第2話


 昼前の雑居ビル周辺は、車の排気音と階下の喫茶店「白樺」の豆を挽く音が混じり合っていた。

 紫宮偉大は、白髪混じりの髪をかき上げ、依頼メールの情報を頭に叩き込んでいた。

 依頼主の田中茂たなかしげる、50代の男。

 最愛の猫「サバ」が逃げたと嘆く一方で、今朝会いに行った時、前金の5千円を渡す態度が妙にそそくさだったのを思い出す。


 気になるところはあるが、今はまだ情報が足りない。まずは迷い猫を無事に探し出すところからだ。

 偉大は事務所を出て、まず階下の「白樺」へ向かった。

 カウンター脇に立つと、店主に淡々と尋ねる。


「灰色の猫、緑の目、赤い鈴の首輪。名前はサバ。この辺で見なかったかね?」


 恰幅のいい店主は、エプロンで手を拭きながら首を振った。


「いや、見ないね。野良はみるけど、首輪付きは珍しいよ」

「ふむ、そうか。分かった」


 次に、近所のコンビニへ。

 買い物ついでに若い店員に訊ねた。


「灰色の猫? ゴミ捨て場で見たかも。汚くて細い奴だったな」

「時間は?」

「昨日、夕方くらいっす」


 偉大は軽く礼を言い、買った商品をポケットに入れた。

 店を出ると小さく頷き、呟いた。


「……まだ生きてるならいいがね」


 さらに周辺での聞き込みを続ける。

 田中氏が住むアパート近くにて、一人の老婆から興味深い話を聞き出すことが出来た。


「田中さんとこの猫?  なんて名前だったかな。あそこはしょっちゅう名前変わるからねぇ」

「……ふむ」


 公園にて老婆の証言を聞き、偉大は目を細めた。

 時計を見ると、午後12時半。そろそろメイと合流する時間だ。

 待ち合わせ場所は、目撃情報があった近所のコンビニと伝えてある。


 コンビニの駐車場で待っていると、やがて、メイが軽快な足取りで現れた。肩までのブラウンヘアが汗で少し乱れている様子をみるに、ここまで走ってきたようだ。

 彼女は偉大の姿を見つけると、柔らかく笑った。


「先生、もう来てたんですね。サバ、見つかりました?」


 偉大は首を振って答えた。


「いや、朝から聞き込みしたんだが、まともな目撃情報はここのゴミ捨て場くらいかね」


 「それよりも」と偉大は顎髭の剃り残しを触りながら続けた。


「飼い主の田中って男、まともな人間じゃないかもしれないねぇ」


 メイの眉が寄る。小さくため息をついた。


「そうですか……。サバちゃん、無事に見つかるといいな」


 どこか遠い目をしたメイに、偉大は肩をすくめた。


「まぁ、探し回る役目はメイ君に譲るとしよう。私は猫と追いかけっこ、なんて歳じゃないからね」

 

 二人はコンビニ周辺を歩き始めた。

 迷い猫の捜索は、まず目撃情報が生命線だ。しかし、今回の対象は広範囲を移動する体力が残っていない可能性がある。行動範囲が狭くなれば、目撃情報も減る、と偉大は考えていた。

 捜索が難航することは目に見えていた。偉大は眉を寄せ、メイも辺りをくまなく散策していく。

 二人は、手がかりひとつ得らず、徒労感だけを積み重ねて公園へたどり着いた。

 野良猫はいるが、数匹が遠くでうろつくだけで、そのどれもサバとはまるで違う見た目だった。

 偉大が「このままじゃ日が暮れるな」と呟いた時、メイが立ち止まり、明るい声で言った。


「ねえ、先生。野良猫ちゃんに聞いてみましょうよ」

「……ほーう」


 正気か、という言葉はギリギリで飲み込んだ。


「捜索を開始してから小一時間。まだ錯乱するには早いんじゃないかね、君」

「違います違います、ほら私、動物園でバイトしてたから、動物の声がわかるんですよね」


 「何が違うのかね」と偉大は一瞬目を丸くし、呆れたように彼女を見た。

 メイはキョトンとしている。大きな瞳が一層丸くなり、小首をかしげる。

 いやキョトンとしたいのはこっちの方だ、と偉大は思った。


「猫の声がわかる? 君、またメルヘンな冗談を……」

「いいからいいから」

 

 メイは笑って、近くの野良猫に近づいた。

 しゃがみ込み、柔らかい声で話しかける。


「ねえ、灰色の猫、赤い鈴つけてる子、知らない? この辺にいるかな」


 偉大は後ろで腕を組み、眉を上げて見守る。

 話しかけられた黒白の野良猫は、メイの顔をじっと見上げ、小さく「ニャウ」と鳴いた。


「ふぅん、あっちの方か。ありがとね」


 彼女が立ち上がると、それに合わせ黒白猫がゆっくりと歩き始めた。

 まるで「ついてこい」と言っているようだった。


「メイ君。君、なんだね、動物園で曲芸でも仕込まれてきたのかね」

「ほら、私結構器用ですから」

「そういう問題かね」

「そそ。動物園の飼育員やっててよかったなぁ」

「いや個人差があるぞ。全国の飼育員が勘違いされそうなことを言うのは止めたまえ……」


 二人は掛け合いをしながら黒白猫の後をついていく。

 公園を抜け、道路を渡り、やがて小さな路地へ向かった。

 ゴミ箱の影に、灰色の毛並みが動く。


「まさか、だな」


 サバだ。

 瘦せこけた体に汚れた毛、片目が濁り、赤い鈴の首輪が擦り切れてだらしなく揺れている。

 “細くて汚いヤツ”……偉大は朝のコンビニ店員の言葉を思い出した。

 サバは、近づいてくる二人の姿をみて、震えながら、小さく小さく唸り声を上げる。僅かに開いた瞳に、人間に対しての不信感、恐怖心、非難……それらが、確かに浮かんでいた。


「かなり弱っている。逃げる体力も無いようだ」


 偉大は捕獲用のカゴを準備しようとしたが、メイは構わずにサバに近づいていった。


「おい、怪我するぞ」


 サバは精一杯に牙を剥き、爪を立てる構えを見せる。

 メイは気にせずその前にしゃがみこみ、手を伸ばす。

 白い腕に赤い傷が走った。だが、彼女は引かなかった。


 ──動物の声が聞ける。


 その言葉の真偽は偉大には分からない。

 だがメイは今、目の前の小さな命から発せられる心の叫びを聞こうとしているのだと伝わってきた。

 唸り声を上げるサバに対して、メイは優しく囁いた。


「サバ、辛かったんだね。私なら大丈夫だよ、傷つけないから」


 偉大はしばらく黙って見守っていたが、メイの一途さに負け、持参していた猫用の餌を取り出した。

 メイはそれを受けとると、柔らかい声で続けた。


「これ、食べてみて。私と叔父さん、君のこと守るからさ」


 サバは長い間、動かなかった。

 メイが差し出した食べ物の香りが漂う中、サバの耳が小さく動き、濁った緑の目が一瞬だけ彼女を捉えた。

 だがすぐに視線を落とし、再び唸りを漏らす。その声は、怯えと諦めの入り混じった、かすれた音だった。

 メイは息を潜め、じっと待った。

 彼女の膝は冷たいコンクリートに触れ、腕の傷が疼くが、そんな痛みは気にならないのだろう。

 「大丈夫だよ、君はもう一人じゃない」メイの背中がそう伝えているようだった。

 やがて、サバが動いた。

 恐る恐る、まるで地面が崩れるのを恐れるように、一歩、また一歩と近づいてくる。

 前足が震え、尻尾がピンと張ったまま、ようやくメイの手にたどり着いた。

 サバは鼻を近づけ、躊躇うように一瞬止まる。

 そして、意を決したように小さく口を開き、餌を咥えた。

 その瞬間、路地裏に静かな風が吹き抜け、赤い鈴がかすかに鳴った。

 メイの手が、ゆっくりとサバの背中に伸びた。

 最初は冷たく硬い毛並みだったが、指先が触れた瞬間、サバの震えが止まった。

 サバは顔を上げ、濁った緑の目でメイを見つめた。

 その瞳には、長い孤独と痛みの後に初めて見つけた光が、ほのかに宿っていた。涙やけで赤い縁が、日光に照らされてかすかに輝く。


「よかったね、サバ。君はもう逃げなくていいんだよ」。


 声は小さく、風に溶けるようだったが、そこには深い安堵と喜びが込められていた。

 サバの目が一瞬瞬き、まるでその言葉を理解したかのように、首をわずかに傾けた。


「ほら、仲間だよ。叔父さんも優しいから、安心してね」


 メイがサバを抱き上げ、偉大に暖かい笑顔を向けた。 

 離れていたところで見ていた偉大は、


「優しい、か。あてにならない評価だな」


 と自分にだけ聞こえるように呟いた。


「しかし、恐れ入ったよ、メイ君」


 偉大は何事も無かったように、ポケットから消毒液のボトルを取り出す。

 ゆっくり近づくと、メイの傷だらけの腕を見やり、静かに差し出した。


「ほら、これで手当てしたまえ。いろいろと無茶が過ぎるよ、君」


 “こんなこともあろうかと”というわけではないが、この消毒液は今朝、聞き込みついでにコンビニで買ってきたものだ。

 メイはサバを抱いたまま、偉大を見上げて小さく笑った。


「え、あ、ありがとうございます。そんなに心配してくれるなんて珍しいですね」


 偉大は鼻で笑い、目を細めた。


「心配じゃないぞ。傷口が汚いままじゃあ、あれだ、見苦しいだけだ」

「ふふっ、じゃあそういう事にしておこうかな」

「ふん。それより、だ」


 偉大はサバを一瞥し、路地を見渡して続ける。


「最後の仕上げだ。依頼主の元へ行こう。この猫をどうするか、決着をつける必要がある」


 メイが力強く頷く。

 偉大は踵を返し、雑居ビルの方へ歩き出す。その背中に、メイの穏やかな声が追いかけた。


「叔父さん、やっぱり優しいよ」


 偉大は振り返らず、ただ小さく肩をすくめた。路地の埃っぽい空気に、消毒液の匂いだけが残っていた。


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