第3話 日々是好日 20250325
Y、こちらでは昨晩、春雷が鳴りました。
今日は今年に入って初めて朝からエアコンをかけずに過ごしました。貴方が今いるところの過ごしやすさはいかがでしょうか。
必要なこと以外を話そうとすると、その言葉が私に与える影響を考えて黙することが多かっただろう貴方。饒舌になるのはその時に居る場の気温についてだけでした。特に寒いのが苦手だったのでしょう、自分以外の人間も寒さを感じているはずなのになぜここはこんなに寒いんだ、と自然に周りを気遣う言葉で苦痛を表す貴方の思慮深さを思い出しています。こちらはきつい冷え込みの日々は抜けたようです。貴方にも春の日向の温もりが届きますように。
母は四人きょうだいの長女でした。
戦後高度成長期、上野駅が「黄金の卵」(働き口を得るために地方から関東地方に出稼ぎに出てきた若い人のこと)たちで溢れる三月。秋田から上京、苦学して慶應大学に進学を決め、オイオイと陰で呼ばれる商業施設展開をしていた企業に就職、叔母とはお見合いで婚姻し定年時には上層の覚えめでたく嘱託依願を請け当時では珍しく70歳まで勤務していました。
そして仕事を辞めて数年で進行の早いガンが判明し、闘病1年で帰らぬ人となりました。お酒が好きながら一献重ねるとにこやかな大黒顔が朱に染まり、会話を重ねるがとても楽しい叔父のことが私は大好きでした。
人事部に居た頃の話をしましょう。きっとYもさもありなんと苦笑するでしょうから、昭和の時代ではありふれたことでしたね。全盛期は五千人を超える方々が正社員としてお勤めだったその企業で、ご本人に限らず一親等内の葬儀が発生すると土日深夜早朝問わずなるべく自分が通夜または告別式に参列したそうです。そのため、人事部時代の叔父の仕事着のワードローブは喪服と白いワイシャツが会社ロッカーに3着、自宅に3着でローテーションされていたそうです。
勤務地は東京ながら、役職が上の者の忌みごとならば全国どこでも向かい、翌日までには必ず戻っていたと叔母も言っていました。当然ながら私のいとこたちは父親の存在を家庭に感じることはなかったと少し畏怖を交えながら回顧していました。
叔父と叔母はそんな生活が「当たり前」だと感じていたのだと思いますし、それ以外の選択肢を許さぬ猛烈な仕事社会が昭和50年代から平成まで続いていたのです。叔父の早逝は、男女平等を謳われる前から生き方を強いられてきた男性の辛さを最も身近に感じる出来事でした。
だからこそ、彼が墓碑に刻んだ言葉が意外で、サラリーマンとして生き抜いた日々の中で叔父は何を考えていたのだろうと疑問でした。
でも、貴方と知り合ってからその疑問は氷解しました。
「お仕事休みたいなと思ったことはないのですか?」「一度もない。どんな仕事も取り組めば楽しいし、仕事が恋人と思ってきた。逆になぜ休みたいと思うんだ?」
叔父もきっとこの心持ちで日々を過ごしていたのでしょう。傍目から見ると苦行に近いような行動を強いられていると見えたのは誤解だったのだと、貴方の即答を見てスッキリ腑に落ちたのです。企業戦士として潰えた人生ではなく、それが大好きで天職として過ごしましたと石に刻み込むほどの断言を叔父は遺していきました。
貴方もきっとそうだと思うから、精一杯やりたいことに邁進してほしいです。でも、その分私は貴方に会えるまでずっと体調を心配するのです。それが私の役割です。
また書きます。どうか元気で。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。