第3話『声なき守人』

中田は資料を整えながら、今日も名前のない仕事をする。


「中田さん、また孤独死の案件ですが」


課長の言葉に、彼は黙って頷いた。区役所の福祉課に勤務して五年。彼の担当は「遺留品整理係」。後ろ向きの仕事だと揶揄される部署だ。


この街で誰にも看取られずに亡くなった人の部屋を整理し、遺族を探す。遺族がいなければ、財産の処理をする。


「場所はマンション志村、402号室。亡くなったのは佐伯一郎さん、78歳。元自衛官だそうです」


「了解しました」


中田は手帳を開き、予定を記した。彼の仕事は記録に始まり、記録に終わる。


---


マンション志村の402号室は、驚くほど整然としていた。


一人暮らしの高齢者の部屋にしては、異例だった。書類は整理され、生活用品も過不足なく並んでいる。何より、埃が少ない。


「佐伯さんて、几帳面な方だったんですね」


警察官が言った。彼も中田と同じく、こうした現場には慣れている。


「身寄りはいないんですか?」


「戸籍上は独身。親族の情報もありません」


「そうですか」中田は淡々と言った。「調査してみます」


警察官が去った後、中田は部屋の調査を始めた。


まず目に入ったのは、壁に掛けられた古いカレンダー。今年のものではなく、1988年のカレンダーだった。7月に赤い丸がついている。中田は手帳を開き、メモを取った。


「1988年7月に何かあったのか」


部屋の隅には、小さな仏壇があった。中を覗くと、位牌はなく、ただ一枚の写真が置かれていた。若い自衛官の姿。おそらく若かりし頃の佐伯だろう。その横には、古い軍用水筒が置かれていた。


水筒には「1988・7」と刻まれていた。中田は水筒を手に取り、じっと見つめた。1988年7月。自分の誕生月だ。


テーブルの引き出しから、一通の手紙が見つかった。宛名は「佐伯一郎様」。差出人は「石川良子」。封を切ると、そこには達筆な文字で次のように書かれていた。


「佐伯様、あの日のことを、私は決して忘れません。息子は無事に成長し、今年27歳になります。あなたのおかげです。」


手紙の日付は2015年。既に9年前のものだった。


中田は眉をひそめた。この手紙が意味するものは何か。


---


区役所に戻った中田は、古い記録を探し始めた。


「1988年7月」


彼は自分の生年月を検索していた。やがて、一件の記録が見つかった。


「土砂災害対応記録」


当時の新聞記事によれば、1988年7月14日、この区内で小規模な土砂崩れが発生。一軒の民家が被害を受けたが、駐屯地からの緊急派遣隊によって、閉じ込められた母子が救出された。


写真には、幼い子供を抱えた女性を支える自衛官の姿が写っていた。


「この自衛官が...佐伯さんなのか?」


中田は資料をさらに調べた。救出された母子の名前は「石川良子・石川和也」。そして和也の生年月日は、1988年7月14日だった。


土砂崩れの当日に生まれた子供。


「石川和也...」


中田は自分の名前を見つめた。中田和也。


彼は母を呼んだ。


「お母さん、僕が生まれた日、何かあったの?」


電話の向こうで、母は少し間を置いてから答えた。


「あの日は...雨がひどくてね。家が崩れそうになって」


「土砂崩れだったの?」


「そうよ。あなたはその日に生まれたの。病院に行けなくて、家で産むしかなかった。でも...」


「自衛隊の人が助けてくれたの?」


「よく知ってるわね」母の声が震えた。「そう、一人の自衛官が。もし彼がいなかったら、私たちは...」


中田の胸が締め付けられた。


「お母さん、その人の名前は?」


「佐伯さん...だったわ」


電話の向こうで、母はしばらく黙っていた。何かを思い出し、何かをこらえている気がした。


「和也、その人のことを知ったの?」


「ええ、今、調査中です」中田は公務員らしく答えた。


「会えるの?」


「もう、亡くなっています」


母の深いため息が聞こえた。「そう...一度でもお礼が言いたかったのに」


---


翌日、中田は再び佐伯の部屋を訪れた。今度は違う目で見る。この部屋は、自分の命の恩人の住まいだった。


仏壇の水筒を手に取り、底を見ると、そこにも「1988・7・14」と刻まれていた。


自分の誕生日。


中田はその日、佐伯の遺品整理に一日中かかった。一つ一つの品を丁寧に扱い、記録していく。夕方になり、最後の棚を整理していると、一冊のアルバムが見つかった。


開くと、そこには様々な新聞の切り抜きが貼られていた。地域の小さな出来事、救助活動の記録、表彰式の写真。そして最後のページには、一枚の卒業証書のコピーがあった。


「石川和也」の名前。


中田は愕然とした。佐伯は母の旧姓のままの自分を、ずっと見守っていたのだ。大学卒業まで。しかし、一度も姿を現すことなく。


アルバムの最後には、一枚のメモが挟まれていた。


「君の名前を聞いたとき、私は思った。あの日の雨の中で生まれた赤ん坊が、こうして生きている。それだけで、私の人生には意味があった」


中田の目から涙がこぼれた。


---


佐伯の葬儀は区役所が執り行った。参列者は中田を含め、わずか五人だった。


火葬場で、骨壺を前にした時、中田は初めて口を開いた。


「佐伯一郎様。私は石川和也...今は中田和也と申します」


彼の声は震えていた。


「あなたが私と母を救ってくれたこと、今日初めて知りました。一度もお会いしたことはありませんでしたが、あなたは私の人生の守り人でした」


中田は深く頭を下げ、初めて心から言った。


「ありがとうございました」


そして彼は初めて、公務員として人前で敬礼した。


---


三ヶ月後、中田の机の上には、古い軍用水筒が置かれていた。区長からは「私物を持ち込まないように」と注意されたが、彼は動かさなかった。


水筒の底に刻まれた「1988・7・14」という数字。それは彼の誕生日であり、命を救われた日だった。


「中田さん、また孤独死の案件です」


同僚の言葉に、中田は静かに頷いた。


「了解しました」


彼は記録ノートにそっと書いた。「佐伯一郎──遺族不在。ただし、感謝を受け取った者は一名。」


彼の仕事は、今日も続く。名前のない仕事。でも今は、その意味を知っていた。


誰かの人生の最後に立ち会い、その痕跡を丁寧に扱う。それは、声なき守り人の仕事だった。

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