第3話
「待たせたね」
住宅街のペットショップ前で、偉大とメイは合流した。陽は既に傾き始め、街は夕暮れに染まっている。
「遅かったね」とメイが言うと、偉大は「少し調べものだよ」とだけ返した。
彼女の腕には新しく買ったペット用のキャリーバッグが抱かれている。その中ではサバが小さく丸まっていた。キャリーの隙間から覗く緑の目が、夕陽に照らされてかすかに光る。
依頼主である田中の家は、ここから数ブロックあるいた場所にある。
その道すがら、偉大が口を開く。
「田中は一軒家に一人暮らしをしている。近隣住民に話を聞くと、周囲との関係は良好……だった」
「だった?」
偉大は少し言い淀んだ。
「まぁ、色々あったんだろうな」
そこで言葉を濁したのは、自分の考えが証言に基づいただけの不確かなものだったからだ。確かな事は、これから実際に会えば分かるだろう。メイも偉大の意図を汲んで、それ以上には追及しなかった。
「サバ、大丈夫かな」
隣を歩くメイが不安げに呟いた。
ほとなくして、二人は田中の家にたどり着いた。古びた一軒家の門前には、雑草が伸び、表札に「田中」と薄れた文字が刻まれている。
チャイムを一回ならすと、家のドアが開き、田中茂が姿を現した。
会うのはこれで二回目だ。
よれのないシャツに整った髪型、見た目だけであれば真っ当な人間に見える。だが、やけに目を逸らすその態度に、やはり不自然さが滲んでいた。
「田中さん、依頼通りサバを見つけました」
田中はキャリーの中の“最愛の家族”を見て、目を細めて明るく笑った。
さっそくメイに近づこうとする田中を、偉大が腕を伸ばし鋭く制した。
「その前に少し、話を聞かせてくれ」
田中の笑顔が凍りつき、頬が引きつった。偉大は瞬きもせずその顔を見据える。
「君が“最愛の家族”と呼ぶ猫が、なぜあんな状態だったのかね? とてもまともな飼育環境にいたとは思えないが」
田中は唇を歪めて笑い返し、「逃げただけだよ」と答えた。声がわずかに上ずる。偉大は一歩近づき、冷徹に切り込んだ。
「逃げただけ? それはおかしいな。聞き込みの結果、近隣の証言が一致してる。君はサバに餌をろくに与えず、怒鳴ってばかりだったそうだ。瘦せこけた体、汚れた毛、怯えた目。……あれは飼育放棄の結果だ。違うかね?」
田中が口ごもると、偉大は淡々と畳みかけた。
「君が過去、飼っていた猫の名前を挙げてみようか。サバの前は、シロ。その前はスズ、さらに前は……ヨシオでしたかな。ずいぶんと猫がお好きなようで」
近隣住民から得た過去の飼い猫の名前を羅列すると、田中は少し驚いた顔で頷き、穏やかに答えた。
「ええ、懐かしい名前だ。皆、僕の家族だと思ってるよ」
偉大は目を細め、低く問いかけた。
「そうか。では、皆どこに行ったんだ?」
田中が一瞬言葉に詰まり、「それは」と呟く。偉大は間髪入れず続けた。
「ペットを家族のように扱い、悲しい別れがあれば新しい命を預かる。それは自然なことだ」
偉大は、田中に顔を寄せ、言い聞かせるように言った。
「だが、それがここ1年間で起きた話でなければね」
田中の顔が青ざめ、手が微かに震えた。偉大は冷たく、だが確信を持って言い放った。
「1年で4匹だよ、田中さん。シロ、スズ、ヨシオ、そしてサバ。皆、君の手元から消えた。逃げたのか? 死んだのか? それとも捨てたのか? 近隣の証言では、どの猫もやせ細り、怯えていたそうだ。サバだけが特別じゃない。君の“家族愛”は、どうやら一貫してるらしいな」
田中が「違う」と反論しかけると、偉大は手を上げて遮った。
偉大は田中の震える顔を見つめ、静かに言葉を紡いだ。
「昔の私なら、こんな事実は見過ごしたかもしれない。依頼料さえ貰えれば良い。倫理観を失った目で、君にこの猫をお返ししていただろう」
偉大の声は低く、過去の自分への嫌悪が滲む。
背後で、メイがサバを抱いた腕に力を込め、息を詰めて田中を睨む気配が伝わってきた。偉大は一瞬目を閉じ、再び開いて田中を射抜くように見つめた。
「だが、今は違う。はっきり言おう。君のような人間に命を預かる資格はない」
その言葉に、メイの小さな吐息が重なり、サバのキャリーがわずかに揺れた。
偉大はポケットから封筒を取り出し、田中の手に押し付ける。
「依頼料はお返しします。こんな金で良心は売れない」
田中の手が震え、封筒が床に落ちる。その感情は怒りか失望か、または別の何かか。田中の瞳の奥には暗い感情が渦巻いていた。
メイが一歩下がり、サバをぎゅっと抱きしめる気配が、彼の背中に静かに響いた。
「依頼はこれで終わりだよ、田中さん。今後のことは然るべき機関に任せるつもりだ。さて、何か言いたいことはあるかね?」
田中は震える声で、絞り出すように告白した。
「妻と息子に出ていかれて、僕にはこの寂しさが耐えられなかった。猫達に満足な生活を与えられていなかったのは、事実だ。生き物に当たっていたのは……僕が、弱かったからだ」
偉大は目を閉じ田中の言い分を聞き終えると、少し語気を強めて言葉を返した。
「寂しさが言い訳になるなら、誰もが罪を許される。だが、命には君の都合など関係ない」
内心で、かつての自分がちらつく――依頼料さえ手にすれば、どんな事実も目を背け、冷めた笑みを浮かべて猫を渡していたかもしれないあの頃の影が。
「自らを律する覚悟がないなら、生き物を預かる資格はないんだよ」
田中は目を伏せる。
「ただ僕は、寂しさや虚しさを紛らわせようと……」
絞り出すように呟いた。
偉大は一瞬黙り、冷たく畳みかけた。
「紛らわせる? その無念を猫達にぶつけたのかね? 生き物を預かるというのは大変な役目だ。餌をやり、守り、命を預かる。本来、それが君に課された義務だったはずだ。だが、君はそれを放り投げて寂しさに溺れた」
田中の反論が無いのを確認し、偉大は続ける。
「猫達が君に何を求めたか、分かるかい? 君からの虐待を受けていた、あの辛く痛い日々の中で、それでも君を親と信じていた猫達は、一体君に何を求めていた?」
偉大は田中の肩に手を乗せた。投げかける言葉に込めた、自分の思いが少しでも伝わるように。
「“愛情”だろう? それは家族としてのぬくもり、安心感、居場所だ。君はそれを与えることが出来なかった」
「これは私の想像でしか無いが」と偉大は前置きした。
「きっと、今の君は他人に愛を向けるのを恐れているのではないかね。かつて家族とも離れたのも、それが原因では無いか?」
田中の肩が震え、顔を上げる。
「そうだ。僕は……愛情の与え方が分からない」
近隣住民への聞き取りと、実際に当人と会話をした結果のプロファイリングだったが、あながち見当違いでは無さそうだ。
「僕は逃げていたんだ……人を愛する事から、他人に愛される事から。だから、すべてを壊して、“家族”を失ってしまった」
田中は膝をつき、両手で顔を覆って崩れ落ちる。
「分からないなら、学べばいいじゃないか。家族が君に求めていたのは、なにも完璧な愛じゃなかったはずだ」
田中の声は涙に震えていた。
偉大は、諭すように穏やかに告げる。
「やり直せばいい。他者を愛する事に向き合って、その中で見つければいい。逃げなければ、前に進めるはずだ」
「それが怖いんだ」
「怖いのは分かる。だが、逃げ続けた先に何があった?」
「……それは」
「このまま虚しさだけ抱え、その歪んだ感情を暴力として発露し続けるつもりかね」
「……」
「そうじゃないだろう。かつては“幸せな家庭”を築けていたはずだ。それは君の近隣の人達も認めている」
聞き込みの情報では、田中家は仲睦まじい家庭であったとの証言が多かった。何がきっかけで崩れてしまったのかは偉大の知る所では無い。だが、かつて田中茂という男が正しく家族を愛せていたのは事実なはずだ。
「……僕は、もう、誰も、愛せないんじゃないか……って」
偉大は、辿々しく発せられる田中の言葉を待った。
「今からでも間に合うだろうか」
田中が顔を上げ、不安と希望が入り混じった目で呟いた。
偉大は静かに言い切った。
「いつだって、やり直す事に遅いなんてない」
「怖くても……もう一度と、そう思えるだろうか」
田中の声に微かな決意が宿り、涙が頬を伝った。偉大は肩をすくめ、シニカルに微笑んだ。
「君が悔い改め一歩を踏み出すなら、世間がそれを見逃すことは無いだろう」
偉大がそう言葉を投げかけると、田中は声を上げて泣き始めた。今まで溜まっていた詰まりが取れたように、感情の洪水が溢れ出ていくように。
偉大はしばらくその姿を見つめていたが、踵を返しメイに「行こう」と告げる。メイは少しだけ戸惑い偉大と田中の顔を見返したが、すぐに頷いて付いてきた。
遠ざかっていく田中の声を聞きながら、偉大は「らしくないな」と呟いた。
警察の介入は曖昧に残した。近隣の証言があれば動物虐待として立件の可能性もあるが、偉大は田中の自省に一縷の望みをかけることにした。
数日後。
事務所の夕陽が窓から差し込み、狭い部屋を橙色に染めていた。
偉大はデスクに腰かけ、カップコーヒーを手に持つ。
メイは床に座り、サバを膝に乗せて背中を撫でていた。
サバの灰色の毛はまだ汚れているが、緑の目にはわずかな穏やかさが宿っている。
偉大が口を開いた。
「さて、これからサバをどうしようか。所有権は田中から譲り受けたものの……。後は、保健所に送るか、里親を探すか、になるな」
メイはサバを見下ろし、少し困った顔で答えた。
「保健所は嫌だな。里親を探すのもいいけど、うちのアパートじゃ飼えませんし。ねえ、“偉大先生”、お願いがあるんですけど」
偉大は彼女の意図を察し、眉を上げて笑った。
「まさか……この埃っぽい事務所で飼えと言わんだろうね? サバの毛でさらに汚れるぞ」
メイは目を輝かせ、柔らかく笑い返した。
「先生なら、サバのことちゃんと見てくれますよね? 私も面倒見ますから! ねえ、お願い」
偉大はため息をつき、コーヒーを一口飲んだ。
メイとサバ、一人と一匹からの視線を感じ、ため息をついた。
「まあ、うちにいてサバが逃げなけりゃいいがね。保健所に送られるよりはマシだろう」
それは肯定の言葉だ。田中に大見得を切っておいて、自分がこの小さな命を見捨てるのは筋が通らない。
メイが「やった!」と小さく声を上げ、サバを抱き上げた。
「叔父さん、優しいですね」
「優しいわけではない、面倒を押し付けられただけに過ぎない。あと、私の事は“叔父さん”と呼ぶな」
「はいはい、先生」
二人の間に、穏やかな空気が流れる。
サバの未来は、ひとまずこの小さな事務所に落ち着くことになった。
埃っぽい事務所に、新しい足音が響き始めた。
「それもまぁ……悪くはないか」
偉大は暮れていく空を見つめながら、メイとサバが戯れる声をただ聴いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます