第5話 異国の恋

夜が更けたパブのカウンターには、琥珀色の液体がきらめいている。独特の甘みと濃厚なコクが口の中に広がり、わずかに立ち上る香りはフルーティーでありながらもどこか厳かな雰囲気を漂わせていた。


「それはトラピストビールですか?」


隣に座った男性が微笑みながら話しかけてきた。短く刈り込んだ髪と深い碧色の瞳が印象的なその男性は、淡い金色の液体が注がれたグラスを手にしている。


「ええ、そうです。初めて飲んだんですけど……濃厚で複雑な味わいですね」


女性は軽くグラスを傾けながら答えた。名前は菜月(なつき)、仕事でベルギーを訪れ、ふらりと立ち寄ったこのパブで異国のビールに魅了されていた。


「トラピストビールは、修道院で僧侶たちが醸造する特別なビールです。収益は慈善事業や修道院の運営に使われていて、限られた場所でしか作られていないんですよ」


「そうなんですか……。なんだか神聖な味がしますね」


男性は微笑んでうなずいた。その指先には、さりげなく銀色の十字架が光っている。


「私はこの近くの修道院から来た神父です。名前はヨハン。こうして夜に一杯やるのは久しぶりですね」


神父と聞いて菜月は少し驚いたが、ヨハンの柔らかな口調がその違和感を和らげていた。


「修道院で作るビールって、どんな気持ちで醸しているんですか?」


「祈りとともに。修道士たちは、自分たちの手で醸造し、自然に感謝しながら作ります。それは労働であると同時に、祈りの一環でもあります」


ヨハンはグラスを見つめながら続けた。


「ビールは人々を繋ぎ、心を和らげます。信仰もまた、人を繋ぎ、支える力があるのです」


菜月はその言葉に胸がじんわりと温かくなった。自分は日々の忙しさに追われ、愛や信仰について深く考える余裕すらなかったことを思い出す。


「愛とは何だと思いますか?」


菜月の問いに、ヨハンはゆっくりと答えた。


「愛とは支えることです。相手を受け入れ、その重さを共に背負うこと。恋愛も信仰も、根底にあるのは支え合う心でしょう」


その言葉に、菜月の心は不思議と軽くなった。誰かを支えるために自分がいる。それは恋愛に限らず、人として大切な在り方なのだと気付かされた。


「あなたに出会えて良かったです。ビール一杯で、こんなに心が解きほぐされるなんて」


ヨハンは微笑み、最後の一口を飲み干した。


「トラピストビールは、味わいも深いですが、その背後にある祈りや支えが人々を温めるのでしょう。あなたにも、その温かさが届いたなら嬉しいです」


菜月もグラスを空にし、胸の中に広がるほのかな幸福感を抱きしめた。


パブを出る頃には夜風が心地よく、街灯の下でヨハンが手を振っている。菜月も振り返り、静かに微笑んだ。


トラピストビールの甘く深い余韻が、心にいつまでも残っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る