先輩

「‥‥‥、‥‥‥真‥‥‥真紀ッ!」

 名前を呼ばれて、遥か彼方にあった真紀の意識は現実に引き戻された。

 眠い目をこすりながら上半身を起こすと、目の前で紬とななせが食べ終わった弁当を片づけていた。

「やっと起きた。早く支度しないと授業に遅れるよ」

 呆れた表情を浮かべたななせは、テキパキと机の中から教科書や参考書を取り出している。

 紬はため息をつきながら、机を元の場所に戻している。

 壁の時計をよく見ると、もうあと10分ほどで昼休憩が終わる時間だ。他のクラスメートもまばらに準備を始めている。

「まったく、私たちももう最上級生なんだから。遅刻なんて、後輩に示しがつかないんだから」

「どうせ今日も自習なんだから、サボったってわかんないよ」

「そんなわけないでしょ。大体受験だって近いんだから、一回一回の自習も大事にしなさいよね‥‥‥てか、真紀はどこ受けるの?」

 そういう進路の話とか聞かないけど大丈夫なの、と紬は言う。

 オカンか、と真紀は呟く。

「‥‥‥まだ決まってない」

「それこそ何考えてるのッ! もう10月だよ」

「そういう紬やななせはどこ受けるのさ」

 え、わたしたち? と紬とななせは顔を見合わせる。

 そして呆れて言った。

「わたしは星雲経済大学。いつかは彩華いえの経営にも携わりたいんだ。ほら、うちって一つ一つ手作業の上に全部作ってるでしょ。だから、一個一個がすごい高価になっちゃうの。今のところは問題ないけど、少子化で子供の数もだんだん減ってきてるから。人形だけじゃなくて、もっと別のことにチャレンジしていかなきゃいけないと思うから」

「私は国立の星雲大学。星雲は就職率いいって言うし、いろんなことにもチャレンジできるんだよ。学部を超えての講義も参加できるから、自分のキャリアアップにもつながるかなって。それに‥‥‥せ、先輩もいるし」

「あ、そっか。星雲は先輩がいったところか」

「う、うん。星雲目指すって言ったら、オススメの参考書とか勉強法とか教えてくれたんだ。今も、週一で勉強見てくれてるんだ」

「いいな、わたしも勉強教えてくれる人いないかな」

 相槌を打ちながら、紬は真紀の髪を整えだす。元々櫛を入れたかも怪しかったのが、先ほどの昼寝でさらに酷いことになっている。

 そんなこともお構いなしに、真紀は机に突っ伏す。後ろで抗議の声を挙げているが、あえて無視を決め込む。

 ぽかぽかとした柔らかい日差しが降り注いでいるこんな日は、寝るのに限るのだ。

 そんなことをしている間に、他のクラスメートはいつの間にかいなくなっていた。ななせは律義に待っていてくれている。

「‥‥‥今日ね、先輩の夢を見たよ」

「先輩? 最上級生のわたしたちに先輩なんて———」

 そこで何かに気が付いたのか、紬は髪を梳く手を止める。ななせも心配そうにこちらをうかがっている。

 教室内に流れる微妙な空気の中、紬は髪の手入れを続けた。

「はい、終わったよ。それと、わたしたち先生に聞かなくちゃいけないことがあったの忘れてた。今ならまだ間に合うと思うから、寝ぼけてるなら顔を洗ってきなさい。くれぐれも、授業には遅れないようにね」

 ポン、と頭を優しく叩いた紬は教科書類をかかえて、ななせの背を押しながら教室を出ていく。

 ガラッと音を出しながら、引き戸が閉められた。



「よかったの?」

 隣を不安そうに歩くななせが聞いてきた。

「大丈夫だって、最近は真紀も自分で教室に来るようになったし。前よりはサボるのも減ってきてるよ」

 それはそうだけど、と尚も心配そうに後ろにちらちらと視線を向けるななせ。

「真紀ってさ、まわりから分かりにくい奴だって言われるけど、実は結構わかりやすいんだよ。好きなことをしてる時は機嫌がいい、思い通りにならないと拗ねる。それが顕著なだけ。自分の気持ちを隠そうとか取り繕うとかしないんだよ。でもそれは、他人に興味がないからなんだ」

 紬は微苦笑を浮かべた。


———ああ、そうだ。真紀が今も『特別せんぱい』と呼ぶのはあの人だけだ。


 

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