第2話

 美樹は、顔を青ざめさせ、唇をわずかに震わせながらつぶやいた。


「私、実家に帰って朱璃の様子を聞いてみる」


 その声は微かに掠れていた。

 美樹と朱璃は高校の同級生で、ここから車で2時間ほど離れた地方都市の出身だった。

 幼い頃からの親しい関係で、学生時代も、そして俺たちが結婚した後も、互いの実家を行き来していた。


 そんな二人の間に、俺は割り込むように関わり、そして朱璃から美樹へ乗り換え関係を気まずくしてしまったのだ。


「そうだな。行って様子を知らせてくれよ」


 俺は努めて冷静に答えたが、内心はざわついていた。


「わかったわ」


 美樹は返事をすると、すぐに荷物を詰め始めた。

 ボストンバッグに衣類や洗面用具を詰め込む手が、どこかぎこちなく見えた。

 その手を止めることもできず、俺はただ無言でその様子を見つめる。


 まさか、本当に俺のせいなのか?

 そんな考えが過るが必死で否定する、


 いや、違う。

 朱璃は俺と美樹の結婚を、表向きは祝福してくれていた。

 俺との関係も、互いに割り切った大人の付き合いだったはずだ。


 「朱璃、ほんとに大丈夫なのかな……」


 玄関で靴を履きながら、美樹がふと呟く。

 その横顔には、不安と戸惑いの色が濃く浮かんでいた。


「すぐに知らせてくれ」


「うん……行ってくる」


 バタン。


 玄関のドアが閉まる音が響き、俺は一人きりになった。

 リビングに戻ると、胸の奥から焦りと後悔が沸々と湧き上がってくる。

 何か、嫌な予感がする。


 テーブルの上に放置されたままの缶ビールを手に取り、苛立ち紛れに煽る。

 すっかりぬるくなり、舌にこびりつくような苦味が広がった。


「まずいな……」


 唇の端から溢れた液体を右手の甲で乱暴に拭い、左手でアルミ缶を握り潰す。

 クシャリと鈍い音がした。

 ソファーにドカッと身を預け、深いため息をつく。

 朱璃と別れて、美樹と結婚して、それで終わりのはずだった。

 だが、そうはならなかった。


 結婚して数年が経ち、生活が落ち着いてきた頃だった。

 突然、朱璃から連絡が来たのだ。


『久しぶり、元気?』


 何気ないメッセージだった。

 そこに深い意味はないと思っていたし、俺も軽い気持ちで返した。


『久しぶりだな。まあ、元気にやってるよ』


 そこから数日後、朱璃と再会した。

 ただ食事をするだけのつもりだった。

 けれど、結局、そうはならなかった。

 久しぶりに会った朱璃は、以前と変わらず美しかった。

 少し髪が伸び、色気が増したようにも見えた。


『なんか、懐かしいね。こうやって飲むの』


 グラスを傾けながら微笑む朱璃。

 少し上気した頬、潤んだ瞳、甘い香り……。

 その夜、俺たちはホテルへ行った。

 熱いキスを交わし、肌を重ねた。

 その時、俺には罪悪感など微塵もなかった。

 ただ、懐かしさと、刺激を求める本能に身を委ねていた。


 それが間違いだったのか?


 先週会った時のことを思い出す。


 朱璃は普段と変わらない様子だった。

 イタリアンレストランで美味しそうに食事をしていたし、ホテルでも楽しそうに笑っていた。

 それなのに……。


「なんで……」


 低く呟いた時、不意にスマホが短い振動を伝えた。

 美樹からの連絡メールか?

 そう思いながら画面をタップした。

 しかし、そこに表示されたのは、美樹の名前ではなかった。

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