一冊の手帳
時間が止まった気がした。
先生が言っていた知らなくていいことって、もしかして。
私たち自身のこと…?
二人は手帳を開いたまま、石のように硬直した。
そこには、日記のような文章が長々と綴られていた。
『研究施設に派遣されて×日。担当することになったのは一人の少女。落ち着いた紫色の瞳が真っ直ぐに私のことを見ていた。こんな幼い子が全てを滅ぼすことのできる兵器だなんて。とにかく慎重に観察をする。』
『数日が経った。少女は運動神経、頭脳共に良好。好奇心が強く、何にも興味を示すところは人間の子供そのもの。本当にこの子は兵器なのか?たまにわからなくなる。』
『私がこの子の担当になってから×ヶ月が経過した。少しずつ心を開いてくれているのか、最近は何をするにも近くにいる。たまに見せる無邪気な笑顔は私を元気づけてくれると共に苦しめる。この子は兵器。人ではない。私は研究者。常に冷静でいなくてはいけないのに…』
『上司から少女の検査結果はどうかと聞かれた。運動能力及び頭脳のテスト結果は良好だと伝えた。上司は良かった、と一言残して去って行った。…嫌な予感がする。』
『上司から呼び出された。あの少女を今度の実験で活用してみることにする、と。つまり、戦争が起きている地域に兵器として送り出し、戦わせる。そういうことだ。結果を残せばそれを見た国や軍隊が嫌ほど札束を積んで欲しがることだろう。能力が高すぎて世界まで滅ぼしかねないが、そこは調整していくと。…そんなこと許してはいけない。彼女は自分が兵器であることを知らない。たとえ人体実験の末に作られた人間だったとしても生きる権利はあるはず。私がなんとかしないと…』
『私は今日、少女をここから連れ出す。研究施設を裏切ることになるが、そもそもこんな研究自体、あってはならないんだ。大丈夫。きっと連れ出して見せるからね。』
『…なんとか研究所を抜け出すことに成功した。それにしてもまさかこの子が私を庇って銃弾を受けることになってしまうなんて…その衝撃で体が分裂してしまうなんて。あの時は強い光と共に突風が吹いて何があったのかわからなかったけれど、気がついたら少女は二人になっていた。それからずっと眠った状態だ。とりあえず安全な場所へ移動しないと。森の奥に私がかつて住んでいた家がある。そこならきっと大丈夫だろう。』
『少女たちが目を覚ました。どうやら何一つ記憶がないようだ。元々一人だったからか、両の目を二人で分け合っている。澄んだ赤い瞳と青い瞳が真っ直ぐに私を見ていた。この子達は私が人間としてちゃんと育ててみせる。』
『二人の名前を考えた。赤い瞳で金髪がキラキラと輝いている子が千流架(ちるか)。青い瞳で海のように深い青髪をしている子が流霊架(るちか)。各々が輝きあい、支え合って生きていけるよう願いを込めて。…なんだか母親になった気分になるな。二人がこの名前を気に入ってくれますように。』
『兵器として作られた以上、人間としての感情や心は基本的に消されているはず。お互い一人の人間として、真っ当に生きられるように私が少しずつでもたくさんのことを教えていきたい。…私もまた、勉強し直さないとね。彼女たちを支えて生きたいもの。』
文章はここで終わっている。
一通り読み終わった二人は自分が研究されていた兵器だったこと。
元々は一人の人間であったことを初めて知り、愕然とした。
確かに昔の記憶は残っていない。
女性から名前を与えられた時、なんだかすごく嬉しかったという感情は記憶として残っていたが。
「私たち…一人だったんだ…」
流霊架がぼそっと呟いた。
「ずっと気になってたんだ。お互いやけに気があうなって思っていたし、一緒にいることが当たり前だって思っていたし。」
それに…と流霊架が千流架の顔を見つめながら、自分の前髪をかきあげた。
「お互い片目しかないしさ。」
青い瞳と虚空を表したような空洞が千流架を真っ直ぐに見据えていた。
「…そうだね。」
千流架も同じように前髪をかきあげて、赤い瞳と真っ黒な空洞を流霊架に向けた。
そしてガクッと項垂れた。
あまりの情報量の多さに処理しきれておらず、どうすればいいのかわからなかったのだ。
突然尊敬していた先生が亡くなって、自分の正体が元々は一人で。しかもただの人間ではなくて、兵器だなんて。1日でたくさんのことが起こりすぎた。わけがわからなくなるのも当然だ。
「ねえ、手帳にはもう何も書いていないのかな。」
流霊架が尋ねる。
「そうだなあ…」
千流架がページをペラペラとめくり始めた。
血でくっついてしまっているところも多く、汚れてしまっているが特に何かが書いてあるわけではなさそうだ。
最後のページまでめくった時、一枚の紙切れがひらりと落ちた。
流霊架がすかさず拾い上げる。
それは、三人で撮った写真だった。血が染み付いてしまっているが、家の中でバラバラになり床へ散らばっていた写真と同じものだった。
「…懐かしいね。みんな、いい笑顔だ。」
流霊架がしみじみと悲しそうに言った。
「あ…ねえ、写真の裏側に何か書いてあるかも。」
千流架が何かに気がついた。
そこには小さな文字で
『私の大切な千流架と流霊架。二人で幸せに生きてね。』
そう書いてあった。
「先生…」
流霊架は写真の中の女性の顔を指でなぞる。指についていた血が彼女の顔を赤く掠める。
写真の中の彼女も、現実と同じように赤く染まってしまった。
それをみて、耐え難い虚しさに囚われる。
じっと写真に目を通す流霊架の横で、千流架は最後のページにも何かが書いてあることに気がついた。
「ねえ、このページにも何か書いてあるよ。」
その言葉に流霊架も手帳の方へ視線を移す。
『あの研究施設は私を絶対に許してはいない。だから絶対、私を殺しにくる。私は死ぬことになるだろう。二人とずっと一緒にいたかったけれどそれはきっと叶うことがない。だからせめて、二人だけでも生きられるように。万が一居場所がバレてしまっても家を別々にすれば彼女たちの助かる可能性が高くなる。それに私がいなくても生活していける力も身につくだろう。少し寂しい気持ちはあるけれどそれが彼女たちの為になるのなら喜んで受け入れよう。』
少し乱れた字体で綴られていた。女性は自分が死ぬことも覚悟もできていた。
そんなに追い込まれた状況だったなんて、と二人は驚きながら同時に悔しさと怒りを露わにした。
「千流架。先生を殺したのはこの研究施設ってところなんだね?私、絶対に許さないよ。私たちが兵器なら、その研究施設を跡形もなく葬り去ってやる。」
いつも穏やかな方だった流霊架が珍しく声を荒げて怒っている。
「うん。私も絶対に許さない。私たちから先生を奪っておいてただで済むと思わないことだね。…でもさ、その研究施設ってやつは一体どこにあるんだろう?」
怒りながらもふと出てきた疑問を流霊架に投げかける。
流霊架もそういえば、と困った顔をして俯いてしまった。
「考えてもわからないよね。…とりあえず、先生、このままだとゆっくり眠れないと思うからちゃんとお墓の中に埋めてあげようか。」
しばらく地面に寝かせたままの状態の女性に目を向けて千流架が言う。
そうだね、と流霊架も頷く。
二人でゆっくりと体を持ち上げ、丁寧に二人で掘った穴の中へ寝かせる。
そして、優しく土をかけていく。
「先生、ごめんなさい。多分、知らなくてもいいこと知ってしまったと思う。だけど、私たちはもう決めたんだ。手帳、私が預かっておくね。先生との思い出と一緒に。」
千流架が土をかけながら優しい顔で囁いた。最後にゆっくりと顔に土を被せる。
もうそこには女性の姿は見えない。いなくなると、本当に死んでしまったのだと再確認させられる。それもまた、辛かった。
「お花、摘んできたよ。先生、よくお花見てたから喜ぶかなって」
流霊架が庭から摘んできた花を女性が埋まっている上に丁寧に並べる。
ピンクや黄色、赤、青、オレンジ。色とりどりの花たちが女性の眠る場所を彩っている。
「これできっと寂しくないよね」
悲しそうに笑う流霊架に千流架はありがとう、と返した。
二人は初めて自分たちでお墓を作った。
これが正しいのかわからなかったが、女性が安心して眠れるように祈りを込めて精一杯作った。どうか、安らかに。
この日は女性のお墓の近くで寄り添うように眠った。
月明かりの下、ぼんやり見える互いの顔になんだか安心感を抱いて二人はゆっくりと目を閉じた。
風が優しく二人の頬を撫でていく。草木が揺れてサワサワと静かな音を立てている。
いつも聞こえていた音や感触も今日はなぜか一段と寂しく感じた。
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