第4話『戦わなかった人』

「吉田さんが来た」という囁きが、教育委員会の廊下を伝わった。


誰もが目を伏せ、誰もが沈黙する。だが、吉田美和子はそれを気にしなかった。むしろ慣れていた。


「おはようございます」彼女は淡々と挨拶した。


返事をしたのは、新人職員だけだった。


五年前、彼女は同じ教育委員会で、教員採用試験の不正を内部告発した。特定の候補者の点数が恣意的に操作されていたことを示す証拠を提出し、責任者が更迭された。しかし、その告発は彼女自身を孤立させた。


「正義のために闘った英雄」と呼ぶ者もいた。だが、同僚からは「和を乱す者」として避けられるようになった。


「吉田さん、谷口中学校の件で相談があるのですが」


課長の高橋が声をかけた。数少ない、まだ彼女と普通に話す上司だった。


「はい、どうぞ」


「いじめ問題の調査報告書、実は校長からの圧力で内容を軽くするよう頼まれているんだ」


吉田は眉をひそめた。彼女の机には、谷口中学校のいじめ自殺未遂事件の調査ファイルが山積みになっていた。原因は明らかだった。担任教師による不適切な指導と、学校側の対応の遅れ。


「修正するつもりはありません」彼女はきっぱりと言った。


高橋は難しい顔をした。「やはり、そう言うと思った。覚悟はあるんだね?」


「はい」


覚悟はあった。孤立するのは慣れていた。だが、疲れていた。


---


帰宅すると、息子の健太が宿題をしていた。中学二年生になった彼は、反抗期の真っ只中だった。


「お帰り」素っ気ない返事。


「宿題、何してるの?」


「作文」


「何のテーマ?」


「『尊敬する大人』」健太は冷ややかに言った。「でも、書くことがない」


吉田は息子の言葉に胸が痛んだ。息子は私を尊敬していないのだろうか。


「健太、夕食の準備をするね」


「…部活の友達の家に行く。食べてくるから」


そう言って健太は出ていった。最近、彼は家にいたがらない。母親を避けているようだった。


テーブルの上に、健太の友達からのLINEが表示されたスマホが置き忘れられていた。


「お前の母ちゃん、うちの父親を首にしたんだってな」


吉田は息を呑んだ。その友達の父親は、教員採用の不正に関わっていた人物の一人だった。健太は、そのことで学校でいじめられていたのか。


彼女は一人で夕食を食べた。冷たくなった味噌汁を、彼女は無理に飲み干した。


---


翌日、吉田は谷口中学校を訪れた。いじめ問題の追加調査のためだった。


校内を案内されている時、一人の女子生徒が吉田を見て、明らかに避けるように通路を渡った。


「あの生徒は?」


「佐藤美咲さんです」案内の教頭が答えた。「実は…以前のいじめ事件の被害者です」


吉田は立ち止まった。「そうでしたか」


実は彼女は知っていた。佐藤美咲。いじめ問題の被害者だが、教育委員会の介入によって事態が改善した数少ない成功例の一人。吉田自身が関わったケースだった。


「私のことを避けましたね」


「そうですね…」教頭は言葉を濁した。「生徒たちの間で、吉田さんは『厳しい人』という噂があるようで」


「そう」吉田は淡々と言った。噂の内容を詳しく聞かなかった。彼女にとって、生徒が安全であることだけが重要だった。


校長室での会議は、予想通り険悪な雰囲気だった。


「調査報告書の内容は修正していただきたい」校長は繰り返した。


「修正する理由がありません」吉田は冷静に答えた。「担任の指導に問題があったことは明白です」


「学校の評判が落ちます」


「生徒の命に比べれば、評判の問題ではありません」


会議は平行線のまま終わった。帰り際、吉田は職員室の脇で、先ほどの女子生徒・美咲が立っているのを見かけた。


美咲は、吉田を見るなり逃げるように走り去った。


---


その晩、吉田の家に一通の封筒が届いた。切手も宛名もなかった。手渡しで投函されたのだろう。


封筒の中には、一枚の紙と欠けた万年筆が入っていた。万年筆は古く、キャップは失われ、軸には傷がついていた。


紙には、達筆な字で一言だけ書かれていた。


「ありがとう」


吉田は万年筆を手に取り、その重みを感じた。キャップのない万年筆は、書きかけのままの正義みたいだ、と吉田は思った。どこかで見たことがある気がした。


その夜、ベッドで横になっても、彼女は眠れなかった。あの万年筆はどこで見たのか。そして、誰が送ったのか。


突然、彼女は思い出した。


二十五年前、彼女が中学生だった頃。いじめに遭っていた時、一人の教師が彼女を救った。その教師は、いつもこの万年筆で採点していた。軸の部分が欠けていたから、すぐにわかった。


「鈴木先生…」


吉田は万年筆を握りしめた。鈴木先生は、吉田が不当なことで責められた時、唯一彼女の味方になってくれた人だった。


「沈黙は、時に同罪になる」


そう言って、彼女に勇気を与えた。その万年筆は、先生の象徴だった。


吉田は思い出した。先生は退職後、谷口中学校の非常勤講師になったと聞いた。まさか…


彼女は万年筆を見つめた。そして、紙に書かれた「ありがとう」の文字。これは、あの美咲からのメッセージだったのではないか。鈴木先生を通じて。


---


翌日、吉田は再び谷口中学校を訪れた。校門で、偶然美咲と鉢合わせた。


美咲は再び逃げようとしたが、吉田は静かに声をかけた。


「鈴木先生に会いたいんだけど」


美咲は足を止めた。「鈴木先生を…知ってるんですか?」


「ええ、昔、私も助けてもらったの」


美咲の目が大きく開いた。「先生は…入院しています」


「そう」吉田はうなずいた。「お見舞いに行きたいんだけど、病院を教えてもらえる?」


美咲は少し迷った後、小さな声で答えた。「近くの市立病院です。でも…なぜ私に?」


「あなたからのメッセージを受け取ったから」吉田は静かに言った。「あの万年筆と、『ありがとう』の言葉」


美咲の顔が赤くなった。「どうして…わかったんですか?」


「鈴木先生の万年筆だって、すぐにわかったわ」吉田は微笑んだ。「私も昔、同じものを見ていたから」


「先生が、『この人に渡して』って…」美咲の目に涙が浮かんだ。「私、先生から聞きました。吉田さんが、私のいじめの件で戦ってくれたって」


「戦ったんじゃないの」吉田は首を振った。「ただ、沈黙しなかっただけよ」


---


その日の夜、息子の健太が珍しく吉田に話しかけた。


「明日、卒業式の予行練習があるんだ」


「そう」吉田は驚いた。「卒業式まであと二週間か」


「俺、作文読むことになった」健太は言った。「『尊敬する大人』の」


吉田は息子の顔を見た。彼は目を合わせようとしなかった。


「健太、私のことを…避けていたよね」


「…母さん、周りから嫌われてるの知ってる?」突然、健太は声を荒げた。「『あいつのおふくろは告発魔だ』って言われるんだ!」


吉田は息子の怒りに、ただ黙って耐えた。


「でも」健太は続けた。声が少し震えていた。「でも、俺…知ったんだ。母さんが何をしたのか」


「健太…」


「あの女子、佐藤美咲っていうんだろ?」健太は言った。「俺の友達の妹なんだ。母さんが彼女を救ったって」


吉田は言葉を失った。


「母さんは、戦ったんじゃないんだろ?」健太は吉田を見た。「ただ、沈黙しなかっただけなんだって」


吉田は驚いて息子を見つめた。まさに自分が美咲に言った言葉だった。


「彼女から聞いたの?」


「うん」健太は少し恥ずかしそうに言った。「だから、俺の作文…」


「読んでみてほしいんだ」


彼は一枚の紙を吉田に渡した。


---


卒業式の日、吉田は会場の後ろの席にいた。


「本日の卒業生代表の言葉を、中田健太さんにお願いします」


壇上に立った息子は、吉田とは似ても似つかぬほど凛々しく見えた。


「『尊敬する大人』」健太は力強く読み始めた。「僕は、母のことを書きます」


会場がざわめいた。吉田の背筋が伸びた。


「母は教育委員会で働いています。多くの人から嫌われ、孤立しています。僕も、正直言って恥ずかしいと思っていました」


健太の声は会場に響いた。


「しかし、母は言います。『戦ったんじゃない。ただ、沈黙しなかっただけ』と」


吉田の目に涙が溢れた。


「簡単なことのようですが、それが一番難しいのだと、僕は知りました。沈黙しないことで、誰かの命が救われることがある。僕は、母のように、恥ずかしくない大人になりたい」


会場は静まり返っていた。


「それだけです。ありがとうございました」


健太が頭を下げると、会場から拍手が沸き起こった。誰かが涙を拭う音が、静寂の中に響いた。


吉田は立ち上がることができなかった。涙で前が見えなかった。


---


数日後、吉田の机の上には、欠けた万年筆が置かれていた。


「それ、何?」同僚が珍しく声をかけた。


「私の先生からもらったもの」吉田は答えた。「沈黙しないことの意味を教えてくれた人から」


彼女は新しい調査報告書に取り掛かった。今日も、吉田は戦わない。ただ、沈黙しないだけだ。

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