第4話“エピローグ”

 サバの一件から数日後。

 窓辺に置かれた古いクッションの上で、サバは体を丸くしていた。

 時折、新しくなった赤い鈴が静かに揺れ、太陽に照らされた灰色の毛がほのかに光る。

 メイは床に座り、サバに餌をやりながら優しく話しかける。


「サバ、ちゃんと食べてね。うちの子になったんだから、元気になってよ」


 サバは緑の目でメイを見上げ、小さく「ニャア」と鳴いた。

 餌を咥え、ゆっくり噛む姿には、怯えが薄れつつある様子が見て取れる。

 

 「そういえば」と切り出し、偉大はデスクの引き出しから一枚の封筒を取り出した。

 茶色い封筒の表面には、几帳面な字で『依頼料』と書かれている。


「メイ君、今回の案件の報酬だよ。君に渡すと言っていたからね」


 封筒と渡されたメイは、何の事か腑に落ちていないようだ。


「田中さんから預かったのだよ。要らないと突き返したんだがね。“迷い猫を探すという依頼は遂行されているから”ということらしい。根は律儀な男だよ」

「あ、なるほど。ありがとうございます」

「あの男の中では、この封筒はある意味、今までの自分との決別も意味しているのかもしれないな」

「決別、か」

「彼は長年に渡り、家族の為に身を粉にして仕事に従事してきた。だが、妻子にとってその姿は“家庭を顧みない父親”として映ったのだろう。やがて、冷めていく関係性から目を逸らすように、家族に愛情を向けることすら否定していった……」


 あの一件の後、田中茂からそんな話を聞かされた。


「よくある話ではあるがね。ただ家族の為に働く事を正義と捉えていた田中さんにとっては、その理不尽さに耐えきれなかったのだろう」

「そっか。これから良くなっていくといいですね」

「ま、心配はいらんだろう。また元の道を歩めれば、あの男ならどうとでもなる」

「ふーん。なんか……」


 メイは不思議なものをみるような目線を偉大に向けた。


「ずいぶん田中さんに肩入れしてますね」

「ふむ、そうだろうか」

「うん、なんか、先生が他の人を評価してるのって珍しい気がします」


 そう言われて、偉大は己の心を省みた。


「似ている……のかもしれないな」

「田中さんと先生がですか?」

「そうだ。昔の私と、だがな」

「昔の先生……。お母さんといた頃かな?」

「ああ」


 メイのお母さん、つまり偉大の姉である紫宮嵐華しのみやらんか


 偉大は遠い過去を懐かしむ。

 記憶の欠片を辿るように、言葉を探していく。


「我が姉は、まさに天が与えた才覚の持ち主だった。“万物に耳を傾ける”と呼ばれる程の洞察力は、もはや常人の理解は及ばない領域に達していた」


 誰もが認める不世出の天才、それが紫宮嵐華という人間だった。偉大が物心つく前から既にその才能を見せ、学生時代にはその研ぎ澄まされた洞察で数々の難事件を解き明かし、日本中から注目を浴びた。そして活躍の場を海外に移した今なお、数々の未解決事件を鮮やかに解決し続けている。

 その経歴は真に輝かしいが、故に偉大には眩しすぎた。


「他方、凡才しか持ち得なかった私は、そんな天才についていくために、ただ必死に努力し、学び、やがて気付けば、人として残すべきであった倫理の道を外れてしまっていた……」


 嵐華の弟として助手として、共に駆け抜けた時間が思い起こされる。

 そしてその果てに辿り着いた、偉大の終着点も……。


 「いずれにせよ」と偉大は会話を切り上げた。


「一度道を外れたとしても、やり直す意思を見せれば元の道に戻る事は出来る。誰かの助力を得る事もな。世間とは、そういうものだ。……おそらくそれは、人も猫も同じであろうな」

「うん、そうですね。私もそう思います」


 偉大は足元のサバを見下ろす。

 今はまだ汚れ、痩せこけ、人に対する恐怖心が拭いきれていない。それでも、この子の生きる意志を見捨てなければ、小さな命は未来へ続いていく。

 偉大は、自分自身と、田中茂と、サバと名付けられたこの灰色の猫とを、心の中で重ねていた。

 小さい足音が鳴り、サバが足元に近づくのを感じた。

 偉大はコーヒーカップを置いて、サバを見下ろした。


「ほう、私にも慣れてきたのか。意外と人懐っこい」


 メイが振り返り、笑顔で言った。


「サバ、叔父さんのこと好きですよ。私が探し出したんだから、家族みたいなもんです」


 偉大は「そうか」と呟きカップコーヒーを一口飲んだ。

 事務所に穏やかな空気が広がった。埃っぽい部屋に、コーヒーの香りとサバの足音が混じる。


「でもさ、もしここから逃げたら大変だね。また探しに行ってあげるからね、サバ」


 メイがサバを抱きかかえる。サバは首を傾げ、メイの手の下で小さく喉を鳴らす。


「もう追いかけるのは嫌だな」


 偉大は窓の外を見やり、静かに呟いた。



「サバは足が早い」




『“偉大な探偵”と迷い猫』 完


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“偉大なる探偵(自称)”と迷い猫 落花らっか @ochibana_rakka

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