第2話 チョコはないって、言ったでしょ
学業に不要なものを持ってくるなというのもわかるけれど。
「なんでもダメダメ言われると寂しいね。俺が学生の頃は下駄箱とかロッカーに山のように入ってたけどなぁ。女子にはお返しは三倍返しって言われたりね」
「すごい! 良太くん、モテたんだ!」
「いや、俺じゃなくてクラスメイトの話だけどね……」
義理でしかもらったことないよと、良太はこれまたいつもの笑顔を見せた。尊敬の眼差しを送っていた少年はなぁんだと後ろの壁にもたれる。こっそり息をついた杏は「そんなことだろうと思った」と目を半眼にした。
「ねぇねぇ」
郁の手が杏の服の裾を引っ張った。見上げてくるその双眸は再びキラキラ輝いていた。
「杏ちゃんはチョコあげたことある?」
今度は
「でも今日はあげるでしょ? もうあげた?」
「はぁ? なに言って……」
「バレンタインって、すきな人にすきですって言う日なんだよね。杏ちゃんと良太くんは両思いだけど、両思いの人もチョコあげるってテレビで言ってたもん。ぼく外に出てようか」
「なっ……大人をからかうんじゃないの!」
裾を掴んでいた小さな手を外し、その額を軽く叩いた。そうして何気なく視線を横にずらした杏は息を止めた。
良太が、甥っ子以上に目を輝かせている。周りに小花と音符を振りまき、一緒に〝ワクワク〟という文字まで見える気がする。実際、彼の表情にも透けているのがよくわかるし、これは、明らかに、期待されている……。
「……ちょ、チョコは、ないからね」
「えっ義理チョコもなし? ねぇ杏さん」
前傾姿勢で迫る青年に杏の身体が引けた。がたんと揺れた拍子に卓上の紙袋が倒れ中身がこぼれる。先ほど見たパステルピンクの巾着包みのカードが目に飛びこんできた。幼い文字で書かれた、まっすぐな想いが。
その瞬間かぁっと頬が熱を帯びた。
「な、ないったらない! お菓子業界の陰謀には乗らない主義なの。馬鹿馬鹿しい。貰った方だってお返しだのなんだの面倒でしょ!? それなら始めから何もしないのが一番」
勢いよくまくし立てた杏に始めこそ驚いていた良太は、そのうちに「杏さんらしいね」と微苦笑を浮かべた。ふにゃりと笑み崩れた表情はいつも通りといえばそれまでだ。けれど――。
杏はすっと立ち上がると台所の椅子にかけてあった二人分のコートとマフラーを手にした。
「郁、支度して。帰るよ」
「えっもう!?」
「宿題いっぱい出てるでしょ。お母さんももう検診終わって帰ってきてるはずだし、郁も早く帰らなきゃ。それじゃ良太またね。郁の面倒見てくれてありがと」
部屋の主の返事は聞かない。藍色のランドセルと自分のトートバッグを抱え、杏はさっさと部屋を後にした。
* *
アパートを出て数歩も歩けば顔の火照りは落ち着いた。ぱたぱた追いかけてきた少年を待って、その背にランドセルを返してやる。
「杏ちゃんあのね。良太くんがね、またおいでって言ってたよ。それから今度のお休みあいてたらね、よかったらスケートに行かないかって、杏ちゃんに聞いといてって」
「予定はないけど……あいつスケートできるの?」
郁のマフラーをしっかり巻き直しながら杏はぼやく。刺々しい文句を吐くのはもはや
「……杏ちゃん、おこってる?」
「なんで?」
「あの、ぼくよけいなこと言ったのかなと思って。良太くんもちょっと元気ない感じしたから……。あの……ケンカじゃないよね……?」
む、と唇を引き結んで聞いていた杏は、そうっと見上げてくる少年の頭をポンポンとなでた。「郁が心配することじゃないよ」と告げ、肩にかけたトートバッグをしっかり抱えこむ。
――怒っているわけじゃない。
飛び出すように出てきたのは玄関が狭いからだ。あとが
彼の期待に満ち満ちた目を見てしまったら急に逃げたくなったのは本当だけれど。
年が明け、正月気分が抜けたと思えば街は一気に赤一色のムードになる。『今年のバレンタインは平日だから前準備が重要』などという文句に釣られて杏は軽い気持ちで特設コーナーに足を運んだ。
初めて入ったキラキラした世界、まわりでウキウキと品定めする女の子たち。すぐに自分が場違いな存在であることを痛感し杏は店の端で溜息をついていた。期待しているであろう良太には悪いが、〝いかにも〟なチョコレートを買うことはどうしてもできそうになかった。気恥ずかしすぎる。
消沈し、退散しようとしたところで杏の目は周りの陳列物を捉えた。並んでいたのは様々な製菓材料にカラフルなラッピング用品。チョコレートじゃなくてもこれならば――そのときはそう思った。
だけど今となってはどうしてチョコレートを買わなかったのだろうと思う。
甥っ子の言った通り、バレンタインはチョコレートをあげるイベントなのだ。だから求められるのも当然チョコレート。
ちっぽけなプライドなど無視してよかったのに。
冷たい風の吹く中をふたりして歩く。雲間から射す黄金色が甥っ子の髪を照らした。その後頭部、控えめにキラリと光を弾いた箇所に杏の目が留まった。
「……郁、待って。少し下向いて」
「え?」
振り返った少年をすかさず俯かせて異物を摘まむ。ついていたのは極極小さな金色の何か。大きさは砂粒ほどだが砂ではない。折り紙のようでもあるけれどハサミを使ったところでここまで小さく切れるものだろうか。何だかわからないそれが郁の後頭部いっぱいについている。
一体どこでと思い返した瞬間、合点がいった。杏の脳裏に映し出されたのは今しがた後にしてきた部屋での様子だ。コタツの上で腕を組んでいた良太に対し、郁は両手でマグを持って壁にもたれていた。あれが、綿壁だった。手触りが柔らかそうでキラキラしている、昔の和室特有の壁。良太の部屋の綿壁はすっかり古びて表面がぽろぽろ剥がれるのだ。
「あんた、部屋の壁に頭こすりつけたでしょ。もう、良太もいつまであそこにいるつもりなんだろ。せめてもう少し新しいところに移ればいいのに……」
「……ねえ杏ちゃん! これなに?」
突然あがった驚きの声に、髪を払っていた手が止まった。少年は続け様に「わかった、良太くんにだ! そうでしょ!?」と叫ぶ。その視線は杏の肩からずり落ちたトートバッグに注がれていた。大きく開いた口から中身が見えている。中身が――。
はっと押さえようとしたときには既に小さな手がそれを掴んでいた。
「良太くん開けて! ちょっと出てきて!」
風のように取って返した郁が陽当たりの悪い玄関ドアを激しく叩く。ようやく追いついた杏が少年の肩を捕まえたのと、中から青年が姿を現したのは同時のことだった。
「郁くんに……杏さん? どうしたの、忘れ物?」
「そうなの忘れ物! はい、杏ちゃんからだよ!」
「あっ待っ……」
杏の伸ばした手も虚しく、それ――暗赤色の紙袋は郁から良太の手に渡った。小首を傾げつつも受け取った紙袋の中を覗きこんだ良太は大きく目を見張った。入っていたのは透明の袋に入れられた焼き菓子。ワイヤータイできゅっと縛られた口に唯一飾りらしい飾りがついている。赤い小さなハート型のタグが。
「これって……」
「ぼく知ってるよ! パウンドケーキ!」
「……杏さん、あの」
無邪気ににこにこ楽しそうな顔と、驚き半分期待半分の顔が杏を振り返る。長い前髪の奥で双眸がキラキラと輝き出している。青年の周りに今にも小花が咲き乱れそう。
厚みの薄くなったトートバッグを抱き締め、杏は顔を背けた。
「――だからその、忘れ物。……チョコはないって、言ったでしょ」
「杏さん!」
視界の横から何か伸びてきた。それが何かを考える間も無く引き寄せられ、気づいたときには捕らえられていた。
背に回された両腕と、細い髪がさらさらと頬を撫でる感触で我に返った杏は思わず悲鳴をあげた。
「ちょっと! 離して! 郁もいるんだから」
「じゃあ郁くんもおいで」
杏を捕まえたまま良太が腕を広げる。弾ける笑顔で胸に飛びこんできた少年ごとふたりを抱き締め、良太は「ねぇ」と顔を上げた。
「せっかくだしみんなで食べようよ。お茶淹れ直すよ」
「でも郁は宿題が……」
「ここでしていけばいいよ。俺も見てあげられるし」
「それがいい! ねっいいでしょ杏ちゃん?」
制止の声が掛かる前にわぁいと郁が部屋に飛びこんだ。こういうときは早い者勝ちだということを彼はよく知っている。
めまぐるしい展開についていけない。言葉に詰まり身動きが取れないでいる杏を良太が再び抱き締めた。
「本当にありがとう。お返しは三倍返しだよね」
「……知らないったら! もう、いつまでくっついてるの! 離して」
「うん、もうちょっと」
耳元で聞こえる良太のくすくす笑う声に何も考えられなくなる。郁が戻ってくるかもしれないし見られるかもしれない。そもそも誰が通りかかるかもわからないのに早く離れてくれないとすごく困るのだ。いくら外階段のおかげで死角になるとしたってそれとこれとは話が別。良太が動いてくれない限り自分からは動けないのだもの。困る、困る……。
「杏さん。大好きだよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます