第1話 辰爺の一日
朝が来た。
辰、七十四歳。婆さんが逝ってひと月が経った。古びた家で、俺はたったひとりの日々を送っている。
陽が昇り、縁側に射し込む光が埃を照らす。俺はのそりと起き上がり、顔を洗う。鏡に映るのは皺だらけの顔。若い頃は近所のガキどもを泣かせた強面だったが、今じゃただの年寄りだ。人付き合いが苦手で、口数も少ない。婆さんがよく「辰は顔が怖いだけで優しいよな」と笑っていたのを思い出す。
台所に立つ。鍋を火にかけ、味噌汁を作る。包丁を握り、葱を刻む。婆さんが生きていた頃、体が弱くてよく寝込んでいたから、俺が料理を覚えた。婆さんは「辰の飯は荒っぽいけど美味いよ」と布団の中から笑っていたものだ。「うるせぇ、食え」と返すのが常だったが、心の中じゃ嬉しかった。
昼飯の支度をしながら、つい二人分の皿を出しかけて手を止める。今さら何だ、と苦笑しながら、皿をそっと棚に戻す。
午後、裏の畑に出る。婆さんが好きだった茄子がまだ育っている。雑草を抜き、土をいじる。汗が額を伝うが、人目がないからそのままにする。婆さんは「辰の手は優しいな」って言ってたっけ。俺は「何だその言い方は」と笑ったが、今でもその言葉が胸に残る。
風呂を沸かし、湯に浸かる。婆さんが「辰は汗臭いな」とからかうから、毎日風呂に入る癖がついた。風呂上がり、縁側で茶をすする。婆さんのいない家は静かだ。四畳半のドアが視界の隅に映る。あの部屋には入らない。
婆さんの遺言だから。
夜が更け、布団に横になる。強面で人付き合いが下手な俺だが、婆さんには優しくできた。それが俺の誇りだった。
明日も、ひとりきりの一日が始まる。
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