第4話 小麦色の記憶

駅前の小さなパブに、一人の青年がぽつんと座っていた。高橋祐介、二十歳。家を飛び出して数日が経つが、行くあてもないまま、ただ彷徨っていた。パブの照明がアンバー色に揺れ、カウンターに並ぶグラスが優しく光を受けている。


「飲むか?」


ふと声をかけられて顔を上げると、陽気そうな白髪の外国人がにっこり笑っていた。厚手のジャケットを着込み、鼻の頭を赤くしている。


「今日は寒いだろう?ヴァイツェンがいい。温かくなるぞ」


気づけば、カウンターにはフルーティーな香りが漂っていた。グラスに注がれた琥珀色のビールは、きめ細かな泡をまとい、柔らかな甘みを感じさせる。


「お前、日本人か?」


「はい…」


「俺はハンス。ドイツから来たんだ。ヴァイツェンはな、小麦を使ってるから普通のビールよりも柔らかい。香りがいいだろう?」


祐介は恐る恐るグラスを手に取り、口元に運ぶ。鼻腔をくすぐるバナナのような甘い香り。口に含むと、優しい酸味と麦のふくよかさが広がり、思わず目を閉じた。


「美味しい…」


「そうだろう?これはな、家族で乾杯する時に飲むんだ。俺の故郷でも、家族みんなで集まるときはヴァイツェンさ。優しい味だから、喧嘩してても自然と笑顔になるんだ」


祐介の胸に、鋭い棘が刺さったような痛みが走った。最後に父と飲んだのは、確か地元の居酒屋だった。ビール片手に、酔った父が説教を始めて、つい怒鳴ってしまった。


『お前なんかのために働いてるわけじゃねえ!』


父の言葉が耳に蘇る。その場で家を飛び出し、気づけば数日が過ぎていた。ハンスはそんな祐介の顔色を見て、少しだけ表情を和らげた。


「家族と喧嘩でもしたか?」


「…ええ。くだらないことで。でも、謝れなくて」


ハンスはグラスを掲げて笑った。


「男はな、時々そういうもんだ。でも、ヴァイツェンみたいに柔らかくなれる時が来るさ。家族だろう?素直になれば、きっと分かり合える」


祐介は無言で頷き、もう一口ヴァイツェンを飲んだ。優しさが喉を滑り、胸の奥の固まりが少し溶けた気がした。


「父さんも…ビールが好きで、特にヴァイツェンが好物で。昔からよく一緒に飲んでました。あの時も、俺がもっと素直だったら…」


「謝るのが遅すぎるなんてことはない。ヴァイツェンはいつでも優しく迎えてくれる。帰って、もう一度飲めばいいさ」


その言葉が心に響き、祐介は決意を固めた。父が好きだったヴァイツェンを手土産に、家に帰ろう。パブを出る頃には、冷たい風も少しだけ温かく感じられた。


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