第5話『誓い』
倉本は、デスクに並べられた四つの小さな物を眺めていた。
真鍮製のブローチ。青いライン入りの釘。古い軍用水筒。欠けた万年筆。
「これらが、つながっているんですか?」
若い記者の南が、不思議そうに尋ねた。
「そうだよ」倉本は微笑んだ。「目に見えない糸で」
「でも、全然違う人たちの話ですよね?」
「見かけは違うけどね」
デスクには、完成した原稿の束が置かれていた。表紙には『目に見えないもの』と書かれていた。
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三ヶ月前、地方紙「朝日丘タイムズ」の編集長から、倉本は特別企画を任された。
「社会の中の『支え合い』をテーマにしてくれ」
編集長の飯田は、老眼鏡の奥から倉本を見つめた。
「具体的には?」
「自由だ。君の感性で選んでくれ」
倉本は四十五歳。ローカル紙の記者として二十年。大きな賞を取ったこともなければ、全国区で名が知られることもなかった。ただ、地道に地域の小さな物語を拾い続けてきた。
「締め切りは三ヶ月後だ」
「わかりました」
取材対象に迷った倉本は、古い知人を頼った。西村という警察官だ。
「人を支える話?」西村は考え込んだ。「先月、面白い葬儀があったよ。区役所の職員が、亡くなった元自衛官に敬礼したんだ」
それが、中田和也との出会いだった。
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「私は特別なことをしたわけじゃありません」
中田は淡々と語った。
「あなたは自分の命の恩人を見つけたんですよね?」
「はい。佐伯さんという方です」
中田は古い軍用水筒を取り出した。底には「1988・7・14」と刻まれていた。
「この水筒が、私と佐伯さんをつないだんです」
中田の話から、倉本は佐伯の足取りを追った。マンション志村の管理人は言った。
「佐伯さんですか? 確か亡くなる前、よく病院に見舞いに来ていた女性がいましたよ。吉田さんという方だったかな」
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吉田美和子を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。教育委員会の彼女は、最初は取材を断った。
「私の話なんて、記事にするほどのことじゃありません」
「佐伯さんのことを教えてください」
その言葉に、吉田は顔を上げた。
「佐伯さん? 直接の面識はありませんが…」
吉田は欠けた万年筆を取り出した。
「私が知っているのは、佐伯さんが鈴木先生を見舞っていたということだけです。鈴木先生から、この万年筆をいただきました」
倉本は次に鈴木を訪ねた。八十歳を超える元教師は、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「佐伯さんですか? ええ、知っています。実は彼は私の昔の生徒の一人なんです」
鈴木は古いアルバムを開いた。そこには若い佐伯の写真があった。
「佐伯君は、娘を亡くしてから変わりました。誰かの役に立ちたいと、ボランティア活動を始めたんです」
「娘さんを?」
「そう、自ら命を絶ってしまったと聞きました。彼は自分を責め続けていた。だからこそ、他の人の命を救いたかったのでしょう」
「その娘さんの名前は?」
「確か…咲良さんだったと思います」
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「佐伯咲良」
その名前で検索すると、十年前の小さな新聞記事がヒットした。自殺した女子大生の記事だった。
記事によれば、咲良さんは中学時代、いじめに悩んでいた。彼女を救おうとした教師がいたが、学校側の対応は遅れた。それを受けて教員採用の不正問題に取り組んだのが、当時駆け出しの行政職員だった吉田美和子だった。
点と点がつながり始めた。
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佐伯の足取りを追う中で、倉本は一人の少女の名前にたどり着いた。佐伯が最期に救った少女、美空だ。
彼女は今、高校生になっていた。
「佐伯さんですか? はい、私の命を救ってくれた人です」
美空は校門の前で、静かに語った。
「この真鍮のブローチをくれたんです。彼の娘さんのものだったと思います」
彼女は花の形をしたブローチを見せた。
「佐伯さんが教えてくれたんです。『死にたくなるほど辛いのは、誇りがある証拠だ』って」
美空の話を聞きながら、倉本は自分の中の古い記憶が呼び覚まされるのを感じた。
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佐伯の家族を探す中で、倉本は佐伯の元妻、真理子さんを見つけた。
「離婚して二十年になります」彼女は言った。「でも、咲良が亡くなった時は、一緒に葬儀に出ました」
「咲良さんの友人はいませんでしたか?」
「そういえば…」真理子さんは思い出したように言った。「翔太くんという男の子がいましたね。今はどうしているかしら」
それが、第二の話の主人公、中田翔太との出会いだった。
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「佐伯さんのことを?」
建築会社で働き始めた翔太は、驚いた顔で倉本を見た。
「咲良とは中学の同級生でした。父が過労死してから、彼女の父親である佐伯さんが僕をよく気にかけてくれたんです」
翔太はポケットから、青いライン入りの釘を取り出した。
「これは父の形見です。でも不思議なことに、佐伯さんの作業靴にも同じ釘が打ち込まれていたんです」
「同じ現場で働いていたのかもしれませんね」
「そうなんです。父と佐伯さんは、若い頃に同じ建設会社で働いていたらしいんです。お互いを尊敬し合う同僚だったと」
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一つ一つの点が線になり、線が面になっていった。
佐伯一郎は、自分の厳しさが原因で娘の咲良を自殺に追い込んだと考えていた。その後悔から、他の命を救おうと決意した。
彼は元同僚の息子・翔太を見守り、吉田の恩師・鈴木を支え、そして最後に美空を救った。
それぞれの人生は、佐伯という一人の男を通じて、間接的につながっていた。
倉本は気づいた。これは単なる「支え合い」の物語ではない。目に見えない選択の連鎖が、誰かの未来を照らしている物語だった。
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「完成したよ」
倉本は南に原稿を渡した。
「読ませてもらいます」南は言った。「でも、なぜこのテーマにしたんですか?」
倉本は黙って、デスクの引き出しを開けた。そこには古い新聞の切り抜きがあった。
「十五年前、俺はどん底にいた」倉本は言った。「記者として、人間として、何の自信もなかった」
切り抜きには、無名の記者が書いた小さな記事が載っていた。「誰かの選択が、誰かの明日になることがある」という言葉で締めくくられていた。
「この記事を読んで、俺は救われた。だから記者を続けることを選んだ」
「誰が書いた記事なんですか?」
「署名がなかったんだ。でも今、わかった気がする」
倉本は四つの小物を見つめた。
「佐伯一郎という名は知らなかったけど、彼の選択が、間接的に俺の人生を支えていたんだ」
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特集記事『目に見えないもの』は、小さな地方紙に掲載された。大きな反響があったわけではない。しかし、倉本のもとに一通の手紙が届いた。
「私は、あなたの記事に救われました。生きています。」
差出人の名は「美空」。同封されていたのは、あの真鍮のブローチだった。
倉本は手紙を胸に抱き、窓の外を見た。
誰かの選択が、誰かの明日になる。
その連鎖は、これからも続いていく。
彼は、そのことを記録し続けることを誓った。
視界が白い紙の上に落ちる。パソコンの画面には、新しい記事の冒頭が表示されていた。
「目に見えない選択が、人を支え、未来を照らす」
倉本は打ち込み続けた。それが彼の選択だった。
選択の灯火 セクストゥス・クサリウス・フェリクス @creliadragon
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