File:02 月見里樹 その①

01

「あっ、これ美味しそう」

 

 ふと聴こえた箍音たがねの声に、いつきのタイピングの手はピタリと止まる。

 ソファに寝そべり、足を上下させる彼女の呟きは、どうやら無意識のものだったらしい。

 八月十日の木曜日、午前九時頃。まだ十分に朝と呼べる時間でありながら、リビングに二人が揃っている状況というのは案外珍しく――樹は手を止めたついで、コーヒーを一口飲むと。

「美味しそうって何が?」

「え……うわ、聴こえちゃってました?」

 恥ずかしいなぁ、と。

 少し頬を赤らめつつ、箍音は雑誌から顔を上げる。

 丸い『新東京観光』の文字がでかでかと躍る表紙は力強く、彩る無数の料理の写真がグルメ雑誌であることをこれでもかとアピールしていた――はて、こんな雑誌がうちにあっただろうか、と。樹が首を傾げたことに気付いたのか、箍音は慌てて。

「こ、これ実は家から持ってきてたやつなんですよ。ほら、私って四国の田舎者じゃないですか? だから新東京に対する憧れというか、都会のオシャレに興味とか、そういうの結構あったりして……ま、写真見ることしかできないんですけどね! あ、あはは!」

「へぇ、観光……できるようになったんだ、新東京も」

 樹の口から漏れ出た言葉に、今度は箍音が首を傾げる番だった。

 感慨深そうな、且つどこか疑うような――それは、そんな言葉だった。

「どういう意味ですか、それ」

 新東京――元々の東京が『天の落日』により、崩壊してから十六年。

 ほとんどの機能を移設された、かつての横浜あたりを今はそう呼んでいる。

「私の記憶だと、新東京ってすごい場所だったんだよ」

「今もすごい場所ですよ。色々あって、さすがに首都って感じで」

「うーん……たぶん箍音ちゃんのとは、真逆の意味の“すごい”かも」

 つまり「悪い意味で」という枕詞が相応しい場所だった、ということである。

 元々栄えていた場所に色々な要素と問題、そして在りし日の残像を目一杯ぶち込んだ結果、出来上がった雑多にして混沌とした新東京は、要するにハチャメチャに治安が悪かった。溢れ返った避難民が自己主張を開始し、その一部の傲慢さに原住民が強く反発し、犯罪者紛いの集団が対立煽りで更に激化させ、おまけに混乱の最中では統治すらままならない。新しい日本の首都を名乗っていながら、そこらに破いて棄てられた法律の死骸が転がっている世紀末みたいな都市――その印象が未だに強く残っている樹からすると、どうも箍音のいう“憧れの場所”というのが、今ひとつピンとこないのであった。

「運が悪いと、入っていった翌日にはパーツ単位でバラバラになって出てくる羽目になることもあったとかなんとか……少なくとも観光なんて現実的じゃなかったかな」

「へ、へぇ……そんな魔界みたいな場所だったんですか……」

「――まぁ、そうだよね。十六年も経ったんだし、ね」

 それはどこか複雑な心地で、しかし樹は表情に出さないよう努めた。

 人も、環境も、心持だって不変ではない。きっとゆっくり変わっていく。

 余裕が生まれればルールが生まれる。ルールが生まれれば秩序が生まれる。

 誰も彼もが、いつまでも後ろを向いて、泣いてばかりではいられないのだ。

 かつての東京は、もうどこにも存在しないのだと――望郷の引力を振り切った人間たちの努力によって、新しい都市としての灯火が芽生え始めているのなら、それは素直に祝福されるべきことだ。

 少なくとも少女の純粋な憧れに、わざわざ泥を塗ってまで掘り返す必要はない。

「で? 箍音ちゃんは何が美味しそうに思えたのかな? 思わず口に出しちゃうくらい、何がそんなに美味しそうだったのかな? 恥ずかしがらずお姉さんに教えてみよ?」

「うわっ! なんですか、そのダル絡み! レギュレーション違反です、レギュレーション違反! 樹さんが私を弄るのはルールで禁止されてるんですけど!」

 普段は弄る側にいると自負しているのか、ぷりぷり頬を膨らませながら箍音はソファから身を起こすと、そのまま雑誌を片手に樹の隣の席に座る。

「これです、これ。可愛くないですか?」

 そう言って、開いて見せたのは喫茶店を集中的に特集したページ――その中で、少女の白く細い指が差したのは、白くてふわふわした何かが乗った、同じく黄色い何か。ミントのワンポイントが映える、おそらくタルト生地のケーキ。と、思われるモノ。

 なんかUFOみたいな見た目だな、と樹はぼんやり思いつつ。

「なにこれ? ケーキ?」

「い、樹さん……!? もしかしてレモンパイを御存知ない……?」

「んなぁっ!? そ、それくらい知ってるよ! 学生時代は毎日レモンパイ食べてましたから! なんなら“レモンパイマスター”の称号だって欲しいままだったもん!」

「なんでそんな分かりやすい見栄張るんですか……私、結構レモンパイ好きなんですよ。うちの地元がそれなりにお店多くて、食べる機会もよくあったというか……だからほら、これすごく美味しそうじゃないですか? 見た目もお洒落で、可愛いですよ」

「ふぅん……あ、テイクアウト対応してるってさ。頼んでみる?」

 このくらいの距離ならタシマ係――対終末部魔法少女係の略称――の方で対応できると思うけど、と。しかし箍音は、その提案にゆるりと頭を振って、寂しそうに笑う。

「いえ、いいです。こういうのってお店の雰囲気も込みで楽しむものだと思うので……普段と変わりない風景で食べても、美味しくたって面白くないじゃないですか」

 外に出られないんじゃあね――と。

 ひどく残念そうな箍音の言葉には、悪意なんて欠片も込められていなかったけれど。

 しかし樹の眉を顰めさせるには十分な言葉だった――人類存続に関わる一大事への備え、あるいは悪意ある第三者の攻撃からの保護。それらの観点から魔法少女は、国が『街』に用意した専用マンションより外に出ることを、基本的に許可されていない。

 学校は休学扱いとなり、今まで生まれ育った土地と繋がりを捨てて。

 友達に近状を伝えることもできなければ、現住所は家族さえも知らない。

 一応、両親と兄弟姉妹限定で、手紙のやり取りをすることだけは許されているが――厳しい検閲が入る便箋に、果たしてどれほどの無遠慮を詰め込めるだろうか。

「……解ってはいるんです、私の為でもあるってことは。それに悪いことばっかりじゃないですし。実家にいた頃よりよっぽど広い部屋で贅沢させてもらってるって思うと、本当はこんなこと言う資格だって無いかもしれないですけど」

 それが魔法少女として万全に戦ううえで必要なら、と。

 生活費は全て政府持ちのまま、欲しいモノは望めば何でも手に入る。

 このマンションに比べれば、元の自室なんて物置みたいなものだ。どんな高級食材も食べ放題。中学生の小遣い程度を貯めたところで、決して買えないコスメにだって簡単に手が届く。毎日受けていた授業の退屈さなんて、とっくに忘れてしまって――けれど。

「あれで私、結構あの“普通”を愛してたんだなって」


 数か月前まで、ただの中学生だった彼女にとっては。

 その掛け替えのない不自由さこそが、人生の全てだったのだ。

 

「箍音ちゃん……」

「って、何の話してるんですかね、私! すいません、変なこと言っちゃって。こんなこと言われたって困りますよね、樹さんも。好きでやってるわけじゃないのは、樹さんだって同じなのに……あはは」

「おっけー、じゃあ今から一緒に行こうか」

「あはは、はい……――はい?」

「そうだよね。やっぱり適度に外出ないと、人間ってすぐ腐っちゃうから……あ、でも私も新東京についてはあんまり詳しくないから。地図アプリだけだと不安だし、一応その雑誌も持って行こう……あれ、私スーツ以外の外行き用の服って、なんか持ってたっけ」

「あぇ、あっ、えっと――え、いや! ちょ、ちょっと待って下さい!」

 ノートパソコンを閉じ、コーヒーをグイッと一気に飲み干して。

 身体を伸ばしてストレッチを始めた樹を、しばらく唖然とした表情で見つめていた箍音だったが、やがてハッと我に返り、椅子を倒しかねないくらいの勢いで立ち上がる。

「今から行くって……新東京ですよ!? というか外ですよ!?」

「う、うん。でも箍音ちゃん、お店で食べないと味気ないって」

「それはそうですけど! 確かにそう言いましたけど! 大丈夫ですか、樹さん!? 私が何者か忘れてません!? もしかしてストレスとか溜まってるんじゃないですか!? よく寝てないとか! 出すもの出してないとか!」

「箍音ちゃんがいてくれて、毎日とっても楽しいよ。夜もぐっすり眠らせてもらってるし、出すもの――は黙秘権を行使させてもらうけど。ありがとね、心配してくれて」

「そ、それはどうも……じゃなくて! 私、魔法少女なんですよ!? 魔法少女は色々な理由でこのマンションから出てはいけないって、最初に教えてくれたの樹さんじゃないですか! なのにどうしちゃったんですか!?」

「うん? 別に出ちゃいけないだけで、一生出られないわけじゃないよ。魔法少女の意思を尊重し、叶えられるだけの願いを叶えるのがタシマ係の仕事。さすがに『裁定者ジャッジメンター』の顕現期間圏内だと難しいけど、ちゃんと相模原さんに申請さえしとけば、外出許可くらいほぼ事後承諾でだって貰える……と思うんだけど……――えっと」

「うぇ、あぅ……?」

 今度こそ言葉を失ったらしい箍音に、樹はポリポリと側頭部を掻いて。

 もしかしての想像に冷汗を垂らしながら、やがて確認するように訊ねる。


「……もしかして私、その辺の説明してなかったかな?」


02

三峰みつみね、お前休日は何やってんだ」

 

 同時刻――防衛省秘匿特殊課対終末部拠点【クロニクル・クレイドル】にて。

 今日も月見里樹を除いたフルメンバーが現場出勤し、各々の仕事に没頭する中、唐突に相模原さがみはらが発した質問が三峰を貫いた。

「どうしたんすか、急に」

「何して余暇を過ごしてるんだろうな、最近の若いやつは。第二の継承者が例のマンションに入ってしばらく経つが、外出許可申請が一回も出てない。そんなもんなのか」

「あぁ、そういう……ま、人によるんじゃないですかね。僕は大概釣りとかしてますけど、嬉野うれしのさんなんかは買い物以外で一歩も外出ないとか言ってたような気がしますよ」

 カタカタとキーボードを叩きながら、三峰は同期の例も交えて答える。

 第二の継承者、戸森箍音ともりたがねは確か十四歳だとか――性別や趣味が違えば、休日の過ごし方なんてガラリと変わって不思議でもない。ましてインターネット全盛のこの時代、娯楽なんてそれこそ家の中にいても手に入れられる。かくいう三峰も釣りにハマる前は、むしろ「アウトドアなんぞクソ喰らえ」の精神で、本を片手に自室に閉じ籠ってばかりいたし、仕事でもないのに外に出るなど正気の沙汰ではない、と思っていたものだ。

 ――というか冷静に考えると、そもそも最近はまともに休暇すら無いような。いい加減自分の家のシャワーを浴びて、自分の家の布団で眠りに就きたい。しかし世界と天秤にかけるとなると、なかなか言い出せないからこうして今日も三峰は、息が詰まりそうな職場でデスクトップと睨めっこを続けているのだ――多少の不自由はあれ、暮らそうと思えば暮らせる施設なのが、幸いと言うべきか不幸と言うべきか。

「それに彼女も結構特殊ですしね。例えば僕が魔法少女だったら」

「気持ち悪い想像させんな」

「例えじゃないですか……似たような状況に置かれたら、外出とか馬鹿馬鹿しくてやってられませんよ。どうせ先の短い人生、いったい何が楽しめるもんかってね」

「先が詰まってようと、時間は一定にしか流れんだろ。退屈しないのか」

「しないんじゃないですかね。今はネットさえあればどうとでもなります。歌詠って貝殻合わせてた時代じゃないんですから。で、そういう相模原さんは何してるんですか」

「趣味といえる趣味はないが、最近は料理教室に通って――ん、噂をすれば」

 聞き間違いかと三峰が耳を疑うより先、相模原はカチカチとマウスをクリックして。

 銀縁眼鏡の向こう側、鋭い眼光を上から下に移動させ――大きな溜息を吐いた。

「あの阿呆……」

「誰からです? 月見里やまなしさんですか?」

「外出許可申請の説明を忘れていたそうだ」

「へぇ……え、いや、それさすがにまずいでしょ」

 呆れを通り越して引き気味ですらある言葉に、相模原は無言で頷くのみ。

 ――魔法少女は特殊職だ。当然、労働契約書なんか用意されていない。

 あらゆる自由を奪い、束縛する対価に――あるいは命を捧げてもらう代償に、大抵の我儘には融通が効く仕組みを作った。それはある意味、無垢な少女達に対する罪滅ぼしでもあり、何より途中で「やっぱりやめた」と放り投げられないようにするためである。

 嫌な言い方をすれば、死んでもらうまでの御機嫌取り。

 それでも到底釣り合わないだろう。捧げてもらう命に比べれば。

 なのに――だというのに、よりにもよってそんな彼女たちに寄り添う筆頭が。

「あれ、でもあの子にタブレット渡しませんでしたっけ。そこに諸々のルールブックみたいなの、ちゃんと入れといたはずなんですけど……渡してましたよね?」

「説明書を読む習慣がなかったんだろ。そうでなくとも率先して気付くべき話だ、仮にも保護者なら。これでヘソでも曲げられたらどうする」

「……あの、前々から思ってたんですけど。本当に大丈夫なんですか、月見里さんで。あんま優秀寄りの人でもないでしょ。心理学とかカウンセリング嗜んでるってわけでもなさそうだし。そりゃ僕とか相模原さんが同居するわけにはいきませんけどね。だとして荏原えばらさんとか、なんなら嬉野うれしのさんの方が向いてるんじゃないですか」

「お前の評価は否定せん。あいつがここに配属された理由は“例の事情”の一点だけだからな。だが今回求められるのは、何より魔法少女たちと対等でいられる精神性――想像できるか、荏原と嬉野が女子中学生と対等に話してるとこなんて」

 少なくとも俺には無理だった、と。三峰は暫し考え込んでみる。宝塚の出身を疑うほど凛々しく、どことなく厳しい雰囲気を纏った荏原。ふわふわして気は優しいかもしれないが、おどおどしてレスポンスに時間がかかる嬉野――なるほど、確かに。歳下と一つ屋根の下で暮らすとなれば、消去法で月見里くらいしか適任がいないかもしれない。

「あいつ以上にまともなやつが、このタシマにいればよかったが」

「……言うほどまともなんですかね、月見里さんって」

 二人のタイピングの手が止まり、久しぶりの沈黙が室内に蔓延した。

 三峰も自分を含めたメンバーの全員、どこかまともではないという自覚はある。そうでなくてはこんな罰ゲームみたいな部署に送られたりしない。世界の存亡を賭けて女子中学生を戦わせる仕事に就くことになると知っていれば、幼少期の彼はもう少しまともな大人になれるよう必死に努力していただろう――それはそれとして。

 中でも月見里樹は、だいぶまともでない部類の者ではないかと、三峰は思っている。

 何が、具体的には言えない。なんと表現するべきだろう、あの人は。嫌いというわけではないのだ、別に。同じ部署の先輩として適度に尊敬はしているし、彼女が受け持つ『魔法少女の同居人』という仕事には畏怖さえ覚える。仮に世間と法律が許すとしても、先の長くない少女と一緒に過ごすなんて――考えただけで御免被りたい。

「そりゃ、何を以て“まとも”と評するのかって基準は曖昧ですけど。世間一般の認識に当て嵌めたら、月見里さんは確かにまとも寄りですよね――でも」

 だが時折、彼女の人懐っこい笑顔が、どこか抜けている性格が。

 そうでありながら瞳の奥に広がる、宇宙の如く黒々とした孔が、三峰の記憶の中のとあるモノを想起させて、やけに恐ろしく思えることがある。

 それはまだ幼い頃、東京諸共吹っ飛ぶ前の科学未来館で見た、とある展示物。

 大部分が機械剥き出しになった、人を模した下半身さえ存在しないロボット。

 淡々と人間らしさを表現する、ふとした瞬間人に見える気がするだけの何か。


「あの人たぶん、人間のフリするのが上手いだけだと思うんですよ」


 欠落している自覚があるからこそ、それを取り繕う努力をする。

 それは人として当たり前のことだ――だが、そもそもその“人として”の部分が足りないとすれば。圧倒的に、致命的に、虚無的に、人間らしさが足りないとすれば。

 そんな存在がどうやって、これから死にゆく少女たちに寄添うというのだろう。


03

「怒ってるんですからねっ、私」

 

 夏も本格化し、正午も間近となればとにかく太陽が堪える新東京駅。

 眩暈がするほど背の高いビルは少なく、故に日陰は限られた場所にしか存在せず――ベージュのキャスケットを目深に被り、その下でぷりぷりと膨らむ頬を隠そうともしない箍音と、手を合わせて謝り倒すことしかできない樹がそこにいた。

「うぅ……本当にごめんなさい、言ったつもりになってました……」

「確かに思い返せば『一人で外出してはいけない』って言ってましたよ、えぇ。私もそういうものだと思ってたし、仕方ないなって納得してました――でもまさか『同伴者ありなら別に大丈夫』って意味だなんて、言われなきゃわからないじゃないですか」

「仰るとおりです、はい……」

「あー! 行きたいお店とか、食べたい料理とか、いっぱいあったんだけどなぁー! これ見て下さいよ、樹さん! ほら、このガイドブックに夥しい数の付箋! ちょっとしたお花畑みたいになってますよ!」

「わ、わぁー……すごいねぇー……」

「けど残念だなぁー! 三ヶ月あったらどれくらい巡れたのかなぁー! パズルゲームばっかり上達してる場合じゃなかったのになぁー! ねぇ、樹さん! 24時間耐久テトリス大会楽しかったですよねぇ!」

「あぁう……! ごめんなさい……反省してます、本当に……!」

 それなりの歳の女性が、明らかに歳下の女の子にペコペコ頭を下げている光景が物珍しいのか、通行人から浴びせられる好奇の視線が樹の全身を貫く。

 一通り辱めを受けさせて満足したのか、箍音は「まったく」と一言。

「もう顔上げていいですよ、樹さん」

「うぇ……許してくれるの……?」

「そりゃまだ怒ってますけどね! 行きたいところがいっぱいあったのは本当ですし、あんなことしてる場合じゃなかったなって気持ちも本当ですし! もっと有用に時間を使えたんじゃないか、とも思ってますよ――でも無駄な時間じゃなかったですから。私も楽しんでたし、楽しかったですから」

「箍音ちゃん……」

「な、の、で! 許してあげるって言ってるんです、今回は!」

 ビシリと突きつけられた人差し指に、樹は安堵の溜息を吐いて顔を上げる。

 それでもまだ怒っているのか、それとも茹だるような暑さのせいか、箍音の頬は桃色に上気していて、首筋で透明な汗が一筋垂れていくのを見た。

「ありがとう、箍音ちゃん。お詫びといってはなんだけど、とりあえず涼しいところでご飯にしよう? まだ例の喫茶店は行かないよね?」

「まぁ、おやつの前にお昼ごはんですよね」

 丁度良さそうな店知ってるんで、と付箋がモップのように並んでいるガイドブックを開き、箍音が示した店を確認。駅前からしばらく歩く程度の距離と方角を、頭の中に叩き込む樹の手に、ふと何かが触れる――それは少し遠慮がちに伸ばされた、箍音の白い指先。

「……暑いかも、ですけど」

「箍音ちゃん?」

「手、繋ぎませんか」

「――おっけー、私でよければ」

 その小さく細い指先を包み込むように握る。

 まだ十四歳の少女の手は汗ばんで、緊張しているのか少し冷たい。

 やっぱり歳下なんだなぁ、と今更のように思いながら、樹は微笑んだ。

「エスコートさせていただきます、お嬢様」

「ん……ふふ、よろしく苦しゅうない」

 そういうシチュエーションに、どこか憧れに似たモノがあったのかもしれない。

 妙にさらりと出てきた、それでいてよくわからない言葉に頬を緩ませつつ、樹は箍音の手を引いて歩きだす。箍音も繋いだ手を、確かめるようにギュッと握り直した。


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