第5話 乖離の一太刀

 僕が今、嬉々として構えるこの木刀は多分、今よりは人と仲良くしていた頃のものだろう。


 そうだ、中学の修学旅行で──巫山戯ていた時のものだ。古都にある一つのお土産屋で買ったもの。あの頃、ただの木の棒に強い憧れを感じていた頃──


 確か、神社の近くの木で作られたものだとか言われていた気がする。何で今頃になってそんなことを思い出してまで、この木刀に触れているのか分からない。


 神社の木で作られてるから? 


 神聖さで怪異の如き存在を斬り伏せるとか?


 そんな事は脳裏によぎるまでもない。


 本当に嫌な思い出しか無い──正直に言えば目の前の存在を撃ち倒すよりも、これを壊した方が幾分も良いくらいの愚物。


 今の今まで捨てられずに、この有り様。本当の怪物を相手に取るなんて思ってもみなかった。


 所詮は木のクセに刃先に軽く触れるだけで、手元が狂えば肉に綺麗な断面が出来上がる。どう考えてもイかれてる。


 普通のお土産屋で売っていい代物なんかじゃない。


 曰くつきの神社だから──何かしら不思議なものがあると思えばこれだ。ああ、桃花と一緒に引いてたな……この切れ味に。


 そうして最後には押し入れの奥に、思い出の奥に仕舞い込んで。


 今は、何も覚えちゃいない、覚えていてはいけない、その筈だったのに……。僕は嬉々としてそれを構える。


 早くも惨状と化した家の二階──


 警察は、怪異の影響を未だ知覚できずに、何事も無い一階の様子を詮索し続ける。無論、そのような事をしたところで意味はない。


 かつて両親と呼ぶべきであった肉塊が、奇妙な笑みを浮かべたまま起立している光景か、それが取り除かれたただのリビングの光景か。それをただ調べ続ける人間達。


 日常ならざる、世界の表舞台の存在の影響を普通の人間が感知することなんぞ、簡単には出来やしないのだから。全てが終わった後にしか視る事はできやしないのだから──


 もしかしたら、全人類はこの世界が終わってからしか生きていた事を感じられないのかも知れない。とでも言えてしまう程に……。


 星々が地を見つめる事しか出来ないように、表に生きる人間もまた裏の世界を見つめる事は出来ない。でも──今の僕はその表の人間から外れて……。


 苦笑と歓喜の狭間に居る。


「あ〜、嫌だなあ。指先切っちゃった……。これ、治るの二ヶ月くらい掛かるんだっけ」


 身体中、特に吹っ飛ばされた瞬間の背中が悲鳴を上げている。もしかしたらガラスの破片が刺さったのかも知れない。触れた部分から赤い血液が流れてくる。朦朧と覚醒する意識が、循環し、解き放たれる。


 滲み出、漸次ぜんじ広がる錆びた鉄の匂い。


 完全に獲物であると思っていた存在から、一瞬だけ放たれた底の知れぬ何か──


 取るに足らない肉塊が、こうして不敵に木刀を構え、殺意を向けてきている。


 そんな状況を認める事が出来ないのか、その程の知性を持ち合わせていないのか、誰かに考えさせる暇もなく灰色の怪物は己の灰色の体を前進させ、飛び込んで来る。


 全長二メートル程のそれは、ガラスの破片が飛び立った僕の部屋で、獲物を捉えようと腕を伸ばす。


 怪異──これが怪異であるのなら……。


 針金の如く鋭い爪が、皮膚を切り裂くかのその寸前。


 遂には、僕の顔から緊張が無くなっていた。


「喰らえッ!!!」


 褐色の刀身を爛れた灰の腕に叩き付ける。


 剣道の心得がある訳でも何でも無い、強いて言うのなら──あの時、この木刀を手にした時から厨二病よろしく、いずれ来る敵となる者を撃ち倒すべく鍛えたイメージが今の僕を作っている。


 それは、あくまでもそれは妄想で、思考とは甚だ遠い無駄な事。でも──


 対象との一瞬間の距離。


 刃先がその測ることも出来ぬ透きの中、膨大な時空の蠢きを展開する。限界までに凝縮された刀と怪異との距離。あと少しで触れる、斬れる。


 そう、この刀で斬ることさえ出来れば──


 目の前の怪物を殺せようが殺せまいが、どうでもいい。この木刀で、怪異なる者と戦うことが出来るのならば、それさえ判れば……。


 この怪物は、死体を喰らう事のみに執着した存在に過ぎない。


 死体なら恐らく一階に残っているだろう、それでも食わせて僕は立ち去る。


 だから僕は此処でこれを試して、あとはブギーマンを探すだけ。


 今なら、何も食べなくても幾らでも動ける気がする。脳内の覚醒を促す全てが炸裂し、拡散されていく。


 数秒、一瞬、刹那、間髪、零それらが何も無いうちに、怪物の、爛れた灰色の腕は切れ落ちていた。


「な、なんだ……ははは……出来るんだ。こんな木刀で──まあ、流石はあの神社の物土産ものみやげとでも言ったところだよ。本当に……」


 本来なら立てる筈もない激痛の中、僕は此処に来て初めての笑顔を浮かべる。怪異の腕から溢れ出す障気のような何か。


 血液とは違う、腐った肉と形容し難い犯罪の混ざり合った香り。吐き気を催す刺激臭。これな腐った死体の匂いなのだろうか……。


「ギィィィィィ!!!!」


 充血した白い目で、闇夜に広がる死体を喰らう黒い方で、爛れ狂った灰色の巨大で、その全身を使い腕が切れたと同時に感じる激痛に体を震わせている。


「怪異にも痛覚はあるのか……」

 僕は、様子を暫く観察してから急に弱った怪物の姿を見て背を向ける。


 神経が麻痺しているのか、脳が覚醒しているのか、自身が何を凌駕しているのか、そんな事はどうでもよく……ただ心地良い悍ましさ。


 その快楽が、僕の体を蝕むように蠢いている。


 気づけば僕は、その木刀を片手に持ち、動かなくなった目の前の怪異の首を払っていた。


「こうすれば……流石に死ぬよな」

 とか、言いながら。


 ただ、急いで桃花の元へと行こうとしていただけなのに、手に持つ木刀は眼の前の怪異を斬り伏せていた。


 斜めに斬ると、恐ろしいまでに流水の如く刃が入っていく。これは僕の実力ではない……明らかに木で出来たものとは思えない程の殺傷能力を持った刀……刀身に刻まれた樹黙即刃ジュモクソクジンという名が月明かりに照らされ、鈍く光る。


 妖刀は人を惑わし、殺意を煮やすと言われるが──これはただの木刀だ……その、筈なんだ。


 首が僕の部屋の地面に落ちた頃、僕は桃花の手提げカバンを見つける。


 中にある一枚の紙──その資料の中で二つの言葉が僕の脳への刺激を急加速させる。


 一つは、ブギーマンという一体の怪異……。

 並べられるようにして、確実に見える『罪』と言う一つの漢字。


 目の前の怪異の姿は消失し、警官が知らぬ間に惨状と化していた玄関向きの部屋、僕の部屋の窓へと意識を向けた頃。


 僕は、抑え切れない興奮の様な感情を胸の内で爆発させて彼女のカバンと資料、木刀と……此処に残しておくには勿体の無い幾つかのものを手に実家に別れを告げ、僕は立ち去る。


「おい! そこに誰か居るのか!」


 原型の崩れた部屋に向かって下から声が響いてくる。


「……流石に出ないとまずいかな」


 そう言い聞かせて、荷物をまとめた僕は警官達も知らないであろう二階の窓からの出口を使い、塀を登って歩いていく。


 懐かしい。鍵を忘れた時にこうしてよく登って降りるを繰り返してたな……。


 家と家の隙間の暗い影。


 月明かりも街灯も届かない世界へと歩みを進める。


 桃花を探して──



 そして、僕の行き先で待ち構えるブギーマンは今、周囲に広がる錆びた鎌の音を聞きながら……。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 赤色せきしょくの男は楽しげに、クククと笑いながら天井も柱も、ステンドグラスさえも完成しきらない、ひとつの教会の中で何かの到来を待ち構える。


「あの男も面白い事をやってくれたものだな……。自分でこの僕を呼び出しておいて、別の怪異を引き寄せるのに利用するとは」


 疎らに展開される石柱が指し示すは、孤独とも似た少女の思い。


 その男──怪異ブギーマンは、少女の顔を見る。たなびくマントの中で、目を覚ますこと無く息をする桃花の姿を目に入れる。


 瞬間の哀愁とも似た微笑の直後、感じ取る空気がガラリと変わる。


 不意に差し込んだ月明かりのせいだろうか。急に伸び始めた影が、周囲を明暗を地に堕とす。


「おい貴様、出てこい」


 何者かの気配を感じ取ったのか、青年は言う。


 装飾の施された白い柱──その後ろを睨み付けながら、ブギーマンは杖を構える。


 持ち前の金色の、長い杖を。


 柱の奥、影になった場所から耳を刺す錆鉄が、まだ出来上がっていない床を切り裂きながら移動する……。歩いているのか、一歩ずつ進んできているように見えながら、足音だけが奇矯なまでに聞こえない。


「罪ヲ持ツナラバ、私ガ殺ス──裁ク──ソレダケ之コト……」


 人の姿を持ちつつも、死人のような虚ろとした表情は変わることなく甲高い声を上げる。嬉々とした悲鳴のような声。聞く者に絶対的な嫌悪感を与えるような声。


 憑風綾羅、あの少年が授業中に目撃した、夢の中で目にした、怪異がひとつ……。


「……やはり、怪異お仲間か」

 声をより一層低くして、ブギーマンは目を閉じる。


 死人の如く、冷たい空気。


 異常に細く白い体。


 蝋燭だけが持つ特有な光沢のような何か……薄暗く深い光、その女の姿は罪を裁く為にのみ存在する。存在し続ける。


 暗い夜の海──その恐怖を感じさせる程の黒い目。錆びた鉄と、滴り落ちる赤黒い光。


 その死体の如き姿は、ただ同じ場に居るだけでは到底感じ得ない程の罪悪感を与えてくる。


 ブギーマンは、何かを読み上げるかの如く言葉を放つ。

「怪異、罪廻乃断ザイカノタチ──それは罪を犯した者を裁く、だったか?」


 問いに応じるまでもなく、月明かりに現れた怪異は再び動き出す。


「まあ、お仲間とはいえど……殺意、高過ぎやしねえかなあ!」


 光を宿さない瞳は、ただ罪人を狩ろうとするが為、手に握る大きな鎌を振り翳す。


 ブギーマンの背後のマントに狙いを定めて──


 そう……この怪異もまた、罪人を裁く存在にして七海夜桃花に憑く存在。


 ブギーマンは己の杖で近づく罪廻乃断を振り払う。


「生憎様、この罪人はこの俺のもんなんだよッ!!」

 マントを翻し、次は鎌へと狙いを定め、攻撃に転じる。


「まあ、このマントを殴ったところで娘は出て来やしねえ。いくら断罪の権化と呼ばれる怪異様が相手だろうと、此方だって容赦はしねえ!」


 棒術……であるのか、型があるのかは至って不明でありながら、赤い怪異は次々と技を繰り出していく。


 罪廻乃断と呼ばれた怪異は、狂ったように白い柱を走り巨大な鎌を振り翳す。


「フッ!!!」


 首元に刃先が到達した瞬間……白い体が吹き飛ばされる。


 無論、過剰な接近に対応できる程の杖の捌き方が可能なほどの技量は持ち合わせてはいない


──ただ、放っただけ……。


魔弾デア・フライシュッツ邪気の未来を奪う鬼ブギーマン・プロジェクティル……」


 呟く。


 左手に握られるフリントロック式の銃。


 まるで中世の海賊のような風貌で、ブギーマンは銃を構える。


「伝承は、飛躍する──」


 親の言う事を聞かぬ子供を攫い、殺す鬼。


 長きに渡り受け継がれてきた伝承は、時代の流れとその本質に無限の可能性を与え続ける。


 海を渡り、人を攫う海賊の伝承は──この怪異に力を与えた。そう、名の語源たるブギスの民……その伝承は……。


「さあ、この際だ断罪──この娘を賭けて、その名を賭けようじゃねえか! フハハハハッ!!!」


 罪廻乃断から溢れ出る血のような何か、それが蒸発するように空を舞う。まだただの瓦礫に限りなく近い様な教会の壁……飛ばされた体は、そこに向かって突き刺さる。


 一瞬にして拡散された爆発的な力。


 殺気の塊とも感じ取れたあの鎌ですらも、瞬時の爆風で消し飛ばされる。


 恨めしそうに、ブギーマンの背後を見る瞳。


 長い目の隙間から、苦痛を感じる事もなく、ただ一点に……ただ死を彷徨い続ける己を呼んだ罪人を睨んで。


 時に言う。


 人は生きながらにして悪である、と。


 時に言う。


 人は生きながらにして善である、と。


 そのどちらにも加担する事なく断罪は恨む。


 罪を憎んで人を憎まず……そんな聖人的な思考は無く、今すぐにでも消え去りたい己の為に──自らの手で自らを終わらせる為に、罪を持つ者を裁くべく。


 その時──


 未だ、マントの中で意識の無い少女──七海夜桃花は思った。


 願ってしまったのだ。


 親の願いに添えぬ自身を誰かが裁いてくれる事を。長年に渡り、寝る間を亡くしてまで、自身を裁く者が現れる事を願い続けてしまったのである……。


 一度の静寂が訪れる。


 緊張した空気は、揺らぐ事無く依然として教会を包み込む。


 灰色の壁から体は地に落ち、消失した鎌を再び構えるは、罪廻乃断。


「やっと見つけましたよ」


 人間が本来入るべきでない領域に、仮面の人物が現れる。


「罪廻乃断……そして、ブギーマン」

 黒いスーツに黒いコート、夜に残る僅かな光、その全てを吸収してしまう程に鮮明な色彩。


 二つの断罪の名を関する怪異に歩み寄り、探偵は静かに止まる。


 不気味な仮面からは、森閑を漂わせる。


 少しの間黙ってから、ブギーマンは口を開く。


「……思いの外、早かったじゃねえか。仮面の者よ」

 男は持った銃を手の内でくるりと回して、その形を金色の杖へと変化させる。乾いた笑い声を上げて、杖から銃へ、銃から杖へと変形を繰り返す。


 さながら奇術師の如く──


 罪廻乃断はその瞬間の隙を逃すことは無い。


 空を切る鎌の音……赤いマントの端に、突き刺さる。


「ッ!!!」


「罪デ……満タサレタ、存在ニ……」


 地の底から響く声、その一撃に留まることを知らず錆びた刃物が胸部から突き出る。


「ゴフッ……」


「な……」


 探偵もまた、その一瞬で繰り出された連撃に驚きの声を放つ。


 静かながらも、確実に罪人を仕留める存在として……狩る。突き刺された鎌の刃は、そのまま首元へと移動する。ブギーマンは苦痛の表情を浮かべながらステッキを背後に向けて突き刺す。


 その反撃も虚しく、赤い怪異は地に膝をつく。


 無限に拡張される袋の如きマントの中。


 赤いマントの内側で、抑揚無き、虚な少女の声が聞こえる。


「暗闇……誰か、誰か、誰でもいいから──私を裁いていただけないのでしょうか……」


 と──続けて、無音の中で言う。


「一族の汚名であるこの自由な少女を、組み継がれし鳥籠を悪鬼羅刹の如く壊そうとする、この哀れな娘を首を今、此処で……お願いだから……お願い、だから……本当に──」


 と──深く。心の奥底から純粋に。


 不覚にも純然たる悪意を感じながら……。

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