第6話 潜入作戦
甲板に戻ってくると、背後には徐々に遠ざかっていくプローダの街並み、そして前方にはどこまでも続く大海原が広がっていた。
「うわっ、凄い!」
ケイトは甲板の手すりから身を乗り出した。
「おい、目立つような行動をするな」
一介の船乗りが甲板ではしゃいでいたらとても怪しまれる。スレインはケイトに注意したが、彼女は船の近くに寄ってきたカモメの群れに向かって、無邪気に手を振り始めた。
バタンと大きな音がして、船内へ続く扉が開き、中から船長のマンフレッドが出てきた。
これはまずい。今のケイトの姿を見られたら、間違いなく咎められる。そして、正体も露見してしまうだろう。
すぐにケイトを連れてこの場を離れなければ……。スレインは彼女の肩に手を伸ばしたその時、マンフレッドの胴間声が飛んできた。
「おい、そこの二人っ!」
……ああ、終わった。スレインは早すぎる敗北を悟った。
マンフレッドは厳つい表情を浮かべ近づいてきた。
「呼ばれたらすぐに来いっ!」
「申し訳ありません」
スレインは謝罪の言葉を口にして、顔をはっきりと見られないよう首を垂れた。最後の悪あがきだった。
一方、ケイトは大きく目を開けて、マンフレッドの顔をじっと見つめた。
なんて、大胆な奴! それともケイトにはこの窮地を脱する策があるとでもいうのか? スレインは高まる心拍数を感じながら、横目でケイトの様子を見守った。
マンフレッドは眉間に皺を寄せて、ケイトの顔を見返した。
「お前……海は初めてか?」
「そうじゃないけど、こんな大きな船に乗るのは初めて」
何普通に受け答えしてるんだ! と、スレインが心の中で突っ込んでいると、突然マンフレッドはニヤリと黄色いシミがたくさんついた歯を見せて笑った。
「そうか。滅多にない経験だからな。いい思い出になるな」
「はい」
「しっかり働けよ」
どうやら侵入者だとは気づかなかったようだ。これだけ大きな船なら、船長ですら船員全員の顔は覚えていないのかもしれない。
これなら何とか逃げ切れるか、とスレインが安堵した直後、マンフレッドはスレインの方を睨みつけてきた。
「おい、そっちのお前」
「は……はい」
「なんだ、その長い髪は……しかも黒髪だと」
マンフレッドの蔑むような声に、スレインは軽く唇を噛んだ。
不吉な象徴として差別の対象になってきた黒髪について、スレインも小さな頃から散々言われ続けてきたから、今となっては聞き流す術も心得ているし、多少のことでは動揺しない。だが、そんなことを言う人間に対して好意が持てるかどうかは、また別問題だ。
「不吉だ。その髪、切れ」
マンフレッド自身は貴族出身には見えなかったが、黒髪を強く気にするあたり、強い影響は受けてきたのかもしれない。
「いや、それは……」
スレインは俯いたまま答えた。たとえ周りから白い目で見られようと、両親から受け継いだ身体に誇りを持っている。だからスレインはこの黒髪を隠したり染めることはしない。それどころかあえて長く伸ばしているのは、差別に対する反骨と共に……実は単純に、結構格好良くないか? 長い黒髪って? などと思っていた。
「船長の言うことが聞けねえって言うのか!」
マンフレッドは大声で怒鳴ると、スレインの黒髪を掴んで引っ張った。
「俺はお前の部下じゃねえ!」
と、言い返したいところだったが、散々ケイトに注意しておきながら、こっちが正体をバラすような真似をしては元も子もない。
マンフレッドは黒髪をさらに強く引っ張った。
「切らねえなら、今すぐこの船から降りやがれ!」
……さすがに我慢の限界かもしれない、そう思った時、再び船内への扉が開いて、青白い顔の男が出てきた。先ほどジェラルドと一緒に甲板に登ってきた男だ。
「マンフレッド船長」
名前を呼ばれたマンフレッドは、男を見ると、上司に呼ばれた下っ端役人のように、すぐさま走っていった。
あの青白い顔の男はジェラルドとどういう関係だろうか? 先ほど甲板の下でジェラルドに怒鳴られていたようだが。まあとにかく助かった。マンフレッドの気が逸れているうちに、ケイトを連れてここから離れようと思った直後、再びマンフレッドの声がした。
「おい、そこの二人!」
……逃げられなかった。ますます厄介なことになりそうだ、とスレインが困惑している横で、ケイトは、
「はーい」
と、清々しい返事とともに、自らマンフレッドの方へ向かっていった。
「……マジかよ」
数秒ほどケイトの後ろ姿を愕然と見つめていたが、一人だけここに突っ立っていたら余計怪しまれる。しかたなく、スレインもケイトの後を追った。
マンフレッドは駆け寄ってきたケイトを見て言った。
「こちらは、ジェラルド様の執事をされているセバーノ殿だ」
青白い顔の男は硬い表情のまま、スレインたちに向かって軽く頭を下げた。
「乗客の方々にアヴェントラ号を案内して欲しいとのことだ。お前たちがやれ」
この船にはジェラルドやその妻以外にも、ジェラルドが呼び寄せた友人たちが乗っているらしい。
「了解しました」ケイトは敬礼した。
「えっ?」
スレインはぎょっとしてケイトを見た。ここで断ったら怪しまれてしまうから、引き受けざるをえないことはスレインも同意する。しかし、船の構造なんてまだほとんどわかってないのに、なんの躊躇もなくはいと答えるなんて、彼女はどれだけ肝が座ってるんだ。
「じゃあ、頼んだぞ」
マンフレッドはケイトに向かって声をかけてから、ギロリとスレインを睨みつけた。
「俺の前で、二度とその黒髪を見せるな。今度見つけたら、俺の手で丸刈りにしてやる」
と、低い声で脅し、甲板の奥へ行ってしまった。
二度と会いたくない、という気持ちはスレインも同じだった。
スレインとケイトはセバーノと一緒に船内に入ると、乗客たちが待つという娯楽室へ向かった。
これまでにスレインが乗ったことのある船といえば、一番大きなものでも、小さな調理場と乗客と船員が一緒になって雑魚寝する部屋がついている程度のものだったので(それでも運賃は相当高かったことを覚えている)、娯楽室なんて洒落た部屋があると聞いて、さすが大富豪の船だと恐れ入った。
そして、さすがは大型船。波の揺れはほとんど感じられず、自分が船の上に立っているとは思えなかった。これなら船酔いも怖くはなさそうだ。
娯楽室の前に到着した。セバーノを先頭に中へ入ると、コの字型に並んだ三つのソファーにそれぞれ一人ずつ男が座っていた。
一人は中肉中背の初老の紳士で、背筋をピンと伸ばして船窓から見える海原を見つめていた。もう一人は、初老の紳士と同年代くらいの茶色い法衣を着た男だった。片手にワインボトルを持ち、顔は真っ赤で、すっかり出来上がっている様子だ。そして最後の一人は、ケイトと同じくらいの年頃の青年で、スレインたちが入ってきたことにも気づかず、真剣な表情で分厚い本を読んでいた。
「げっ!」
と、スレインの背後から、ケイトの声がした。
振り返ると、彼女は誰かの視線から逃れるかのように背を向け俯いていた。あのマンフレッドに対しても堂々と顔を上げていたのに、一体どうしたことだろう。
「何かあったのか?」
「いや、その……」
ケイトが何か言いかけた時、セバーノが乗客たちに呼びかけた。
「それでは皆さん。船の見学に参りましょう」
「わしはここにいるよ」法衣を着た男が言った。「それよりも新しいワインを持ってきてくれんか?」
「メルト猊下、飲み過ぎは体に良くありませんぞ」
初老の紳士が苦言を呈した。
「何をおっしゃいます、ラウロ殿。酒は神より賜りし命の水。拙僧は誰よりも多く神の恩寵をこの身に受けたいと願っているだけですよ」
メルトはゲラゲラと笑い出し、ラウロと呼ばれた初老の紳士は呆れた表情を浮かべた。
「ワインは後で届けさせます」セバーノはメルトに言って、若い男の方を見た。「ピエトロさんはどうしますか?」
ピエトロと呼ばれた男は、本に視線を向けたまま微動だにしなかった。
「あの、ピエトロさん?」
もう一度、セバーノから呼びかけられて、ようやくピエトロは顔を上げた。
「えっと、何か?」
「あの、船の案内はどうしますか?」
「あっ、ええっと」ピエトロは読んでいた本を一瞥した。「丁度良いところなので、僕はここにいます」
ケイトの口からほっと息が吐かれた。彼女はまだ乗客たちから背を向けていた。
「何やってる」スレインはささやいた。「そんな態度じゃ、怪しまれるだろ」
「い、今は、非常にまずいの」
ケイトは硬い声で答えた。この態度の変わりよう……いったい何が?
「まさか……」
スレインの脳裏に非常に厄介な推理が浮かんできた。それをケイトに確認しようとした時、セバーノの声がした。
「では、船を見て回るのはラウロ先生だけ、ということで。船員さん、あとはお願いできますか?」
「あっ、はい」
スレインはラウロの方に体を向けて、敬礼をした。
「よろしく」ラウロはソファーから立ち上がった。
「じゃ、早く行きましょう」
ケイトはラウロの腕を取ると、娯楽室の出口に向かって引っ張り始めた。
「な、何するんですか?」
ラウロは困惑した表情を浮かべたが、ケイトは構わずさらに強く腕を引っ張った。
「いいから、早く」
その時、ピエトロが本から顔を上げた。
「ケイト・イマーシ」
ケイトはぴたりと動きを止めた。
「どうして君がここにいるんだ?」
「ひ、人違いでは?」
ケイトはピエトロを背にしたまま言った。
「いや、君のことは嫌でも覚えている。まさか、海賊王の宝目当てに、船員に偽装して潜り込んだのか?」
乗客たちの視線が一斉にケイトに注がれた。
「うーん」
ケイトは唸った後、唐突にピエトロたちの方を向いた。
「バレちゃあ、しょうがない」
と言って、ペロリと舌を出した。
スレインは嘆息した。
潜入作戦は出航後一時間足らずで失敗に終わってしまったようだ。
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