第12話
夜の空は、満月の光に照らされていた。
透は、蛇道の入り組んだ道を静かに歩いていた。
夜の空気は澄んでいて、ひんやりと肌を撫でる。
──琳は、いるだろうか。
この問いが、自然と胸に浮かんでいた。
気がつけば、彼女を探している。
「……会いたい、なんてな」
自分で呟いて、少しだけ苦笑した。
そんなはずじゃなかったのに。
それでも。
角を曲がった瞬間、視界に映る人影に、透は息をのんだ。
──いた。
琳は、街灯の下で立ち止まっていた。
静かに揺れるワンピース。
緑のカーネーションが、月の光を孕んで優しく輝く。
「……やっぱり」
透の声が、夜の静寂に溶ける。
琳がゆっくりと顔を上げる。
「あなた……今夜も、歩いてるのね」
「君こそ」
琳は微笑む。
「会いたかった?」
透は、一瞬息を呑んだ。
「……ああ」
琳の瞳が、微かに揺れる。
けれどすぐに、唇が楽しそうに動く。
「どうして?」
「……どうしてって、」
言葉に詰まる。
「なんとなく……かもしれない」
琳は、まるで何かを見透かすような目をした。
「ふふ、それなら……もう少し歩きましょうか?」
琳がそっと歩を進める。
透は、彼女の隣に並んで歩き出した。
「ねえ、透」
琳が、夜の空を見上げる。
「あなたは、夜の住人になれる?」
その言葉が、再び彼の胸を揺らした。
透は、琳を見つめる。
「……君が、それを望むなら」
琳の足が止まる。
驚いたように透を見つめて、
そして、ふっと笑った。
「そんな顔しないで」
夜風が、琳の髪をそっと撫でた。
透は、思わずその指先を伸ばす。
琳の髪に触れた。
彼女が、驚いたように瞬きをする。
透は、静かに髪を直しながら、そっと呟いた。
「……風で乱れてた」
琳は、少しだけ頬を染めた。
「……あなたって、不思議な人ね」
「それは、こっちのセリフだろ」
琳は、微笑んだ。
「満月の夜は、綺麗でしょう?」
「……ああ」
透は、琳を見つめた。
彼女の横顔が、満月の光に照らされている。
「死んだ女のように、綺麗」
透は、彼女の呟きを聞いた。
琳の瞳が、月の光に静かに揺れていた。
―――
透は、琳と並んで歩いていた。
何を話すでもなく、ただ、ゆっくりと。
夜の空気は澄んでいて、涼しさの中にほんのりと秋の気配を孕んでいた。
月が雲の切れ間から顔を覗かせると、琳の横顔が静かに光を帯びる。
長くゆるやかな髪が、夜風にそっと揺れた。
胸元には、いつものように緑のカーネーション。
琳の白い指が、その花の茎を無意識に撫でている。
透は、ふと口を開いた。
「……琳、それ」
琳が振り返る。
「緑のカーネーション?」
「ずっとつけてるよな」
琳は微笑んだ。
それは、いつもの余裕のある笑み。
どこか、からかうような、はぐらかすような。
「気になる?」
透は一瞬、言葉に詰まる。
琳の笑みには、何かを試すような響きがあった。
「いや……別に。ただ、何か意味があるのかなって」
琳は、胸元の花を軽く指先で摘まんだ。
夜の光を受けて、緑の花弁が淡く透けるように見える。
「秘密よ」
「……そう言うと思った」
透は、苦笑した。
琳は、透の反応を楽しむように、そっと目を細めた。
けれど、その瞳の奥には、何か別の感情が揺れている気がした。
「でもね、これを身につけていると……私は私でいられる気がするの」
「琳は琳だろ?」
透の何気ない言葉に、琳は一瞬だけ動きを止めた。
ほんの刹那の間。
月光が、彼女の瞳に揺れる。
「……そうね」
琳は、ゆっくりと歩き出した。
透も、彼女の隣に並ぶ。
彼女の言葉の意味を、深く考えることもなく。
ただ、琳の胸元の花が、夜風に揺れるのを見つめながら。
―――
夜の千川彫刻公園は静寂に包まれていた。
街灯の薄明かりに浮かぶブロンズ像は昼間とは違う表情を見せ、まるで闇の中で息を潜めているかのようだ。
透と琳は並んで園内の小道を歩きながら、周囲の静けさに耳を傾けていた。
聞こえるのは木々を揺らす微かな夜風の音だけで、人の気配はどこにもない。
沈黙が続く中、琳がぽつりと呟いた。
「夜の方が落ち着く」
透は隣の琳の横顔をそっと見つめ、その穏やかな表情に小さく頷いた。
短い沈黙の後、透はふと笑みを浮かべた。
「昼間は芸人が稽古してるんだよ」
透の言葉に、琳は思わず目を丸くした。
「えっ?」と驚きの声が漏れる。
透は昼間の公園の様子を知らない琳の反応が不思議に思えた。
理由を尋ねようとしかけたその時、琳が悪戯っぽく微笑み、「秘密」と囁いた。
不意の言葉に、透は胸の内に小さな引っかかりを覚えた。
しかしそれ以上何も聞けず、二人は静かな夜道をそのまま歩き続けた。
―――
千川彫刻公園を抜けると、高級住宅街の静かな夜道が二人を迎えた。
公園の中に点在していた彫刻たちは闇に溶け、背後に遠ざかっていく。
街灯の淡い光だけが路面を照らし、透と琳の影を長く伸ばしていた。
夜の空気は澄んでいて冷んやりとしており、かすかに沈丁花の香りが漂っている。
二人の足音だけがコツコツと規則正しく響き、静寂の中に溶け込んでいった。
通りの両側には高い塀に囲まれた大きな邸宅が静まり返っている。
塀越しに揺れる樹々のシルエットが月明かりに浮かび、まるで秘密の美術館が塀の内側に隠されているかのようだった。
塀の向こうからは人の気配もなく、ただ夜の静寂だけが漂っていた。
透はその一つの塀を見上げながら、小さく笑った。
「ずいぶん高い塀だね。中には何があるんだろう」と彼は呟くように言った。
琳は透の横顔に目をやり、「きっと広いお庭や、大事な何かを守っているのよ」と微笑んだ。
透は頷き、塀の向こうには、もしかしたら美しい彫像や芸術品が静かに眠っているのかもしれないと想像した。
やがて、角を曲がるとレンガ造りの洒落たアパートメントが現れた。
そのエントランス脇には、一体のブロンズ像が飾られている。
街灯に照らされたその彫刻は、夜の帳の中で静かに佇み、人影のない歩道を見守っているようだった。
透は足を止めてその像に見入った。
「あんな所にも彫刻が置いてあるんだね」と感心したように声を漏らした。
琳も立ち止まり、像とアパートを見上げた。
「この辺りの人たちは本当に芸術が好きなんだね」と透が続けるように言うと、琳は柔らかな笑みで頷いた。
透は夜の静けさに耳を澄ませながら、目の前の光景にしみじみとした思いを抱いた。
高い塀の屋敷も、アパートの彫刻も、すべてが調和してこの街の一部になっている。人々が寝静まった後も、芸術だけが静かに息づいているように感じられた。
「ここは静かにも芸術の街なんだな」透はそう呟いた。
声に出したというよりは、夜の空気にそっと溶かし込むような静かな言葉だった。
琳はその言葉を聞き取り、目を細めて透を見つめた。彼女の瞳には街灯の光が小さく揺れて映り込んでいる。
琳はくすっと微笑むと、「夜の住人も住みやすいかもね」と冗談めかして言った。
その口元にはどこか意味深な笑みが浮かんでいる。
透は一瞬「夜の住人」という言葉に不思議そうに眉を上げた。
しかし、琳の微笑があまりにも楽しげだったので、それ以上深く問うのはやめた。
ただその笑顔につられて、透も小さく笑みを返した。
二人は再び歩き出した。
先ほどよりも歩幅はゆっくりで、互いの肩が触れ合うほど近くに寄り添っている。
沈黙は嫌なものではなく、むしろ詩の一節のように心地よかった。
冷たい夜気の中で、透は琳の隣にいるだけで、不思議と胸の奥にぽっと灯がともったように温かくなるのを感じていた。
それは夜の静けさに似た穏やかな高鳴りだった。
ふと見上げれば、夜空には雲間から淡い月が顔を出している。
月光が二人の足元を優しく照らし、その影を一つに溶け合わせていた。
街路樹の葉がそよぐ音がかすかに聞こえ、遠くで犬が吠える声もすぐに消える。
千川彫刻公園から続くこの静かな芸術の街で、透と琳の二つの心は寄り添い合い、夜の深みへと溶け込んでいった。
―――
しばらく二人で無言のまま歩く。
琳の歩幅は、いつもよりわずかに遅い。
まるで、この夜を長く引き延ばそうとしているようだった。
透が何か言おうとしたとき、琳の手がそっと触れた。
「……ねえ」
小さな声。
「あなたって、夜の空気が似合うのね」
透は、軽く笑った。
「それって、どういう意味?」
「……秘密」
琳が、そっと手を引く。
けれど、透はその指先を離さなかった。
琳が、驚いたように透を見つめる。
「……君がいつも夜にいるから、俺も夜にいるだけだよ」
琳の瞳が揺れる。
「……もし、あなたが夜の住人になるなら」
言いかけた言葉が、夜風に消える。
透は、その続きを待った。
けれど、琳は微笑んで、それ以上何も言わなかった。
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