第3話 黒ビールに沈んだ夜
パブの片隅に座り、荒木直人は黙ってグラスを見つめていた。黒く輝く液体は、まるで夜そのもののように深い。泡はクリーミーで、きめ細かく、ゆっくりと沈んでいく。心に渦巻く虚しさと同じだ、とふと感じた。
直人は、さっきまで一緒にいた恋人が去っていったことを思い出していた。些細な口論がきっかけで、積もり積もった不満が一気に爆発したのだ。最後に放たれた彼女の言葉が、今も胸を抉っている。
「もう疲れたの」
その瞬間、重くのしかかった現実が心を押しつぶしそうになった。どうしてこうなったのか。自分の何がいけなかったのか。答えが出ないまま、直人はスタウトを一口飲み込んだ。
深く、苦く、まるで焦がしたコーヒーのような香ばしさが口に広がる。だがその後には、ほのかな甘みとクリーミーな口当たりが追いかけてきて、喉を心地よく包み込んだ。思わずため息をつくと、隣から陽気な声が聞こえた。
「スタウト、好きか?」
振り向くと、赤ら顔の外国人が笑っていた。栗色の髪に青い瞳、がっしりとした体格が印象的だ。直人が頷くと、彼はグラスを掲げて乾杯の仕草をした。
「俺はショーン。アイルランドから来たんだ。日本のパブでこのビールが飲めるとは思わなかったよ」
「そうなんですか。俺は直人です」
「直人、何かあったか?顔が死んでるぞ」
正直すぎる言葉に思わず苦笑する。どうやら自分の沈んだ表情は隠せていなかったらしい。
「まぁ、ちょっと…失恋しました」
「ああ、そうか。それは辛いな。でも、いいじゃないか。失恋にはスタウトが合うんだ」
ショーンはグラスを傾けて、スタウトを一口飲む。陽気で朗らかな雰囲気とは裏腹に、その瞳にはどこか優しさが滲んでいる。
「アイルランドでは、スタウトは『働く男のビール』って言われている。人生がうまくいかない時でも、これを飲んで気合を入れるんだ。苦いだけじゃなくて、少し甘いだろ?それがいいんだよ。人生もそうだ。苦さがあるから、甘さが際立つんだ」
「…そうですね。でも、今は苦さばかりです」
ショーンはニッと笑って肩を叩いた。
「それでいい。苦い夜を過ごして、朝が来ればまた違う味になるさ。俺も昔、失恋して泣きながらスタウトを飲んだよ。その時のビールは世界一苦かった。でも、今は笑い話さ」
直人は思わず笑ってしまった。スタウトの味が、少しだけ優しく感じる。ショーンの話を聞きながら、心が少しずつ軽くなっていくのを感じた。
「ありがとう、ショーンさん。少し楽になりました」
「いいってことさ。ビールは人を繋げるんだ。特にスタウトは、心を温める力があるんだよ」
グラスを合わせ、再びスタウトを飲み込む。その苦味はもう、ほんのりとした甘さに変わっていた。
夜が更ける中、直人は少しだけ前を向けるようになった気がした。
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