第2話『青のライン』

翔太は自分のスニーカーを玄関に並べた。真っ白で軽い。昨日、バイト代で買ったばかりだ。


その隣には、父の安全靴が置かれていた。


一年前、過労死した父の形見。茶色く変色した革、つま先には塗装の跡。青いラインの入った釘の跡がソールに残っている。不自然なほど重い靴だった。


「翔ちゃん、朝ごはんできたわよ」


母の声に、翔太は安全靴から目を離した。


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「実家に戻ってくるのが久しぶりだね」


大学の友人・健太からのLINEに、翔太は「単位不足で帰省してる」と返した。本当は違う。今日は父の一周忌だった。


午前中、墓参りを済ませた後、翔太は父の作業場に立っていた。建築会社に勤めていた父は、自宅の物置を小さな作業場にしていた。


「お母さん、ここ片付けなかったの?」


「お父さんのものだから...触れなくて」母は寂しそうに笑った。


埃をかぶった工具箱、資材、作業台。すべてが父の死んだ日のままだった。


翔太は父の作業着に目をやった。吊るされたままの青いつなぎ。高校生の頃、翔太はこの作業着を見るたびに「かっこ悪い」と思っていた。友達の父親は、スーツでオフィスに通っていた。それが「普通」だと思っていた。


「俺、ちょっとここ整理するよ」


母は驚いたように翔太を見つめた。「いいの?」


「うん」翔太は答えた。本当は整理するつもりはなかった。ただ、一人になりたかっただけだ。


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作業場の片隅に、父の仕事道具が並んでいた。ハンマー、ドライバー、レンチ。これらを使って父は何を作っていたのだろう。考えたこともなかった。


工具箱の中を整理していると、一冊の手帳が出てきた。開くと、そこには翔太の名前と日付が書かれていた。


「翔太、身長170cm」「翔太、英語テスト92点」「翔太、大学進学希望」


次のページには、見覚えのない電話番号と共に「翔太の推薦入試、相談」と書かれていた。


翔太の胸が痛んだ。父は翔太の学校生活を、こんなにも細かく記録していたのか。「うるさい」「古い」と言って、父との会話を避けていた自分が恥ずかしくなった。


手帳をめくると、建築現場の写真が挟まっていた。翔太が幼い頃に訪れた現場だった。父に連れられ、初めて建設中のビルに入った日。


「僕も将来、パパみたいな仕事がしたい」


そう言った自分を、翔太は思い出した。だが中学に上がったころ、その言葉を思い出すたびに、無理に笑ってごまかしていた。いつからだろう、父の仕事を軽蔑するようになったのは。


作業台の下から、父の安全靴の箱が出てきた。中には使い古された安全靴が三足。翔太は一足を手に取り、重さに驚いた。


「こんなに重いのか...」


毎日これを履いて、父は働いていたのだ。重い工具を持ち、現場を走り回り、家族のために稼いでいた。その重さを、翔太は初めて実感した。


安全靴の底を見ると、青いラインの入った釘の跡があった。釘抜きを使って、一本の釘を取り出してみた。青いペンキのラインが入った古い釘。これが、父の靴底に残っていた痕だった。


「翔ちゃん、ちょっといい?」


扉の向こうから、母の声がした。


「何?」


「見つけたものがあるの」


母が差し出したのは、古い録音機だった。


「お父さんの声、聞きたくない?」


翔太は黙って頷いた。


---


録音が始まった。最初は雑音だけだったが、やがて幼い声が聞こえてきた。


「パパ、仕事見せて!」


五歳くらいの自分の声だった。


「危ないから、ここから見ててね」父の声。


「パパの靴、重いね!」


「安全靴だからね。これがないと危ないんだ」


「パパ、かっこいいね!」幼い翔太の声。


父の声が小さくなった。「ありがとう...」


緊張した声。嬉しさを隠せない声。


録音はそこで終わった。翔太の目から、涙がこぼれ落ちた。


「お父さんはね」母が言った。「この録音を何度も聞いていたの。特に最近は...」


父が死んだのは、過労による心筋梗塞だった。長時間労働、睡眠不足、ストレス。それでも父は休まなかった。


なぜ?


答えは、翔太の前にあった。手帳に記された子供の夢、重い安全靴、青いラインの釘。すべては、家族のためだった。


「お母さん」翔太は震える声で言った。「俺、何もわかってなかった」


母は黙って翔太の頭を撫でた。まるで小さな子供のように。


---


その日の夕方、翔太は父の安全靴を手に取り、玄関に置いた。そして自分の真っ白なスニーカーをその隣に並べた。


あまりにも違う二つの靴。


「今度から、俺が重いもの持つよ」


翔太は母に言った。母の目に涙が浮かんだ。何も言わずにうなずいたその顔が、ありがとう、の何倍も温かかった。


その夜、翔太は父の青いラインの釘をポケットに入れた。重さを忘れないために。


スマホを開き、大学の友人・健太にメッセージを送った。


「実家の片付け手伝ってた。父さんのこと、少しわかった気がする」


返信はすぐに来た。「何かあった?」


翔太は考えた。どう説明すればいいのか。


「重さを知った」と、彼は打ち込んだ。

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