第3話眼下、瞬く星は退屈

 創造主に対して罪を犯す──その行為が、例外なく冷酷無比の世界の襲来を導く事と同義であるが為。


 その摂理を全うすべく、現れる亡霊が一人。


 曲解されし契約の元に現れては、造られし罪人を我がものとして。


 絢爛な紅のジャケットを身に纏う男は、大きく感性を上げるように笑う。


 深いマントの奥に──一人の罪人を抱え込み。


 肉親のめいを切り捨てたも同然たる存在を我が血肉とするように。少女は笑う事も泣く事もせず、虚構の中で終わりの時を待っている。


「さあ、ならば仮面の者よ。罪人の解放に相応しき存在を、この私に! 語られし恐怖の権化たる、この鬼に! 是非とも目に入れさせて頂きたいなあ!! 嗚呼……ククククク……アハハハハッ!!!!」


 その怪異は高らかに笑う──


「交渉の意思はあるようで何よりだ」

 仮面の人物は、表情の読めぬ顔を上げて渡り廊下にぶら下がる青年を見据える。至って冷静に、冷淡ではないながら淡々と刻々と流れる時と共に顔を上げ。


 また、続ける。



「ああ、ならば"構わない"。きみはまだ誰一人として人間を殺してはいない。そうだね?」

 動く店内の人混みを感じさせない泉導は、道の中心に立ち、言う。


「……コイツは驚いた」

 人々がまるで何も見えていないかのように行き交う最中、彼は目を丸くしてそう言う。


「仮面の、……お前面白いなあ。俺はこれでも子を攫って殺す"怪異"なんだぜ?」

 尖った赤い爪を首の前で引っ掻く動作をしてギラリと睨む。それは敵意、ではなく牽制の目──未だ余裕の笑みと尖る歯は垣間見えたまま。


 隣に立ち、困惑する名無を差し置いて泉導はやはり表情の読めぬ顔で飄々と答える。


「ええ……それは世間一般では、の話でしょう。仮にそれが事実であれば、彼女を貴方には渡しては居ませんからね。それに……もう一つ─────」


「桃花ぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


 仮面の人物は──泉導は何かを言ったその瞬間、宙に居る竜胆色の少女を見て一人の少年は顔を上げる。


 またも、誰も気付かない。相変わらず何も知らずに生きる人々。怒声ともつかないその大声に目を向ける事はなく。人々は……歩く。

 これは、日常の裏に隠れた世界の物語。


 少年は走る。


 僕は、次こそと──桃花に危害を与える人ならざる存在を止めようと……。


 赤いジャケットのブギーマンは笑う。口元に光る鋭い歯を見せ、マントを翻す。一人の少年を気に止めることもなく。


 そして──消える。


 気が付けば近くに黒い二人の姿は無い。誰も自分の事が見えない夢の中にでも入ったような心持ちで立ち尽くす。遠くでは終わらない劇の音が鳴り響き、人々は僕の体を通り抜けて去って行く。


「は……」


 何処からか、何が起こっているのかも分からないのに溢れ出す無力感。また体が異常に冷え込んで来る。



 いや、身体すらも無い。


 そしてこれは、夢じゃない。


「ああそうだ、これは現実だ──」

 耳打ちするように、体の深い所から眠っていた怪物の声が……聞こえてくる。目を覚ます。自分と自分じゃない何かが微かに唸り声を上げている。


 ────嗚呼、僕はまた夢を終える。違う、これは夢の……いや、夢じゃない現実の円環に組み込まれた真実にして虚構──


 悪夢。


 僕はその後暗い部屋で目を覚ました。


 あの黒い二人の姿は、やはり無い。

 跡形も無いとは違う。まるではじめから居なかった、それが事実であるかの様に。


 その暗く狭い空間と呼ばれるものは、その部屋は、ショッピングモールの清掃用具が置いてある場所であった。それもまたいつも僕たちが目にする日常の裏舞台。でも、確かに今日この僕が目にしたのは、この世界の裏舞台。真実にして日常にして世界にして常世ならざる裏の世界……。


 月昇る鈍色にびいろの中に溶け切らない心と、桃花の居ない隣に持った手提げのバッグを見つめながら夜を歩く。家を二人で出たのは昼間なのに、家へ帰るのは……。


 あの仮面が、赤い青年に向かって言った言葉を僕は知らない。


 彼女が何故連れ去られたのか、僕は知らない。


 何が現実なのかもまた、僕は知らない。


「ん、りょうらじゃねーか」

 前から自転車を漕いでる誰かに声を掛けられる。瞬く街灯の光がその顔を照らしては消してを繰り返す。


 スポーツ刈りの……男子生徒クラスメイト


 名前は覚えていない。


「あ、うん」

 こんな返事で良かったのだろうか、リュックサックを背負った彼は方向転換して僕の隣を歩き出す。


「塾の帰りか?」

「いや、買い物」

「そうか」

 彼は時期にしては早くも日に焼けた顔で、笑いながら頷く。

「そうだ、折角会ったんだし愚痴でも聞いてくんねえか?」

「まあ、別に……」


 彼の話が始まる。


 僕は、桃花が連れ去られてしまったのに何をしているのだろう。早く行かないと、でも何処へ、何が出来るんだ? 僕の助けが何になるんだ? 考える度に頭が痛くなる。


 それでも、彼の話を聞く。何故か話すのがこれで最後な気がしてしまって。


 身構える様な事もない他愛の無い話だった。先生の愚痴とか、部活の話とか、近所の人が入院したとか……主に言えば"退屈な日常"の話とか。諸々を含めての何処にでもある雑談だった。


 急に体がを包む"いつも"みたいな憂鬱と安心感。


 何処か落ち着くようでありながらも居場所に疑問を持つ心地の悪さを示した空間。


 彼はただ話を続けて時々こちらのことを聞いてきたりしながら楽しそうにする。


 あと数分で家に着く頃になって彼は言う。

「あ、悪ィ。話しすぎちまったかも」

「別に大丈夫だよ全然」


 そして、別れ、僕は再び一人になる。


 夜、そこまで遅くない時間。


 心の中にあった日常と退屈が僅かに消えていくのを感じながら開く玄関の扉。


 明かりの灯らぬ家。冷たいドアノブの感触。

「ただいま」

 言ってみたが返事が無い。


 家には車も自転車もあった。靴も置いてある。


 何だ……何だろうか、この恐怖を感じる空気は。重くない、むしろ過剰に軽く、感じることすらも出来ない空気。孤独なのか、それは肺に取り込もうにも微動だにせずに血流の動きを止める。唸り声を上げる騒々しい焦燥感。


 リビングのドアに手を掛けるまでに何時間も経過してしまうのではないかとも感じられるほど……遠い。手が届かない。


 まだ手に持った桃花の手提げを目にして──開く。


 カランと鳴る氷の音。


 両親は笑顔で……僕は直ぐに自分の部屋に駆け込んだ。


 見たくないものを目にしてしまった。


 そうじゃない、現実から目を逸らしてしまった。


 瞬時にして網膜全体を蝕み、脳の中を埋め尽くす赫。


 僕は知らない。両親の体がいつものように立ちながら笑顔を浮かべながら……どのようにして事切れていたのかなんて。体が動くこともなく、カランとなった氷が二人から聞いた最後の音であっただなんて。僕は知らない──この大切な何かを失った、いや違う、天井が急に無くなったような気持ちの悪い開放感。


 その広がり続ける空の孤独に非生命の視線に監視される感覚。


 喉の渇きが確実に何かを終わらせる。


 ベッドに辿り着く前に倒れ込む体の音。


 混濁、狼狽、朦朧とした自分の中で──




 目を瞑ることも出来ずに眼球が勝手に動き回る。


 そんな中、感じるものは……退屈。


 なんでその二文字の漢字が体の中から出てきたのか分からない。


 また、彼女の元に行きたいのに体がそれに拒否をする、そんな事実も分かれない。限りなく現実が壊れていく──


 その後の事は記憶に無い。空が徐々に赤くなってくる。それまでに星の動きがあった筈で、そのあと日が天の高い場所に来るまでまた何かが確実にあった筈なのに。


「う……な、い」

 動かない──体が動かないという事実を今になって理解する。多分、夜はあのまま眠らなかったのだろう。


 今日は学校……なのに。


 朝のあのブレーキ音。


 揺れる竜胆色の髪と彼女の笑顔。


 聞こえない。


 うつ伏せのまま手に強く握った手提げを何処かに置いておくこともなく。


 車の音、鳥の声、雑音、徐々に耳に届いてくる。


 そして……インターホン。


 動け、何故動かないのかも分からない体に言い聞かせながら力なく立ち上がり不安定な体幹で階段を駆け落ちないように。無傷ながらも体中に感じる痛みを噛み締める。


 リビングの方に背を向けたまま、後ろで何かが倒れた音がしたが僕は振り返らない。閉まっている扉の奥を見つめようとすることなんかなく、玄関の扉まで走る。


「お悔やみ申し上げます」


 二人からの弔いの言葉が耳を刺す。


 真っ黒な衣装に身を包んだスーツの女性と仮面の人物。


 さながらその衣装は、いつものものであるようでありながら、喪服とも取れる不吉さと意志、心持ちを指し示すが如く、急に広がる外の光と共に僕の水晶体を砕く。


 一昨日の土曜授業のイレギュラー。振り返り休日の無い平日の昼間、普段なら学校に行っている時間。絶対に目にすることのない、乖離した存在。


 それが家の間で堂々と僕の前に立っている。


「涙、は無いようですね」

 心臓に深く沈む声。


 僕は指先を乾いた目の下に微かに触れて、表情を変えない。

「荷物は何も要りません。着いてきてください」

 仮面は冷酷と共に冷静と贖罪を強く響かせて後ろにある黒い車へと僕を招き入れる。人の光に照らされたそれは、静かに唸る。


「ごめんなさい。それで済まされることじゃない──でも、今は何も聞かずに着いてきて欲しいの」


 二人して、僕に同じような事を言いながら歩みを進める僕の隣を歩く。


 車の中、二人は名乗る。


「泉導黎、探偵です」

「名無です。何者でもありません。名無しと呼ばれたら殴」

「こら」


 怒られてる……。


「色々聞きたいこともあるでしょう……。それ以上に私には贖罪ずべき事が多過ぎる。ゆえに私が受ける断罪は、この一件が終わってからで御願いします。勝手ながら、今罪を感じるわけにはいかないのでね」


 運転席に座る名無さん。助手席で首を傾けて仮面から覗く泉導さん。


 探偵と言ったか……。


「……そうですか。桃花は何処にいるか、答えて頂いてもいいですか?」

「現在捜索中ですよ」

「逃がしたのは貴方ですよね」


 嫌味のようになってしまったが、気にしていない風に二人は見える。


「その通りです」

 なだめるような声で仮面は言った。


 僕がそれに口を開こうとすると、すぐに続ける。

「ですが、あの赤い青年。ブギーマン──彼は若き罪人を連れ去り罰する者……。それに、一つ言わせて頂きたいのです」



「彼女は絶対に生きています。傷一つ負わずに……そして、もう一つ。私や憑風綾羅が彼女を"守る"よりもあの怪異の方が幾分も安全だ」

 力不足を恥じるような声で、仮面はそんな事を静かに言った。


 僕に向けてと同時に、仮面自身に言い聞かせるが如く。

 微かに、淡く、残る声で。


「じきに君の家に警察が来ます。……毒の」


 親を殺したヤツ……。あれは毒なのか、何なのか少なくともあの死に様は。硬直した笑顔の裏に隠れた存在しない表情。決して変わる事のないそれは、微動だにせずに少しずつ冷えて人の体温を無くしていく。


 そんな状況で僕は、どんな表情をすればいいのかが分からない。


 傍観しているわけでもない。無論、達観出来ているわけでもない。


 ただ……無い。


 感じられない、未だ実感というものが。


 だが、仮面は単刀直入に淡々と言葉を発し続けていった。


 何処か遠くにあるようで。体に残る異常に軽く肺に取り込むことすらも出来ない空気。


 目の前で……笑顔のまま息をしていない二人。


 でも、僕はその二人を見て泣く事は出来なかった。それ以上に──桃花を。


 仮面の話も終わり、再び無言になる。


 名無さんはひたすらに運転に徹しているようで、一言も発することなく静寂を維持する。



「……ところで名無さんも何か話しませんか」


 固く冷たくなった空気を一瞬で壊すように、茶化した声で隣の彼女に話し掛ける。


「ひゃい!?」


 相当集中していたようで、急に脇腹突かれたら彼女は過剰に反応する。


 う〜む……。とか言って暫く考えてから、ポツリと言う。バックミラー越しに無表情を貫く僕の顔を見て。


「両親はどんな人だったのかい? 少年よ」


「よく働く人でした。真面目で、勤勉で、でも僕はその二人のことを知らないです。家の周りの人が会う度に僕に言ってくるんです。でも僕はあの二人のことを知りません。実の親です。だから、両親が死んでしまった事に未だ泣けずに、それよりも目の前で消えた桃花のことの方が……」


 聞いた彼女は、頷きながら声に出さずに苦笑する。それは決して僕に対してじゃない、彼女自身に対してのものだった。


「親……ねえ。私が自分から聞いておいてなんだけど、あれはよく分からない生物だ! 落ちこぼれの私の理解力が足りなかっただけかも知れないけど!」


 ハンドルを回して、古そうなアパートの前で車を止める。


「まあ、取り敢えずは着きましたね」


 泉導さんが言うと、名無さんが懐かしいなと一言。


「今回の件が片付くまで、悪いが君にはここに居てもらいます」

 僕の手に、鍵を握らせると車と共に黒い二人は去っていくのであった……。

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