1.外出
冷蔵庫を開けると、すっかり食材を切らしてしまっていたことに気づいた。
うかつだった。
昨日のうちに気づいていても良かったはずなのに……。
中間テストが忙しかったから仕方がないと言えば、仕方がないのだろうが、何年も家事をやっている人間にしては大きな失態だ。
この時間から買い出しに行くのはきつい。食材を買ったら何か作らなければならないし、そうすると食事の時間がかなり遅くなってしまう。
明日も学校があるし、今夜の分はコンビニで買って済まよう、と思った。
家を出て夜道をしばらく歩く。
夏なのにやけに風が冷たい。
珍しい気候だと思ったが、偶にはこういう日もあるだろう。
コンビニ入ると、店内を一周回り、何にするか考えた。けれど、結局カップラーメンにすることに決める。これが一番安い。
育ち盛りの人間には物足りないが、俺の中で空腹感なんてものは割合優先順位の低い事柄だ。
太宰治がこんな言葉を残している。
「自分はは、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には『空腹』という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです」
クラス委員長の蓼丸琉花の受け売りだ。
俺と彼女は仲が良い。
俺の雑学は大抵彼女から得たものだ。
俺の場合、太宰とは違って空腹という感覚を知っているが、知った上でそれを軽視している。
飢え死にさえしなければ最悪それでいい。
一つだけカゴに入れて、やっぱりもう一つカゴに入れた。
食べるかどうかはわからないが、クソ親父の分を買っておかないと、最悪あとで殴られるから。
不要な痛みは負いたくない。
父親は昔はああじゃなかった。平日は朝から真面目に仕事に出て、休日は家族サービスをしてくれる。むしろ良い父親だった。それが母親がいなくなってからは、常に酒浸りでキャバクラ通いを繰り返すような駄目人間に変わり果てた。
まあそれも、俺のせいと言えば俺のせいなのかもしれないが。
カゴをレジに持っていくと、顔馴染みのおばちゃんがいた。
真っ白な髪の毛を後ろで一本に縛っている。私の父親より一回りほど年上だろうか。
おばちゃんはカゴの中身を見ると、一つため息をついた。
「中学生がこんな栄養のないものばかり食べてちゃ、よくないよ」
とてもコンビニ店員が客にかけるような言葉じゃないが、それが心配と労りからくるものだとはわかっている。
「いつもこればかり食べてるわけじゃありませんよ。今日は偶々です」
「はあ、おまけしておいてあげるから、きちんと食べるんだよ」
おばちゃんは言って、レジの下からおにぎりを二つ取り出す。
具は鮭と明太子だった。
「いいんですか?」
「いいんだよ。賞味期限の商品なんだから。どうせ店員が何個が持ち帰るか、余ったら捨てるしかないんだから」
どうやら賞味期限が切れていたらしい。
死角で見えないが、恐らくレジの下にカゴが何かが置いてあって、そこに賞味期限切れの商品がまとめて入れられているのだ。
賞味期限が切れていたところで、無料で貰えるのはありがたい。
遠慮なく、貰っていくことにした。
おばちゃんに礼を言って、カップラーメンの代金を払う。
出口のところで、自分の分のカップラーメンのお湯を貰った。近くの公園で食べていくつもりだった。
公園に入ると、中には誰もいなかった。
夏とはいえ、すでに遅い時間帯だ。空もすっかり暗くなっている。
ベンチに腰掛けると、横のスペースにビニールに入った残りの商品を置く。
食べるまでに三分待つ必要があるが、時間は計っていない。体内時計で適当に三分計ってから蓋を開けた。
割り箸で軽く中をかき混ぜた。
麺を啜りながら、空を見上げた。
一瞬、手が止まる。
今日の月はやけに大きく、そして赤色だった。
そういえば、これも蓼丸委員長が何かしら言っていた気がする。確か、スーパーブラッドムーンと言って、何年かに一度しか見られない、珍しい月らしい。詳しい原理も説明していたような気もするが、そちらは真剣に聞いていなかった。
「異質な光景だな」
ふいに化物でも出てきそうな予感がする。
そんな空の様子だった。
しばらく黄昏る。
自分の人生を振り返ったりしながら。
正直言って、俺の人生はあまり良くはない。ある時期から明らかに下降傾向を迎えた。
兄が重犯罪を起こしてから、加害者家族ということで父が職を追われたり、俺もいじめられて引っ越しをするはめになったり、母が心労によって体調を崩したり、と。
だが、考えてみれば俺の体内にもあの兄と同じ血が流れている。
本質では、俺もあいつと同じで、誰かを傷つけ、不幸に陥れるしか出来ない人間だ。積極的に他人を加害したことはないが、身に覚えはある。
これは俺の業であり、俺自身から一生切り離すことのできないものだ。
「色々と疲れたよな」
俺はカップ麺に意識を戻すと、食事を再開した。
カップ麺を食したあとにおにぎり二つも平らげた。
公園内にあるゴミ箱にゴミを捨てていく。
公園から出て、家に向かって歩いているところで、一台のバイクとすれ違った。
あまり見かけることない、クラシカルなバイクだった。
シルバーの気筒が一本だけで、それが後輪まで伸びていた。
なんという車種なのだろう? きっと教えてもらっても、わからないだろうが。
バイクには女性が一人乗っており、走行しながら、端末を耳に当て、誰かと会話しているようだった。
「α28が――まるマート側から攻めるから、あなたは先に――」
立ち止まって聞き耳を立ててみるも、よく聞こえなかった。
何か焦っているようだったが、こんな時間帯にそこまで焦って、向かうべき場所があるのだろうか。
少し気になったが、自分には関係ないことだと思い直す。
頭を切り替えると、家までの帰り道を再び歩き出す。
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