第11話
琳が歩くたびに、薄布がふわりと揺れる。
ワンピースの上に羽織られた軽いカーディガン。
細かな模様が浮かび上がるたびに、月の光が淡く反射する。
透は、何気なくその布の柄を目で追った。
夜空に散る星、風に揺れる花。
琳は、夜そのもののようだった。
「どうしたの?」
透が視線を逸らすよりも早く、琳が振り向いた。
「……いや」
「あなた、さっきから妙に黙ってるわ」
「別に」
透は、何気ないふりで前を向く。
琳が、小さく微笑んだ。
「ふふ。あなたは、夜が好き?」
夜が好きか——。
透は、考えたこともなかった。
「……最近は、嫌いじゃないかもな」
そう答えながら、自分でも驚く。
昼の世界にいるとき、ふと夜を思い出すことが増えた。
琳は、そっと透の袖を引いた。
「あなたは、少しずつ夜の住人になっているのね」
透は、その言葉の意味を考える前に、琳の指先の感触に意識が向く。
袖口を軽く引かれただけなのに、鼓動がわずかに跳ねた。
琳は、じっと透を見つめる。
夜の静寂の中、二人の間にあるものが、少しだけ変化した気がした。
琳の指先が、透の袖口にふっと触れた。
「あなたは、どこまで私のことを知りたい?」
夜の静けさの中、琳の声だけが響く。
透は、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……全部」
そう言いかけて、唇を噛む。
琳は、ゆるく微笑んだ。
「それは困るわ」
まるで冗談のように言う。けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ影が落ちた気がした。
「どうして?」
琳は少し歩を緩める。
「秘密があるほうが、きっと楽しいものよ」
「……そうか」
透は、琳の横顔を見つめた。
琳が、ふと足を止める。
「この街にはね、秘密があるの」
透の心臓が、微かに高鳴る。
「秘密?」
琳は、口の端にわずかな笑みを浮かべる。
「ふふ、なんでもない」
夜風が、二人の間を吹き抜ける。
透の袖に触れていた琳の指先が、そっと離れた。
人通りの少ない道。
琳が静かに歩き出す。
透は、その背中を追いかけながら、胸の奥に残るざわめきを抑えられずにいた。
琳の言葉。
この街の秘密。
そして、彼女自身が隠しているもの。
「……君は」
思わず口を開きかけた。
しかし、琳はその前に振り返り、
「夜が綺麗ね」
と、微笑んだ。
透は、その言葉を飲み込んだ。
琳の瞳に映る夜が、彼には少しだけ遠いもののように思えた。
「次に会えるのは……また満月の夜かしら?」
琳が、ふと呟く。
透は、その言葉に眉をひそめる。
「満月の夜にしか、会えないのか?」
琳は、静かに微笑むだけだった。
「いつなら会える?」
透が問いかける。
琳は、一瞬だけ目を伏せる。
「さあ、どうかしら」
「……どういう意味だよ」
琳は、透の目をじっと見つめる。
夜風が、彼女の長い髪を揺らした。
「あなたは、夜の住人になれる?」
透の心臓が、再び高鳴る。
「……それは、どういう意味なんだ」
琳は、答えなかった。
ただ、静かに微笑んだまま、夜の中へと足を進めた。
透は、その後ろ姿を見つめる。
彼女がまるで、月光に溶け込んでいくように感じた。
―――
夜の余韻が、昼の喧騒の中で静かに揺れている。
お昼休み。教室の窓から、ぼんやりと外を眺める。
透は、ペットボトルのキャップを指で転がしながら、心ここにあらずといった様子だった。
── 昨夜のことばかり考えている。
『あなたは、夜の住人になれる?』
琳の声が、意識の奥に沈んでいる。
(……昨日のことばかり考えてるな)
ふと、教室の隅に目を向ける。
花瓶の中に活けられた緑のカーネーション。
琳の髪飾りと、同じ色。
「……あんた、花好きだったっけ?」
唐突な声に、透は顔を上げた。
柚葉だった。
机に手をついて、軽く覗き込んでいる。
「別に」
「ふーん」
柚葉は、透の視線の先にある花瓶を見やる。
「でも、今じーっと見てたよね?」
「そうか?」
「そう。……ねえ、透って最近誰かと会ってるの?」
軽い声。
けれど、その瞳には探るような色が滲んでいた。
「……なんでそう思う?」
「なんとなく?」
柚葉は、悪戯っぽく微笑む。
「でもさ、なんか最近の透って、ちょっと違う気がするんだよね」
「何が?」
「雰囲気?」
透は、曖昧に笑う。
「気のせいじゃないか?」
「そうかなあ?」
柚葉は、くるりと踵を返し、自分の席へと戻る。
「……まあ、別にいいけど」
透は、再び窓の外を見る。
昼の世界に琳の姿はない。
けれど、教室の中に漂う微かな香りが、一瞬だけ琳を思い出させた。
── まさか。
透は、胸の奥で小さく息を吐く。
琳は、夜にしかいない。
それなのに、彼女の影だけが、心のどこかにこびりついていた。
―――
あれから何日か経った。
昼の光が柔らかく差し込む。
透は、教室の窓際に座りながら、ぼんやりと外を見つめていた。
目の前にはいつもと変わらない風景が広がっている。
けれど、どこか違う。
──琳がいない。
それが、違和感の正体だった。
昨夜の記憶が、何度も蘇る。
彼女の声、指先の感触、夜の静けさに溶け込む微笑み。
『あなたは、夜の住人になれる?』
その言葉が、透の中に静かに沈んでいた。
まるで、夜の影が昼の世界にも忍び込んでいるかのように。
「ねえ、透」
ふいに名前を呼ばれた。
顔を上げると、柚葉が立っている。
「さっきからずっと外ばっか見てるけど、どうしたの?」
「……いや、何でもない」
軽く首を振る。
「ふうん。でもさ、透って最近ちょっと変わったよね」
柚葉の声は軽やかだった。
けれど、どこか探るような色が混ざっている。
「変わった?」
「うん。なんか、前より遠いっていうか……」
遠い。
その言葉に、透は少しだけ視線を落とした。
「別に、何も変わってないよ」
「そう?」
柚葉はじっと透を見つめる。
「……そういえば、そろそろ満月じゃない?」
何気ない声。
しかし、その言葉が透の胸に落ちた瞬間、微かに鼓動が跳ねた。
「……そうだな」
何でもないように答える。
けれど、内心は騒がしかった。
満月の夜。
琳と、再び会える。
透の胸の奥に、ふわりと熱が灯る。
「透?」
柚葉が不思議そうに首をかしげた。
「なんか、今ちょっと嬉しそうじゃない?」
「……そんなことない」
柚葉は唇を尖らせ、じっと透を見つめる。
「ほんとに?」
「ほんとに」
透は曖昧に笑いながら、視線をそらした。
──琳に会いたい。
そんなこと、口にはできない。
でも。
次の夜が、待ち遠しくて仕方なかった。
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