第10話 香りの贈り物


千夏が祖母・和子の家を訪れるのは、小さな頃からの習慣だった。古いけれど手入れの行き届いた日本家屋。磨き上げられた木の床と、障子越しに差し込む柔らかな光。それらすべてが、千夏にとっては安心できる風景だった。


しかし今日、いつもと違うものに目を奪われた。和子の部屋の飾り棚に、小さなガラス瓶がずらりと並んでいる。陽の光を受けてキラキラと輝くそれは、まるで宝石のようだった。


「おばあちゃん、これ何?」


千夏が興味深げに指をさすと、和子は穏やかに微笑んだ。


「香水よ。でも、ただつけるだけじゃなくて、いろんな使い方があるの」


和子はそう言いながら、一つの小袋を手に取った。上質なシルクの袋に、繊細な刺繍が施されている。千夏が手に取ると、ラベンダーとローズの甘く優しい香りがふわりと広がった。


「これはサシェって言うの。匂い袋ね。昔の人は着物の袖や引き出しに忍ばせていたのよ。今でも、タンスや枕元に置くと衣類や寝具に香りが移って、気持ちが落ち着くの」


千夏はそっと目を閉じた。思わず深呼吸する。ラベンダーの香りが心をほぐし、ローズが温かく包み込む。ふと、小さい頃、祖母に抱きしめられた記憶が蘇った。


「落ち着く……なんだか安心するね」


「香りはね、その場所の記憶になるのよ」


和子は優しく千夏の頭を撫でながら、次に棚の奥から別の瓶を取り出した。ガラスのボトルの中には、透明な液体と数本の黒いスティックが挿さっている。


「これはリードディフューザー。香水をスティックが吸い上げて、ゆっくりと空間に広げてくれるの」


和子は玄関に置かれた一本を指差した。そこには、ほのかに柑橘とウッディな香りが漂っている。家の中に入った瞬間、気分が落ち着く理由がわかった気がした。


「おばあちゃんの家って、いつもいい香りがすると思ってたけど、これのおかげだったんだね」


「そうよ。香りは空気の中に溶け込んで、心を和らげてくれるの。玄関に置けば、帰宅したときに気分がリフレッシュするし、寝室に置けばぐっすり眠れるわ」


千夏はディフューザーの香りをゆっくりと吸い込んだ。柑橘の爽やかさとウッディの深みが絶妙に混ざり合い、まるで森の中にいるような気分になる。


「じゃあ、これは?」


千夏が目を止めたのは、アンティーク調の霧吹きのボトルだった。和子はそれを手に取ると、シーツに向かって軽くスプレーした。


「これはフレグランスリネンウォーター。シーツやカーテン、タオルなんかに吹きかけるのよ。洗いたての布が、さらに心地よく香るの」


千夏はシーツに鼻を寄せる。そこには、ベルガモットの爽やかさと、ジャスミンの甘さがほんのりと香っていた。


「すごい……これなら、毎晩ぐっすり眠れそう」


「そうでしょう? それにね、アイロンをかけるときに少し吹きかけると、衣類に優しく香りが残るのよ」


和子は楽しげに言うと、千夏のシャツの袖を軽く指でなでた。


「香水って、ただつけるだけじゃなくて、こうやって生活の中に溶け込ませるものなのね」


「そうよ。香りは、暮らしの一部。気持ちを落ち着かせたり、思い出を呼び起こしたり、大切な人の記憶と結びついたりするの」


千夏はゆっくりと頷いた。


「私も、お部屋にディフューザーを置いてみようかな。あと、サシェも作ってみたい!」


和子は嬉しそうに微笑み、小さなサシェを千夏の手にそっと握らせた。


「自分だけの香りを見つけて、大切にしてね」


千夏は目を輝かせながら、サシェをぎゅっと握りしめた。香りは目に見えないけれど、確かにそこにあり、心を豊かにしてくれるもの。そのことを、千夏は初めて実感した。


外は夕暮れ。風がそっと障子を揺らし、祖母の家には穏やかな香りが静かに満ちていた。


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