めました。水で濡れたゆみの指先が心地好かった(ゆみはとっくにプールに飛び込んで好き勝手に泳ぎ回っていたのでしょうね)。
「ゆみがいてくれて良かった。ごめんね」
「なんで謝るの。礼子と遊びにきたんだもん」
「忘れたい」
「なに、礼子」
「なんでもない。ゆみといっしょにいたい」
「変なの」
「ゆみの方が変だよ」
「そんな事ないもん」
「先生たちもみんな、ゆみの事をほめてるよ」
「学校の事なんかどうでもいいよ。せっかくプールに来たんだもん」
この県外の大型プールには、有名な大きなウォータースライダーがありました。ふたりでそれに行く事にしました。私とゆみは、手を繋いでウォータースライダーの階段を昇りました。その時の気持ちをどうやって言い表したら良いのか、今の私にはわかりません。ただ、幸せだったと言うしかありません。ゆみが先で、私が後の順番で滑りました。くたびれ果てるまで遊びました。遊び疲れたゆみは、プールサイドの売店で、サンドイッチを頼んだものでした。
そんな当たり前の夏休みが、どれほど愛おしかったでしょう。
家の中の静寂には、ずれてしまって戻らない、歪んだままの深いふかい溝がありました。溝の淵にはザラザラした岩場がありました。なにひとつ身につけない裸の私になってしまって、岩場から逃れよう、這い上がろうとするたびに、肌に尖った岩や砂利が喰い込んで、擦り傷になっていくのです。増えていく傷の痛みに耐えて、湿った嫌な風に吹きつけられていたのです。
ぼろぼろの布切れのようでした。
私はそこから逃げ出す事さえ出来ませんでした(擦り傷だらけで彷徨っていたのはいなくなった母でも父でもないのでしょうね)。
家の中でひとりきりなると、ゆみの事を思い出してしまうのです。
それが余計に辛かった。
やがて。
ゆみとプールに遊びに行って間もなくの事。
父が告げた再婚の日がやってきました。
夏の空もまだ暗い窓の外。私はトイレに行きたくてベットの上で目が覚めました。時計を見ると、まだ深夜の四時を過ぎた頃でした。廊下に出ると家の中が、広くて暗くて、とても冷たいようでした。真夏とは思えませんでした。この家には、私の求める光が、欠片も無いような気さえしました。トイレを済ませて戻ってくると、ベットの上の温もりが、骨の芯まで届くような気持ちになりました。私はいつまでも、血の繋がった母との記憶を、忘れる事が出来なかったのです。
そのうちに朝日が昇りました。
自分で作った朝食を食べていました。父がやってきて新しい家族を迎えにゆくと言って、玄関に向かいました。まるで遊園地に向かう子供のように、陽気な足取りでした。父は家のドアを乱暴に開けて、車庫にむかいました。私は朝食の途中でしたが、父の運転する外車を家の門の外に出て、見送りました。父の運転は、非常に乱暴な運転でした。私の家からも見える、コンビ二のある交差点を曲がって消えていくのが見えました。昼前には戻ると言う手筈になっていました。
私は心の中で、もし、このまま父が帰らなければと呟きました。
それは邪念でした。
新しい家族と言えば聞こえは良いのかもしれません。
ですが私は。
決して何ひとつ、それに対する希望を持っていませんでした。
出来るだけそう言った事は考えないようにしました。広い家の中を回り、淡々と家事をこなしました。父には万が一にも失礼がないようにと、言い含められていましたから、念入りに家を掃除しました。
一度だけ。
廊下を掃除していた時に堪り兼ねて座り込み、声を上げずに泣きました。廊下に顔を伏せ、ゆみや血の繋がった母の事も忘れて、泣き叫びました。そのうちに気を取り戻して、嫌な気持ちに偏る自分を叱咤しました。いくら泣いても過去の幸せが戻ってくる事はありません。掃除も終わり、自分の部屋に戻ってタブレットを弄っていました。それも飽きると、読み飽きた漫画を、気もなく捲っていました。いつしか時間は経って、父の外車が家の前で停まるのがわかりました。無理にブレーキをかけた時の金属音が聞こえたのです。その音は、飽き飽きして、疲弊している私の神経を撫でました。
疲労感や嫌悪感を押し殺しながら、父と、顔も知らない新しい家族を、玄関まで迎えに出ました。
父には新しい家族を迎えるのに、万が一にも失礼がないようにと、言い含められていましたから、態度や表情が顔に出ないように、必死で気を使いました。雲ひとつない真夏の昼の炎天下でした。車の助手席から降りて来たのは、背の高い化粧映えのする女性でした。この人が再婚相手の恭子と言う女性に違いありませんでした。私から見て、お化粧が綺麗だと言う以外には、あまり好ましい所の無い、大人びた女性でした。
そして、私は父の言った言葉をずっと勘違いしていたのです。
父は『新しい家族』と言っていました。
確かに『家族』と言っていました。
私もうっかりしていたのは確かです。この目の前の事実を知っていたら、何があっても狂い初めていた父を説得したでしょう。新しい家族は、恭子さんだけではありませんでした。父は真っ赤に染まった顔で、外車の後部座席のドアを開けました(父の顔付きは既に別人に見えたでしょうね)。父が後部座席のドアの前に、洒落た日傘を差し出しまし。すると日傘の下に隠れるように、小さな女の子が降りてきたのです。
年齢は小学生くらいでした。
可愛いらしい女の子でした。
綺麗な刺繍のある高級なワンピースを着ていました。
絹で織られた涼しげな白いワンピースでした。
「美雪、ご挨拶なさい」
女の子は恭子さんに催促されて顔をあげました。
黒い日傘の下から見上げるような冷たい目で私を見たのです。
そして私に向かって頭を下げるといきなり駆け出しました。
私の暮らしている家の中に滑り込むように消えて行きました。
父と恭子さんは慌てたようになりました。
仕方ないと言った様子でした。
ふたりして口角を歪めていました。
わらっていたのです。
あろう事か父は。
高校生である娘の私の気持ちを置き去りにして。
私よりも幼い子供のいる女性と再婚したのです。
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