日常の終わり
どれほどの時間が経ったのだろうか。
二人は未だ、血溜まりの前から動けずにいる。
金縛りといっても過言ではないほど体が石のように硬直している。
「…あ…せ、せんせ、い…?」
今にも途絶えそうなか細い声が静寂を破った。
流霊架(るちか)だ。膝から崩れ落ちたまま力無く言葉を発している。
千流架(ちるか)もハッとしたように固まっていた体を動かした。止めどない恐怖心を感じつつも恐る恐る血溜まりの方へと歩を進める。
ぴちゃ… ぴちゃ…
血が足にまとわり付くように音を立てる。
生臭さと血のぬめっとした感触を全身で感じながら、千流架は女性の残骸の前に立った。
そしてゆっくりとしゃがみ込む。
いつも二人を撫でてくれていた優しい腕は、冷たく部屋の奥へ転がっていた。
俯いている女性の頬に触れ、顔をあげてみる。
力無く揺れる頭は千流架にその身を委ねていた。
そして、あれだけ温かく二人を見守っていた瞳は今は濁り、漆黒の闇そのものを映し出していた。
もう、私たちのことを見てはくれないのだと千流架は悟った。
どんなに見つめても、二度と視線が合うことはなかった。
千流架は震える手で優しく彼女の目を閉じた。
女性の目に溢れていた涙が頬についた血とともに一斉に流れ出す。
_くるしい。
その時、今まで感じたことのない感情が少女を支配した。
冷たくて、どこか熱くて。息が詰まりそうで。
ちゃんと呼吸はできるはずなのに。できていたはずなのにできなくなる。
_痛い。
どうして?どこも怪我をしてはいないのに。
この血は全て先生の流したもの。私自身、一滴も流してなどいないのに。
どうして。
…これは、何?
心の中から溢れ出てくるこの不思議な感情は少女にはまだ理解ができなかった。
気がついたら視界がぼやけている。じわっと生温かいものが頬を何度もつたっていく。
ああ、私今 泣いているんだ。
これが先生が教えてくれた『悲しみ』という感情なのかもしれない。
息ができないほど苦しくて心の奥がじんわり冷たくなっていく。
少女は思った。
「う…うぁ…」
声が漏れる。涙が止まらない。抑えられない感情に押しつぶされる。
「あああああああああぁ!」
冷たくなった女性を強く抱きしめながら少女は大きく声をあげた。
「千流架…」
部屋の前で動けずにいた流霊架が二人の元へ四つん這いになりながら血溜まりの道を進んでいる。
そして、大声で泣く千流架と冷たくなった女性の亡骸をまとめて抱きしめた。
身体中が震えている。
「千流架ぁ…あぁ…嘘だあぁあああああ!!」
流霊架も叫びながら大粒の涙を流した。首を何度も何度も横に振り、「嫌だ、嫌だ」と繰り返している。
静かな森の中に二人の泣き叫ぶ声が響いている。
もう何も、考えられない。
窓から見える空が赤く染まった頃、声が枯れるまで泣き続けた二人の少女は未だ女性と共にいた。
部屋の奥の壁に女性と共にもたれかかり二人で窓から見える空をぼーっと見ていた。
雲が流れていくのがいつもよりも随分とゆっくりな気がする。
疲れた。もうずっとこのままでいい気がする。先生と一緒にいられるから。
二人は心の中でそんなことを思っていた。
もう気力も体力も何一つ残ってなどいなかった。涙は乾き、頬に何本もの道を作って張り付いている。
カラス達が鳴いている声が聞こえる。
みんな一緒に帰っていくのかな、と千流架は思った。
その時、
『何かあったときはね、お互いで支え合って生きていくんだよ。一人だと難しくても二人ならきっと乗り越えていける。あなた達なら大丈夫!』
女性がかつて二人に投げかけた言葉が千流架の脳内をよぎった。
『千流架。流霊架のこと、よろしくね』
優しい笑顔と共に女性の声が心の中に響き渡る。
千流架はハッとした。このままではダメだ。先生との約束を守るため、私にはもう一人、かけがえのない存在がある、と。
虚な目で空を見つめている流霊架の方を見て、小さく頷くと少し固まってしまった体をゆっくりと動かし、立ち上がった。
「流霊架…覚えてる?先生、よく二人で支え合ってねって言ってたよね。私たちは二人だから何があっても乗り越えていけるって。先生との約束、それに教えてもらった全てのこと。無駄にはできないよ。」
掠れた声ではあるが力強く、はっきりと言い放った。
それを静かに聞いていた流霊架は
「…そう、だよね。先生、いつも私たちのこと、心配してくれてた…。このままここで立ち止まっていたら先生に怒られちゃうよね…」
少しだけ微笑むような表情を浮かべ、千流架を見た。
「そうだよ!きっと今度はほっぺたつねられるだけじゃ済まされないよ!」
悲しくも明るい笑顔を浮かべて千流架は自分の頬をつねって見せた。
小さな掠れた笑い声が部屋の中に響いた。
楽しいわけじゃない。とても、耐え難いほど悲しい。
だけど、このままじゃいけない。そんな気がして二人は少しでも前を向こうとしたのだ。
「さあ、立って。先生もこのままじゃ寂しいだろうし…」
千流架が流霊架に手を差し伸べる。
流霊架がその手をしっかりと掴んだ。
勢いよく引っ張る。血で滑りながらも千流架は彼女を立ち上がらせた。
「ありがとう。」
流霊架がまっすぐ千流架を見て言う。
うん、と微笑みながら千流架が頷く。
「先生…」
流霊架が女性の方へ視線を移し、呟く。悲しげな表情は拭えない。
「…昔、先生の家の近くで鳥が死んじゃっていた時に先生、地面に埋めていたよね?お花を添えて。お墓を作ったんだってそう言っていた気がする。」
千流架が朧げな記憶を辿りながらいう。
「先生もお墓、作ってあげたほうがいいよね。ここよりも土の中の方がきっと温かい気がするし。寂しくもないと思う。」
そうだよね、と二人で頷くと女性の元へ行き千流架は頭の方を流霊架は足の方をゆっくりと持ち上げようとした。
「待って。」
突然流霊架が手を止めて声をかけた。
「先生、腕が取れたままだよ。体も傷だらけできっと痛いよ。先生がやっていたお裁縫ってやつで直してあげようよ」
真剣な眼差しで千流架をみる。
前にかくれんぼしていてうっかりカーテンを破ってしまったことがあった。
その時に針と糸で縫い合わせて綺麗に直していたのを見ていたのだ。
『元気なのはいいけれどね、怪我をしないようには気をつけてね。カーテンならお裁縫で直すことができるから心配しないでね。』
ふと、先生はそんなことを言ってくれていたなと思い出した。
「なるほど…わかったよ。痛いのは嫌だもんね。」
千流架が承諾すると流霊架はかつて女性と一緒に勉強していた部屋に戻り、傷だらけの小箱を持ってきた。
あの部屋で原形を留めているものがあったなんて奇跡に近いと思いながら中身を確認する。幸い針と糸は何本かあるようだ。
流霊架は針を手に取ると器用に糸を通して女性のもげていた腕を縫いつけ始めた。
見よう見まねだから正直あんまりうまくはできなかったがなんとかくっつけることができた。続けて身体中の大きな傷を順番に縫っていく。
これでなおる、という訳ではないがせめて、彼女の痛みが終わるように。少しでも元通りにしてあげたいその一心で流霊架は縫い続けた。
「綺麗に塞がるものなんだな。」
千流架がその様子を覗き込み、少し驚きながら感心している。
「…できた」
最後の傷を縫い終わり、玉留めをして糸を鋏で切ると元あった小箱に丁寧に戻した。
「おまたせ。もう大丈夫。先生のお墓、つくろう」
再び足の方を持ちながら千流架に言った。
「ありがとうね。流霊架が器用で助かるよ」
頭の方を持ち上げながら千流架が言った。
外は暗くなり始め、部屋の中も薄暗くなってきた。
二人で足元に気をつけながら女性を外へ運び出す。
女性は小柄な方だったので少女二人の力でもなんとか運び出すことができた。
「もうすっかり暗くなってきたね。家の明かり、つかなかったしどうしようか。」
女性を丁寧に地面に横たわらせると千流架が心配そうにいう。
「何か明かりになるもの、探してくるよ。先生ロウソクとか持っていたと思うし。まあ…まだ使えそうなものが残っていればの話だけどね。」
困った表情を浮かべながらも流霊架は再び家の中へと戻って行った。
しばらくして、家の中に小さな明かりがゆらめいているのが見える。
流霊架がロウソクを持ってこちらに向かってきた。
「お!使えそうなもの、残っていたんだね!よかった!」
千流架は安心したような表情を浮かべていう。
「…うん。あってよかったよね。」
なぜか少し元気がなさそうに流霊架が答える。
こんなこともあった後だしやっぱり辛いものは辛いもんな、と千流架は思った。
小さな明かりを頼りに二人は庭を見渡す。
どこがいいかと悩んだ結果、かつて鳥を埋葬した場所の隣に穴を掘ることに決めた。
ここならきっと寂しくないと思うという流霊架の意見を採用したのだ。
二人は園芸用に置いてあったスコップをもち、穴を掘ってゆく。
あたりはすっかり夜の帳が降り、星達が静かに二人を見下ろしている。
しばらく掘り進め、人一人は入りそうなくらいの穴になった時、
「これぐらいで大丈夫かな」
千流架が言った。
「うん。大丈夫じゃないかな。あんまり深くしても遠くなっちゃって嫌だな。」
流霊架が俯きながら言う。
二人は再び女性の元に行き、体を持ち上げる。
_トンッ
持ち上げた衝撃で洋服のポケットが千流架の足に当たった。
何か固いものが入っている。そう思った。
「待って。先生の服のポケットに何か入ってるかも。」
今度は千流架が待ったをかける。
「え?なんだろう…」
流霊架も不思議そうに首を傾げるとゆっくり女性の足を下ろした。
そして千流架の隣に並ぶ。
運び出す時は障害物も多く、それどころではなかった為か全く気が付かなかった。
千流架は女性の体を再び下ろすと固いポケットの中に手を入れた。
そこには一冊の手帳が入っていた。
傷は付いてはいるが原形はしっかり残っていた。
「これ、なんだろう。手帳?先生のだよね?」
千流架が血の染み付いた表紙と裏表紙を交互に見ながら不思議そうにしている。
多分、と流霊架が頷く。
「中、見ても平気かな。大丈夫だよね…」
少しそわそわしながら流霊架が言う。
「まあ、ダメだったらその時は二人で怒られようね。」
苦笑いをしながら千流架が言った。
そして千流架は手帳のページを一枚、めくってみる。
血で汚れてしまい、読めなくなっているところが所々ありながらもこれは先生自身の字だ!と確信した。
『二人に教えたいこと』『二人と一緒にやりたいこと』
途切れ途切れだが、そんなことが書いてあることが読み取れた。
文字でぎっしりと埋め尽くされているそのページは、それほど二人のことを想っていたのだという事を証明していた。
二人は嬉しい気持ちと喪失感を抱えながらその手帳を読んだ。
まだ、教え足りないこと、やりきれなかったことたくさんあったのだと思うと心の奥がぎゅっと苦しくなった。
わたしたちも先生ともっと一緒にいたかったよ、と二人は心の中で思った。
泣きたい気持ちをグッと堪えてページをめくる。
と、手が止まった。
_知らなくてもいいことがあるんだよ。
先生が一度だけ言った言葉が蘇る。
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