第7話 ハンガリーウォーターの約束
静かな図書館の一角で、莉子は一冊の古い本をめくっていた。ページの間から、かすかにローズマリーの香りが立ち上る。それは、かつてハンガリー王妃のために調合されたという伝説の香水「ハンガリーウォーター」に関する記述だった。
「若返りの香水、か……」
ぼんやりと呟いたその瞬間、背後から優しい声がした。
「それ、面白いよね。中世の王妃が愛した香水のレシピが、今も残っているなんて」
振り向くと、そこには大学の研究室でよく見かける先輩・悠人が立っていた。
「先輩もこれ、読んだことあるんですか?」
「うん。ローズマリーやタイム、ペパーミントをアルコールに漬けて作るんだ。ハーブの力を借りて、心も体も若々しく保つっていう考え方、昔の人はすごいよね」
悠人は微笑みながら、そっと本のページを指でなぞる。その指先からふわりと、かすかにハーブの香りが漂った。
「……先輩、もしかして、つけてます?」
「正解。実は、再現してみたんだ」
そう言って、彼は小さなガラス瓶を取り出した。琥珀色の液体が揺れる。
「試してみる?」
莉子は少し迷ったが、そっと手首にひと吹きしてみた。すぐに、爽やかで清々しい香りが広がる。まるで、時間を超えて中世の王宮に迷い込んだかのような感覚だった。
「不思議……心が軽くなるような気がします」
「香りには、記憶や感情を呼び覚ます力があるからね」
悠人の言葉に、莉子は頷いた。香水は、ただの香りではなく、時間や想いを繋ぐものなのかもしれない。
「これ、よかったらあげるよ」
悠人はそう言って、ガラス瓶を莉子の手にそっと握らせた。
「え? でも……」
「いつか、君が誰かに香りを伝えたくなったら。その時は、自分で作ってみて」
莉子は驚いたまま、瓶を見つめた。その香りは、遠い過去と未来を繋ぐ、小さな約束のように思えた。
図書館の窓の外には、春の陽射しが柔らかく降り注いでいた。
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