騙る ~ 蜘蛛の巣に落ちて ~
安里海
第1話
俺、中村秀敏は、都内の古びたマンションで妻の美樹と暮らしている。
結婚してまだ2年。しかし、築30年の2LDK、7階の部屋は、新婚らしい生活にはほど遠い。高騰し続ける家賃に背中を押されて、ここを選ぶしかなかった。
都内の自動車ディーラーで営業をしている俺は、日々、売上ノルマとクレーム対応に追われている。正直、仕事が楽しいと思えたことはほとんどない。
疲れて帰ってきても、休まる時間はほんのわずかだ。
夜、仕事から帰ってきた後は、静かに過ごしたい。
それなのに、美樹のスマホから着信を伝える音楽が鳴り響いた。
TVのロードショーが佳境を迎えていたタイミングだっただけに、思わず舌打ちが出る。
ましてや、一番良いシーンでスマホの着信音なんて聞きたくない。
興を削がれた俺は、ソファに深く腰掛けながら、美樹に鋭い視線を向けた。
その視線に気づいたのか、美樹は何も言わずにスマホを手に取ると、リビングを出て寝室へ向かい、ドアを閉めた。
だが、この2LDKの賃貸マンションはそれほど広くない。
ドアを隔てても、時折、会話の声が漏れ聞こえてくる。
しばらくすると
「ええっ! ウソでしょう!」
美樹の悲鳴のような声が聞こえた。
思わずテレビの画面から視線を外し、寝室のドアの方を見る。
妻にしてはかなり大きな声だ。普段は感情をあまり表に出さないタイプなのに、ここまで取り乱すということは……。
何かただならぬことが起きたのだろう。
リモコンで音量を下げ、俺はソファに肘をついて考える。
深刻な話だろうか。
それとも、ただの驚きか……?
いや、あの声のトーンは……。
バタンッ!
寝室のドアが乱暴に開き、美樹が駆け込んできた。
肩で息をしながら、手に持ったスマホをぎゅっと握りしめている。
顔は青ざめ、目は見開かれ、ひどく動揺しているのが一目で分かった。
「秀敏、大変だよ……朱璃が……朱璃が……危篤だって……!」
胸の奥が、ズキリと痛んだ。
「マジか……?」
それしか言葉が出てこなかった。
美樹の手から滑り落ちそうなスマホを、俺は呆然と見つめる。
何故なら……朱璃は、俺の元カノであり、美樹の親友だったからだ。
頭の中に、過去の記憶がフラッシュバックする。
当時、朱璃と付き合っていた俺は、美樹を「親友」として紹介された。だが、初めて会った瞬間から、美樹の雰囲気や知的な佇まいに惹かれてしまった。少しずつ、朱璃よりも美樹と過ごす時間の方が楽しくなり、気づけば、俺は美樹を選んでいた。
結局、朱璃を裏切る形で別れ、美樹と結婚した。
朱璃には悪いことをしたのは、わかっている。
だが、あれから何年も経った。
時間がすべてを風化させたと思っていた。
「危篤だなんて……信じられない」
美樹が震える声で言った。
俺はうまく答えられなかった。
まさか……俺のせいか?
喉がカラカラに渇く。心臓がざわつく。
いや、そんなはずはない。
朱璃は俺たちの結婚を表向きは祝福していたし、恨まれている様子もなかった。
彼女は俺たちの前では明るく振る舞い、過去のことなど気にしていないかのようだった。
なのに、どうして今になって……?
なぜ、朱璃は……?
何か、見落としていたことがあったのか?
「私、朱璃のところに行く」
美樹の言葉で我に返った。
「えっ?」
「同郷だし……放っておけない」
妻の目には、迷いがなかった。
その瞳を見つめながら、俺の中に、一つの疑念が生まれる。
珠璃の危篤の原因は?
病気だなんて聞いた事も無い。
それなら、事故か……それとも?
言葉にならない不安が、静かに、俺の背筋を這い上がってきた。
「なあ、珠璃は、何でそんな事になったんだ?」
俺の問いかけに美樹は瞳を揺らしながら答えた。
「なんか、薬の過剰摂取だって……」
「それって、自殺を……?」
俺たち夫婦の心配は同じところにあった。
朱璃が自殺を図った原因が、自分たちにあるに違いないからだ。
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